長く続く戦争法案に対する闘いをやり抜くために

三上 治


 「おたまじゃくしは蛙の子 ナマズの孫でありません」という戯れ歌があるが、「やはり安倍晋三は岸信介の孫だった」ということになるのだろうか。孫にもいろいろとあるだろうが、悪しき血を引く孫というのだろう。7月15日の安保法制特別委員会の強行採決を見ての感慨である。僕は自然にあの1960年の5月19日未明の安保条約批准の衆院強行採決を思い出した。あの頃の記憶が残っている人たちは同じようなことを想起したのだと思う。

 岸がやろうとしたのは安保条約の改定であり、日米関係の関係を改善し、体裁を整えるということだったのだろうが、国民が反対したのは「戦争ができるようにする」という政治方向や姿勢についてだった。つまり、彼の政治的意図と背後の構想についてだった。アメリカの日本への軍事パートナー要請に応じながら戦争ができる国にすることで占領政策から脱却できるという岸信介の政治的構想は矛盾に満ちたものであるが、それなりの力のあるものだった。岸の構想は憲法、とりわけ9条改正である。憲法改正を目指したがその実体は戦争ができるということだ。国家主権の恢復である。

 国民の反対は日本が戦争にすることにたいしてであり、太平洋戦争にいたる15年戦争の体験が生々しくあったからだ。安保改定については議論があったけれど、安保そのものの枠を超えて日本が再び「戦争をする」、「戦争を可能にする」ということに国民は反対したのであり、この対立が安保をめぐる対立であり、国民の岸批判の眼目だった。

 冷戦構造の下で米ソの対立が喧伝され、どちらの体制を選択するかが語られ、ソ連の脅威が言われ自衛隊は北海道を中心に配備される時代だった。米ソの戦争は米ソの世界支配のための方便であり、その戦争はないと国民は認識していたように思う。米ソの戦争は虚妄であり、政治的道具に使われた、いうなら幻想にすぎなかった。その代理戦争的なものはあり、ベトナム戦争(アメリカの介入を含む)は存在した。アメリカの参加要請に応じて、我が国の存立を脅かすものとして、この戦争に加わるとしていたのが佐藤内閣だった(佐藤は岸の弟で安倍の叔父)。もし、岸の政治的構想が実現していたら、佐藤は日本のベトナム参戦に踏み切っていたと思う。1960年の安保闘争は岸の構想を挫折させた。憲法改正の道を挫いた。軽武装経済重視という国家戦略を掲げる政治的部分が登場し、日本のベトナム参戦も押しとどめられて来た。

 あれから55年、確かに世界の動きは変わった。戦後の世界に君臨したソ連は崩壊し、それを中心にする社会主義圏は解体した。かつてソ連の位置を中国が占めつつあるが、社会主義圏の形成などというものはない。アメリカの政治的・経済的力も衰退しつつある。そしてその隙間から地域紛争が複雑を増しながら進展している。世界の構図は変わりつつあるが、ある面では変わらないともいえる。それだけ複雑になったことは疑いない。

 こういう局面で登場した安倍晋三の集団的自衛権の行使容認と安保法制の提起はいったい何なのか。これは衰え行くアメリカの要請に対応し、アメリカの戦争に参加できること。これが第一にあることだ。そして、日本が戦争できる国にすることが第二にある。第一と第二に順番があるわけでも、軽重があるわけではない。しいて言えば、彼には「日本を戦争にできる国」にすること、これが戦後体制(占領軍体制)からの脱却であるという考えがあり、これが基軸であるといえる。彼の政治思想である。岸信介の血を受け継いだものである。中国脅威論は方便としてあるものといえる。

 国会の回りを歩きながら思うことは、「戦争に反対し、憲法を壊すな」という声は1960年当時と変わらないということである。他方で、かつては学生運動や労働運動に基盤を持つ左派勢力が運動の先頭にあったが、それが影をひそめたということだ。諸個人の参加、いうなら色とりどりの旗やプラカードでの構成される形態である。政治勢力に領導された大衆的運動ではなく諸個人の意思表示の結集である。これは本来の国民的な闘いであり、運動である。もちろん、これは必然であり、歓迎すべきことである。

 この政治勢力の退潮は、その中心をなした左派勢力の中で、戦争や憲法についての明瞭な考えを持っていないということのあらわれだ。「戦争に反対」、「戦争する国反対」という国民の声を、思想的に根拠づけるものを左派の政治勢力は持っていないのである。マルクス戦争論、レーニンや毛沢東戦争論はこの声に応えるものではない。これは歴史的に言えることで、現代史の中で実証できることだ。これは現在の国民的な声や意思表示が抱える課題であると思う。単純にいえば、歴史的な左右の枠組みを超えたところで戦争についての思想(哲学)を提示すべきであり、そこに現在性がある。これは原発の問題と同じである。原発と戦争の問題は同じことである。良い原発と悪い原発がないように、良い戦争と悪い戦争があるわけではない。この問いかけに応えるものはある。僕なりの考えはあるが、このことに問題の所在があることに気が付くのが先決であると語っておこう。ここでは遠くまでは行かない。

 安倍晋三の構想に対する対応にはいろいろあるだろう。それはそれでよいのだが、僕らはこの中で戦争や原発を根底から否定する考えの確立が必要だと思う。暑い夏の始まりを思わせるなか、国会前で昔の友達とエールを交換しながら、きれぎれに思ったことだ。

 (筆者は政治評論家)


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