【コラム】
大原雄の『流儀』

車寅次郎:「50年かけて作られた映画」

大原 雄

 「50年かけて作られた映画」という触れ込みの映画がある。『男はつらいよ 50 お帰り 寅さん』である。50作品目の「男はつらいよ」は、2019年、今年の12月27日に、正月映画として、ロードショー公開・封切り上映される予定である。

◆ 第32回東京国際映画祭で上映

 『男はつらいよ 50 お帰り 寅さん』は、正月のロードショー公開を前に、第32回東京国際映画祭のオープニング作品として一足早く上映された。「男はつらいよ」が、1969年に初上映されて以来、2019年は、50周年を迎えたことになる。50年経っても新作を生み出した映画という怪物的な作品群を誇る「男はつらいよ」。出演者は、今は亡き俳優が多いのにも関わらず、存命中の俳優と新たに参加した俳優で「新撮」された映像と4Kデジタルという技術を使って、修復されたシリーズのアーカイブ映像・音源を紡ぎ合わせて、新しい物語をスクリーンに蘇らせたというわけだ。この上映は、11月の東京国際映画祭でも、話題に上った。「男はつらいよ」とは、どういう映画だったのだろうか。

 映画「男はつらいよ」は、そう、誰もが知っている、あの映画である。山田洋次監督作品。出演は、主役の寅さんを演じた渥美清。1928年生まれ、1996年に逝去(享年68)するまで、車寅次郎を演じ続けた。この映画の第1作から第49作(渥美清の生身の出演は、1995年12月公開の第48作まで。第49作は、4Kデジタル技術処理で製作された「特別篇」。50作目も、同じ技術と演出で、作品公開に漕ぎ着けた)まで、すべての車寅次郎は、渥美清であった。

贅語;「4Kデジタル処理」。
 「4K」とは。画面の解像度の精密さを示す。最新のデジタル処理技術で、画面の細かい部分まで表示できるようになった。映画製作会社では、この技術を使って、35ミリの古いオリジナル・ネガ映像の劣化やキズ、退色を、音源では、電源、カメラ、光学編集などのノイズを除去できるようになり、色や色感のレベルを上げ直すことができるようになった、という。

◆ 映画「男はつらいよ」(全50作品)に出演し続けたのは、何人? 誰?

 主役の渥美清と並び、公開された50の全作品(1969年8月~1995年12月までの48作品、特別編は、1997年と2019年の2作品)に出演したのは、2人だけ。果たして誰か。誰もが思いつくのは、車寅次郎の妹役のさくらを演じた倍賞千恵子だろう。加えて、その恋人から夫になって、満男の父親になって、山田洋次監督の生涯のテーマ「家族」を形成し続けた諏訪博を演じた前田吟。そう、この映画の軸になって、脇を固めながら出演し続けたのは、倍賞千恵子、前田吟。それに、第48作までは、すべて出演した団子屋のおばちゃん役の三崎千恵子。三崎千恵子は、2012年、逝去。第49作、第50作では、映像で登場。

 加えて、同じくもう一人。第49作、第50作では、生身での出演こそ叶わなかったが、映像で登場した主人公・車寅次郎役の渥美清。そう、公開された「男はつらいよ」映像出演も含めて50の全作品に出演したのは、この4人だけ。山田洋次監督自身も、第3作、第4作では、監督をやっていない。監督リストから、抜けているのである。

◆ 花田秀次郎から車寅次郎へ ~男気の伝承~

 1969年3月。私は、大学を卒業した。その年、「男はつらいよ」が、2作品公開された。第1作は、『渥美清の 男はつらいよ』で、第2作は、『続 渥美清の 男はつらいよ』であった。
 私の大学時代。1965年から69年まで。66年の入試が授業料反対「大学改革」闘争の標的となり、大学内部では、学部学生の学年末試験が標的となり、ボイコットされたりした。試験は、リポート提出に切り替えられた。66年以降、大学改革を求める「大学闘争」が次々と連鎖して、各大学で起こっていった。早稲田大学の授業料値上げ反対闘争、日本大学の、東京大学の、69年は入学試験が阻止された。安田講堂の攻防をめぐる闘争もあった。

 そういう時代背景の中で、映画「男はつらいよ」が、産声をあげた、というわけである。「男はつらいよ」が、公開される前、私は、受験勉強から解放された「解放感」のままに、1965年から、それ以前にも増して映画を見るようになった。ATG(アート・シアター・ギルド)の映画館「新宿文化」では、大島渚監督作品、篠田正浩監督作品などの「日本流ヌーベルバーグ」と言われた若い監督たちの日本映画作品を熱心に見た。大手を離れた監督たちは、「独立プロ」という映画製作集団を、それぞれ作って行った。

贅言;ATG(「エイ・ティ・ジ」。「アート・シアター・ギルド」)。
 正式名「日本(にほん)アート・シアター・ギルド」(にほんアート・シアター・ギルド)は、1961年から1980年代にかけて存在した日本の映画製作会社。私たちは、議論では「ATG(エイ・ティ・ジ)」という略称で、使っていた。
 ATGの、アートとは、良質の「アート系映画」という意味で、より多くの人々に映画を届けるという趣旨のもとに設立された。会費を払う会員制度の導入も珍しく、ほかでは上映しない映画を割安で観ることが出来るようになったため、ATGは、私たちを含め、1960年代から70年代の若者たちの支持を得た。
 1960年代から70年代というと、若者の間では「大学闘争」などの「学生運動」、アメリカによるベトナム侵攻に反対する「ベトナム反戦運動」などが、盛り上がった時代であった。若者たちの精神的な支柱となった活動の一つとして、シリアスな、アバンギャルドな、あるいは、オルタナティブな、志向を掲げるATG映画に対する共感や関心は高かったし、広がりを見せていた。当時は、主要な大学が都心に残っており、新宿が若者文化の中心となっていた。ATGの最も重要な上映館であった「新宿文化」は、話題の映画の上映となると満員の盛況であった。

 ATGの活動は、主に外国映画の配給を行っていた第1期(1961年から67年)、低予算での映画製作を行った第2期(67年から79年)、若手監督を積極的に採用した第3期(79年から92年)に大別することができる、という。
 第1期のATGの活動は、主に外国の芸術映画の配給・上映であった。フェリーニやゴダールの映画を私も、「新宿文化」で見た。
 特に、私たちの青春時代と重なる第2期では、東映や松竹など大手の映画会社とは一線を画す非商業主義的な、芸術至上主義的な映画を若手の監督らに作らせ、配給していて、日本の映画史上に大きな足跡を残した。私たちの世代は、ATG作品は青春時代の記憶とダブル傾向がある。特に、後期には若手監督を積極的に登用し、大島渚、吉田喜重、篠田正浩など、後の日本映画界を担った監督たちにチャンスを与えた。

 その一方で、当時の私たちは、東映が路線をしいていた「任侠映画」も見逃さずに見たものだ。当時、私たちはマルクス・エンゲルスの著作(特に、初期のもの。「初期マルクス」の諸著作)を読みながら議論をし、その延長線上に任侠映画を観に行き、酒を飲んで、また議論をした。

贅言;「任侠映画」。
 日本映画のジャンルの一つ。1960年代から70年代にかけて、東映京都撮影所を中心に量産された映画。それまでの、「股旅もの」や「時代もの」という作品設定に代わって、「ヤクザもの」として描かれた。明治から昭和初めという時代設定で、流れ者のヤクザが主人公を演じる。世話になった一宿一飯の恩義をベースに最後には、苦境に立つ恩義先を助けようと、義理人情に駆られて、主人公は助っ人を決意し、死地に赴いて行くという筋書きが多かった。「勧善懲悪」などが基本理念。「博徒」、「日本侠客伝」、「昭和残侠伝」、「博奕打ち」、「緋牡丹博徒」などのタイトル映画がシリーズ化されて、大ヒットした。
 例えば、映画『昭和残俠伝』では、高倉健、池部良、鶴田浩二などが出演した。資本主義に熱心な(つまり、悪巧みをしてまで、己の資本を増やそうとする)近代的な(つまり、悪い、非道な)ヤクザ者と、古い任侠道に縛られた前近代的な(つまり、善良な、人情をわきまえた)任侠者が対立し、苦境に陥る。流れ者の高倉健らが、一宿一飯の恩義に応えるべく、悪いヤクザ者を挫き、任侠者を助けるというワンパターンの映画も愛した。我慢に我慢を重ねた高倉健は、憎しみを沸点まで持ちこたえる。その挙句の噴火。任侠映画の主人公たちは、弱い者いじめのヤクザは否定していた。
 1969年、東大の安田講堂攻防戦で、警察権力の圧倒的な武装の前に、学生側、当時は、全学共同闘争委員会(略して「全共闘」と言った。全学部の共闘委員会を束ねた、というイデオロギー)が、敗れ去っていった。そういう心象風景を任侠映画が、代弁していたのだろう。

 私から見れば、高倉健が去って、「男はつらいよ」の渥美清が登場したという意識が強かった。渥美清が演じる車寅次郎も、テキ屋だから、ジャンルは、どちらもヤクザ者に入るだろう。映画の主題歌の文句。「義理が重たい男の世界」。義理が人情より優先される世界に生きる男たちの苦悩。車寅次郎が時折見せる「男気」は、ヤクザ者の任侠道に親近感を持つ。映画のスクリーンから正義漢・花田秀次郎(高倉健の代名詞になった登場人物の名前)が去って、大衆に親しみを持たれるヤクザ者・車寅次郎が登場した、というわけだ。いわば、「男気の伝承」。当時の私の意識では、車寅次郎は、花田秀次郎に繋がってくる。

◆ 東京国際映画祭で「男はつらいよ 50」上映

 『男はつらいよ 50 お帰り 寅さん』は、今年の、第32回東京国際映画祭で、オープニング作品に選ばれた。東京国際映画祭は、10月28日から11月5日まで、東京の六本木を主会場に開催された。オープニング作品は、会期の初日に上映された。

 最新作『男はつらいよ 50 お帰り 寅さん』の粗筋をコンパクトに紹介しておこう。

 サラリーマンが向かなかった甥の満男が主人公。なぜか、小説家に変身している。結婚し、娘を設けたが、6年前に妻に先立たれた満男(吉岡秀隆)は、中学3年生の娘とマンションで生活している。一方、柴又・帝釈天の参道にあった団子屋「くるまや」は、おいちゃん・おばちゃんも亡くなり、店も無くなった。団子屋はカフェになり、親戚が経営している。その店の裏手にある満男の実家では、母親のさくら(倍賞千恵子)と父親の博(前田吟)が暮らしている。亡き妻の七回忌の法事が実家で行われることになり、満男は、久しぶりに伯父の寅次郎のことを思い出す。そこで、寅次郎の在りし日のエピソードがスクリーンに再度登場する、というのが、演出の根幹である。渥美清は、思い出や夢の中で姿を見せる。

 都内の書店で行われた満男のサイン会(会場は、八重洲ブックセンターが想定されている)。その会場に、満男の初恋の人・イズミ(後藤久美子)が、海外から戻ってきた。イズミは、現在、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の職員として、海外に駐在している。結婚もしている。出張で帰国し、滞在中に、たまたま満男のサイン会を知ったのだ、という。声をかけてきたイズミを満男は、「逢わせたい人がいる」と誘い、リリー(浅丘ルリ子)が経営する近くのジャズ喫茶に連れて行く。リリーは、今は亡き寅次郎を思い出す。リリーの思い出の中に寅次郎が現れる。昔の映画のシーンが、使われる、という趣向だ。

 満男を軸とした懐かしい人たちとの時間。それぞれが、寅次郎を思い出す。第第49作で使われた満男の夢という演出手法が、第50作では、複数で活用される。それでいて、違和感を感じさせずに、物語は、再構成された。

 「男はつらいよ」の全50作品のラインナップを記録しておこう。サブタイトルには、いつも苦労している様子がうかがわれる。

第1作「渥美清の 男はつらいよ」(山田洋次監督)
第2作「続 渥美清の 男はつらいよ」(山田洋次監督)
第3作「男はつらいよ フーテンの寅」(*森崎東監督)
第4作「新 男はつらいよ」(*小林俊一監督)
第5作「男はつらいよ 望郷篇」(山田洋次監督に戻る)
第6作「男はつらいよ 純情篇」(以降は、すべて山田洋次監督)
第7作「男はつらいよ 奮闘篇」
第8作「男はつらいよ 寅次郎恋歌」
第9作「男はつらいよ 柴又慕情」
第10作「男はつらいよ 寅次郎夢枕」

第11作「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」
第12作「男はつらいよ 私の寅さん」
第13作「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ」
第14作「男はつらいよ 寅次郎子守唄」
第15作「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」
第16作「男はつらいよ 葛飾立志篇」
第17作「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」
第18作「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」
第19作「男はつらいよ 寅次郎と殿様」
第20作「男はつらいよ 寅次郎頑張れ!」

第21作「男はつらいよ 寅次郎我が道をゆく」
第22作「男はつらいよ 噂の寅次郎」
第23作「男はつらいよ 翔んでる寅次郎」
第24作「男はつらいよ 寅次郎春の夢」
第25作「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花」
第26作「男はつらいよ 寅次郎かもめ歌」
第27作「男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎」
第28作「男はつらいよ 寅次郎紙風船」
第29作「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋」
第30作「男はつらいよ 花も嵐も寅次郎」

第31作「男はつらいよ 旅と女と寅次郎」
第32作「男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎」
第33作「男はつらいよ 夜霧にむせぶ寅次郎」
第34作「男はつらいよ 寅次郎真実一路」
第35作「男はつらいよ 寅次郎恋愛塾」
第36作「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」
第37作「男はつらいよ 幸福の青い鳥」
第38作「男はつらいよ 知床慕情」
第39作「男はつらいよ 寅次郎物語」
第40作「男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日」

第41作「男はつらいよ 寅次郎心の旅路」
第42作「男はつらいよ ぼくの伯父さん」
第43作「男はつらいよ 寅次郎の休日」
第44作「男はつらいよ 寅次郎の告白」
第45作「男はつらいよ 寅次郎の青春」
第46作「男はつらいよ 寅次郎の縁談」
第47作「男はつらいよ 拝啓車寅次郎様」
第48作「男はつらいよ 寅次郎紅の花」
 *生身の渥美清出演は、ここまで。

第49作「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇」
第50作「男はつらいよ 50 お帰り 寅さん」
 *この2作は、4Kデジタル技術を生かし、過去と現在を融合させる、という新しい演出法(例えば、第49作では、寅次郎の甥の満男が、伯父の夢を見たり、思い出を回想したりする場面で、古い映画のシーンが再活用される、という方法である)を可能にした。

 「男はつらいよ」は、もちろん、車寅次郎物語であるが、映画のロケ地を拾って行くと、日本列島の各地を隈なく巡っていることが判る。いわば「日本列島紀行もの」として、各地の景色、そこに住まう人々の人情(各地の人情をモデルに役者たちが再現する)を描いた。また、寅さんの職業、テキ屋商売らしく各地の夏の祭りと初詣の人波などがラストシーンなどに記録・点描されている。当初こそ、年に3回も作品が公開されていた時期(70年は、第3作から第5作まで。71年は、第6作から第8作まで、それぞれ年間3回製作公開。第3作は、森崎東監督作品。第4作は、小林俊一監督作品。第5作以降は、再び、山田洋次監督作品)があるが、その後は、基本パターンとして、正月とお盆の休み向けに公開されるようになった。したがって、安定期に入った「男はつらいよ」には、ラストシーンで各地の夏祭りと初詣がよく描かれる。

 ここで映画のロケ地をチェックしてみると、北は北海道の各地から南は沖縄まで。本当に日本列島を縦横にロケしているのが、判る。撮影したロケ地は、第1作の東京都(豊島区、大田区)、京都府(宮津市・天橋立、京都市)、奈良県(奈良市、斑鳩町)から始まり、1都1道2府40県に及ぶ、という。ウイーンなど、海外ロケもある。そういう意味で、「男はつらいよ」は、ある意味で、観客たちの「ご当地もの」という要素があることも見逃せないだろう。

 当初は、啖呵を切ることを武器にした漂白の「売人」寅次郎が、名所旧跡を廻ったが、作品群が、50作にも上るようになると、むしろ、映画のロケ地が名所になるという逆転現象が起きるようになる。寅次郎が立ち寄ったローカルなバス停や駅舎が、「男はつらいよ」の撮影地として名所になり、石碑なども建てられている場所もある、という。
 『寅さんの「日本」を歩く』という本がある。その本の宣伝文句には、以下のような惹句がある。「寅さんのロケ地330カ所あまりをつぶさに紹介。すべての寅さんファン待望の聖地探訪ガイドが登場!」。
 「男はつらいよ」のロケ地が、名所になり、さらに「聖地」になっている、というのは、逆転現象以外のなにものでもないだろう。

◆ 車寅次郎と源公

 倍賞千恵子、前田吟(全作品出演)/渥美清、三崎千恵子、太宰久雄(48作品出演とその後の映像出演を含む)に次ぐ回数を誇る「男はつらいよ」の出演役者は、誰であろうか。「男はつらいよ」シリーズの出演では、1回だけ「欠席(休演)」しただけだ。残りの49回は出演している。誰だか、判りにくいかもしれない。が、聞いてみれば、そうだと合点が行く役者である。さて、誰だろうか?

 それは、佐藤蛾次郎である。いつも、「柴又 題経寺」の紺地に白抜き文字の半纏を着て、帝釈天の境内を掃いている寺男、あの男である。「ふうてん」の寅さんは、柴又を軸(中心点)にしながらいくつもの同心円を描くように、全国、いや、海外にも漂泊した。ときどき、同心円の内径を変えて、柴又からの距離が近間だったり、遠かったりする。寅さんの描く円は、バラエティに富む。
 ところが、あの男は、軸となる帝釈天からブレない。内径をブレるにしても、柴又の商店街か、江戸川の河川敷辺りまでである。いつも同じ場所にいて、同じステータスから柴又の街や人々を観察している。あるいは、寅さんウオッチャーとして、寅さんの柴又での出入りをウオッチングしているように見える。その上、まるで、50年をタイムトンネルで移動してきたような、つまり、「成長していかない」(ステータスを変えない)ように見える男が、あの男、「源公」(愛称というか通称。本当は「源吉」)である。成長していないような人物なので、年も取らないように見える、あの不思議な「永遠の青年」の寺男が、源公なのである。

 源公を演じた佐藤蛾次郎は、第8作『男はつらいよ 寅次郎恋歌』(共演は、志村喬、池内淳子ほか。「とらや」の主人・おいちゃんを森川信が演じた最後の作品)にだけ、出演していない(ポスターには、佐藤蛾次郎の名前がある。実は、出演予定だったのだが、映画撮影の直前に、交通事故に遭って骨折をしたため緊急入院となり、出演していない。これについて、佐藤蛾次郎は「(自分が)助手席に乗っていたBMWが、100キロの速度でガードレールに突っ込んじゃった。肋骨が5本折れた。2ヶ月の重傷ということで、映画には、ワンカットも出られなかった。しょうがないね」と、語っていたという)。佐藤蛾次郎は、残る49本の作品には、すべて出演している。50作目の『男はつらいよ 50 お帰り 寅さん』にも、もちろん、生身で出演している。あの世から戻ってきた寅さんは、源公に出会うと、こう言うのではないか。「よう。相変わらず、バカか」。それを聞いた源公は、顔をくしゃくしゃにしながら、こう言うだろう。「アニキー」。そして、泣き笑いをするだろう。

◆ 心に残る脇役たち

 ここで、脇役を紹介しておこう。帝釈天の寺男・源公を演じ続けた佐藤蛾次郎は、既に触れたので、重複を避けるため、ここでは除く。各回のマドンナ役も、よく話題になるので除こう。

 団子屋「とらや」(屋号の「とらや」は、第39作まで、第40作以降は、「くるまや」に変わる)の主人・おいちゃんは、3人がリレーした。森川信は、第8作まで。1972年、60歳で逝去。二代目の松村達雄は、第9作品から第13作まで、合わせて5作品。以後、別な役柄で出演し続け、2005年、90歳で逝去。三代目の下條正巳は、第14作から第48作まで、35作品。04年、88歳で逝去。
 おばちゃんは、三崎千恵子。12年、91歳で逝去。三崎は、第48作まで、48作品のすべてに出演。第49作、第50作は、映像出演。

 団子屋の裏の印刷工場の社長を演じた太宰久雄は、98年、74歳で逝去。太宰も、第48作まで、48作品のすべてに出演。87年頃から体調を崩していたが、山田洋次監督のたっての懇請で出演し続けたが、出番は少なくなっていた、という。第49作、第50作は、映像出演。社長は、役名の「桂梅太郎」としてよりも、愛称の「タコ社長」として知られるが、これは、いつもの「立ち回り」の撮影中に渥美清が思わずアドリブでつけた、という。
 帝釈天の御前様を演じた笠智衆は、93年、88歳で逝去。第45作まで出演。第49作、第50作は、映像出演。
 第46作は、御前さまの娘・冬子が、自分の娘を連れて里帰りし、寅さんと再会する場面があるが、午前様は不在のまま。

 第48作まで全出演は、5人。渥美清、倍賞千恵子、前田吟、三崎千恵子、太宰久雄(うち、50作品まで全出演は、倍賞千恵子、前田吟の2人)。47回出演が、佐藤蛾次郎(ただし、第50作までは49回出演)。45回出演が、笠智衆。映像出演を含めれば、渥美清、三崎千恵子、太宰久雄の3人は、50作品全出演。

◆ 渥美清演じる寅次郎の最後のメッセージ

 生身の渥美清が出演している最後の作品は、第48作『男はつらいよ 寅次郎紅の花』。1995年の「阪神淡路大震災」の被災地の一つ、神戸の街頭に立つ寅さんの「皆様、本当にご苦労様でした」という被災地の人々への労りの科白は、車寅次郎としてよりも、俳優・渥美清としての、「男はつらいよ」シリーズをこよなく愛した観客への最期のメッセージとなった。

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)、日本ペンクラブ理事、『オルタ広場』編集委員)

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