随想

遊就館異聞           高沢 英子

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 保育園の休みの日、孫を連れて娘と根津権現の躑躅を見に行った。そろそろ3
歳になる童は、赤い鳥居が林立する、石畳の細い参路をはしゃぎながら走り抜け
た。
 帰途、夕暮れ近くお堀端を急ぐ車の窓から、右へ、九段坂、という標識を見て、
ここを行くと、靖国神社や「遊就館」へいけるのだな、と思いながら通り過ぎた。
 内田百閒の作品の中に「旅順入場式」という短編集がある。一応小説というジ
ャンルに入っている初期の作品で、全部で二十九篇の小品集だ。作者自身が序文
の中で『ヤヤ物語ノ体ヲナセル・』/と言っている冒頭の七篇のうちのひとつが
「遊就館」という短編である。

 百閒は夙に随筆家の名が高く、「旅順入場式」も、作者が物語と銘打っている
ものの、明確に物語、もしくは小説と言いきれないようなものが多い。だが、そ
れにしてもこの一連の作品は、なんとも不思議に不気味な世界が、次から次へと
繰り広げられる怪奇趣味の濃いものである。あたかも、ボルヘスの詩文集を連想
させられるような味わい深いものだが、もっと即物的で,あれほど衒学的華やか
さはなく、哲学めいた奥行きもない。しかし、それだからこそ、余計その現実的
写実はなまなましさを増しているといえる。初版は1934年、昭和9年である。
 その後1990年になって岩波文庫に、処女作の「冥途」という、やはり短編集
といっしょに合本で収められた。その機会に、旧仮名ずかいが改められ、戦後世
代に読み易いものに変えられたが、ということは、作品の雰囲気が希薄になり,
其の分軽快に成ったということでもあり、著者が世に在れば不服を唱えたかもし
れないが、却ってより現代的な新しさを感じさせるものになっている。

 元来私は気味悪い話などの嗜好は人一倍無いほうで、回りくどい言い方をしな
くとも、大変怖がりで、お化け話は生理的に好まない。
 ただ、内田百閒のこの一連の作品は、そうしたお化け話とは一味違う。彼が漱
石門下の文人であることから、「夢十夜」の影響も言われているが、私の感じでは、
漱石のほうがもっと直接的に怖い。百閒のそれは、いわば、人の世に薄い膜のよ
うにかかっていて、心に、もやもやした不安や、もどかしさ、得体の知れない不
快、といった説明し難い感覚として漂っているものの正体を、不意に、ひょいと
暴いて見せるような、しかも暴かれたものが、思いがけない様相を帯びてひろが
り、ときに冥界とこの世との通路が自在で、読むものにいわく言いがたい不安を
かきたて、異界の奥の深さを考え込んでいるうちに唐突に終わる、といったもの
が多い。それに加え、先ず作者のほうが、怖い怖いとおじ気づいていて、読者は
読んでいるうちに、いつの間にか、語り手の気分に同化してゆき、思わず四方八
方を見回してしまうというあんばいなのである。
 漱石はいかにも華麗な色彩の鮮やかな文人的筆致で読者を惹きこむが、こちら
のほうは何がなんだか支離滅裂の成り行きにぞくぞくしているうちに謎のまま
で放り出される。それでいて当時の世相が浮き彫りになって、透けて見えてくる
仕掛けになっているのは、やはり文芸にとっては欠かせぬ、描写の誠実さのゆえ
だろう。

 「遊就館」を少し辿ってみる。
 午すぎから雨が降り続いている。部屋にひとり座って、雨の音を聞くともなし
に聞いているのは、多分作者の分身と思しい一人の男である。ふいに雨がはたと
やむ。玄関に来客がある。大正か昭和初期の東京の普通の暮らしの情景である。
 だが、この何年か前、大震災があり、百閒は前作の「冥途」の紙型を消失して
いる。序文にいう
 『爾後マタ十年筆ヲ噛ミ稿ヲ裂キテ僅かに成るトコロヲ本書二収メ書肆ノ知遇
ヲ得テ刊行スルニ際シ文章ノ道ノイヨイヨ遠クしシテ嶮シキヲ思ウノミ』
 大震災で東京はすっかり変わってしまった。 
 来客は軍人で砲兵大尉を名乗っている。主人公には覚えのない人物だが、大尉
のほうは東京転勤をきっかけに立ち寄ったといい、「東京も変わりましたですな」
などと懐かしげで、「先生はいつもお達者ですか」などと変な挨拶をする。そし
て「昨日九段坂でお見受け致したものですから」、などと言い出す。主人公は昨
日九段坂へは行った覚えがなく、冷やりとする不快感に襲われる。段々、場面が
暗い不吉な様相を帯びてくる。歌声が聞こえ、(どうやら軍歌の類らしいと推測
される)大尉の顔はますます青ざめていく。そして、いつの間にか頁から姿を消
している。いつどこへ、の説明は一切ない。多分語り手にも分からないのだろう、
と読者は納得させられる。物凄い雨の音。汗びっしょりの主人公、・・・どこか
でぽたぽたと天井に雨の漏る音。当時日本のどこにでもある風景だ。昭和の日本
では、たいていの家では大雨で雨漏りした。

 2節目は「私は大風の中を歩いて遊就館を見に行った」という描写で突然始ま
る。そして「九段坂は風のため曲がっていた」以下なにやら不可解な描写が続く。
 関東大震災で大破した遊就館が、再び装いをあらためて開館するのは昭和7年
のことである。百閒がこの一文を書いて上梓したのは昭和9年で、おそらく再建
されたばかりの遊就館を見に行ったのだろう。
 八節からなる物語の背景に時代の様相が浮かび上がる。
 昭和6年に起こった満州事変、満州国建設、さらに翌7年には上海事変、同年
5月には青年将校たちによる犬養首相暗殺事件が起こる。軍部によるアジア侵略
の野望はとどまることを知らない。言論の弾圧は学問の世界にも及び、京大の滝
川教授が追われるいわゆる滝川事件、共産主義者の転向が相次ぐ。知識人たちは
ひたすら無力だった。昭和2年には親友、芥川龍之介が自殺している。二人とも
陸軍学校、海軍兵学校,などの教官を勤め、百閒は陸軍砲工学校でも教鞭をとっ
たことがある。
 「遊就館」に出てくる砲兵大尉、文中で遊就館の入口をふさいでいる大砲の弾
と馬の脚の山。ガラス戸棚に累々と重なり合う軍服の死体。逃げ出そうとする
「私」の背後に薄煙を吐く巨大な大砲・・・。これは彼自身の当時の環境と無縁
ではないだろう。

 作品は、昭和初期という時代、時代への怒りや批判を心に鬱積させた著者が、
独特の一種とぼけた表現をかりて、不気味にそれらを噴出させたものではないか
という気がしてならない。世の風潮に,いたずらに掻痒する文人の、やるせない
名人芸というべきか。もはや文学で真っ向から立ち向かうすべは奪われている。
たとえ命を賭けてみても、所詮無駄は明らかだ。文書は次々発禁になり、まとも
に物の言えなかった時代、怖い事を怖いといえず、いやなことを否と言えず、可
笑しい事も可笑しいと言えずに立ち竦んでいた暗い世の中で、裸の王様の子供の
ように、一途に我意を押し通したこの奇人によって、不器用に作られたお化け話。
これでは、軍も官憲も、告発のしようが無かったであろう。彼らは気が付きもし
なかったかもしれない。
 
「海峡の両側で靖国を考える」のなかで西村徹氏が書いておられる遊就館の際
立った醜さの雰囲気が、寓話の形で、怪奇漫画のように生々しく定着させられて
いる、と思わずにいられなかった。現実の世が決して平和でなかっただけに、そ
れは、かなり血腥くおどろおどろしいものではある。しかし、それかといって、
どこといって、呼びつけて叱り飛ばすたねは見つからない。現実的であって非現
実、すべてはガラス戸の向こうの影絵のようなお話なのである。

 それにつけても、最近の政府発表の諸文書は、当時、昭和九年に発行された「国
防ノ本義ト其の強化ノ提唱」なるパンフレットに、どことなく似通ったにおいが
するのは不気味である。
    (筆者はエッセスト 東京大田区在住) 
  
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