【沖縄の地鳴り】

野上弥生子

仲井 富


●昭和天皇の戦争責任と沖縄を日記で問う
 昭和天皇の戦争責任を追及したのは作家の野上弥生子だ。中村智子著『野上弥生子の日記から』によれば、弥生子は天皇の戦争責任について繰り返し書いている。

・三百十万の民衆を殺した責任者 沖縄の悲惨を「ねぎらう」の一言

 「日比谷公園ではじめて政府主催の戦没者三百十万人の追悼式が行はれ天皇皇后は終戦が布告された11時カツキリに黙悼、追悼の言葉のあった事が新聞紙上に報じられている。しかしこの310万人の人が誰の名において死んだかをもし考へることができたなら、こんな場所にのぞむ勇気はもちえないはずであらうに。」(63・8・16)

 「三百数十万の民衆を殺した責任者が、その責任を間はれないのみか、臨席してゐるのを光栄としてゐるのだから、空虚で形式だけの記念会になるのはいっそあたりまへであらう・」(65・8・15)

 「武道館で行はれた[沖縄復帰の]祝賀会での天皇の言葉にはいまさらに驚かされたものだ。彼はオキナワ人民の今日までの悲惨な体験に対して、「ねぎらう」なる言葉しか用ゐず、また今日の復帰をもち来すまでの苦心をも「多とする」といつたのみであった。これに憤りを感じない人間はないはずだが、新聞もテレビも決してその一事には触れなかった。こうした日本を一度こさえ直さないかぎり、美しい日本もなにもあったものではない。」(72・5・18)

 「天皇が今日で歴代のどの天皇より長く在位になると発表。どの天皇もしなかった対外戦争で、あれほどの惨禍に人民を陥れて、のうのうと長生きしてゐることにおいても、他の天皇にはないものであらう」(72・6・23)

 「[終戦記念日]天皇の空虚な言葉、いつものことながら不快なおもひ。自己の責任についてはセキゲン、半句もない。』(72・8・15)

●沖縄と弥生子
 フンドーキン株式会社会長・小手川力一郎氏による野上弥生子のエピソード。氏は、野上弥生子の甥である。

 ある時、伯母から突然、お前は、会議所の会頭だそうだが、沖縄を助ける事は出来ないかと言われました。私は思いもよらぬ事を言われて、唖然としました。沖縄を助ける事は政治家のする事です。臼杵の会議所の会頭に何が出来ましょうか、認識違いも甚だしいと答えました。伯母は、会議所には全国組織がないのかと聞くので、それはあります。然し、会議所に沖縄を助けるそんな力はありませんよ、と言いました。伯母はそれっきり黙ってしまいました。私は、伯母は何とトッピな事を言う人かと思いましたが、その時の真剣な伯母の顔だけは頭に残りました。

●戦争ぎらいだった弥生子
 弥生子は戦争ぎらいでした。戦争は絶対起こしてはいけないと思っていました。朝日新聞は、毎年正月一日に新春のことばと題して多くの人の今年の願いを掲載致しました。昭和十二年の一月一日の新聞に、野上弥生子は、一つのねぎごと(神に祈る事)として「神聖な年神さまにたった一つのお願いごとをしたい。今年は豊作でございましょうか、凶作でございましょうか、いいえどちらでもよろしゅうございます。コレラとペストが一緒にはやってもよろしゅうございます。どうか戦争だけはございませんように……」

 この事は反戦思想であるとして、随分評判になりました。不幸にして、その年の七月に支那事変が始まりました。

注: 野上弥生子(のがみやえこ)、旧姓小手川、1885年(明治18年)5月6日生まれ−1985年(昭和60年)99歳没。(現小手川酒造)三代目、角三郎とマサの長女として臼杵に生まれた。本名ヤエ。15歳で単身上京、同郷の野上豊一郎と結婚したのち、夏目漱石の指導を受けて小説を書き始めた。以後、99歳で逝去するまで現役作家として、「海神丸」「真知子」「迷路」など多数の作品を発表した。昭和39年に「秀吉と利休」で、女流文学賞を受賞、昭和46年には文化勲章を受章した。


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