袴田事件検察即時抗告の意味するもの
—袴田無実を35年前に明らかにした著者は訴える!—

高杉 晋吾

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 検察、即時抗告は、
  権力のでっち上げ自由自在体制の安倍政権のもとでの維持発展宣言だ。
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 私は合同出版社(千代田区神田)で、私が35年前に発表した袴田巌無実の完璧な立証である『地獄のゴングが鳴った』(三一書房81年11月刊)を、そのままに、しかし2014年の現実に照らして新しい視点を付け加えて今年の前半に発表する。
 48年も無実の袴田巌を獄中に閉じ込めた日本国家権力の汚辱に私は、身も震える怒りを抑えることができない。しかし、「地獄のゴング」に書いた日本の国家権力の国民を専横支配する仕組みは、半世紀後の今も全く変わっていないどころか、出版後35年もたった現在も『暴走専制支配』の安倍晋三政権によってますます悪質化している。
 憲法改悪による人権侵害や軍国主義への引きずり込み、TPPによる巨大産業優先と農民差別の深化、アメリカが戦争すれば、どこであろうが日本の若者や家族の悲嘆を踏みにじってその戦争に参加するという集団的自衛権への暴走、核の平和利用という原発の偽装さえはねのけて核の戦争と軍事利用を宣言した『原子力基本法』の改悪、こういう挙げればきりのない抑圧状況が我われの周辺にみなぎっている。

 この状況を見事に象徴しているのが、NHKの籾井会長の発した『国が右だというものを左だというわけにはいかんだろうが』という発言である。これは実に正確に権力屈従の日本マスコミの正体を言い表している。
 「国が袴田巌を殺人犯だというものを、無実だというわけにはいかんだろうが」
 籾井NHKの発言は、自分がマスコミの権力支配のために派遣された人物であることを自己暴露している。
 私の『地獄のゴングが鳴った』はこのからくりに対する事実の裏付けと立証による抵抗と反撃であった。

■1966年8月29日、袴田を殺人犯に仕立てる期限がきた!

 冤罪は日本国国家を支える支柱である。政官財による国民差別としての冤罪あればこそ日本は立国している。これが日本国警察、検察と癒着するマスコミの存立基盤なのだ。
 1966年(昭和41年)8月29日という日は、マスコミと警察の袴田巌を味噌会社一家殺人犯として『何としても追い詰めよう』と決心し、その後、検察がこれを受け継ぐことになった記念すべき日である。これが当時の捜査記録に生々しく報告されている。今回はこの報告をする。
 2014年3月31日、何としても日本国の冤罪づくりの土台を守り、被差別者を陥れ、断固として袴田を殺人犯とするために検察が決心し袴田が清水の味噌会社一家殺人を犯した犯罪者であることを改めて宣言した日である。日本国民はこの二つの日を心に刻むべきだ。ところで1966年8月29日に何があったのだろうか? 袴田事件に関してあった事実を簡単に述べてみよう。

■『袴田事件の無実の完全な証拠』としての「地獄のゴングが鳴った」

 1966年(昭和41年)8月29日という呪われた日付の捜査記録と袴田のフイリッピン国際試合の真実と虚偽、マスコミ発表と捜査報告書の日付けの薄気味悪い完全一致がある。警察のでっち上げは新聞記事と完全に一体であり、袴田事件の冤罪のすべてはここから出発している。
 私の袴田事件のすべてを描いた『地獄のゴングが鳴った』(三一書房、1981年刊)の266ページの捜査記録と毎日新聞の記事を並べて比べてみてほしい。
 冤罪事件は警察のでっち上げとマスコミの癒着から始まることが分かるだろう。

 1966年8月29日、毎日新聞静岡版は次のように報道した。『袴田の取り調べ、第二ラウンドへ』「袴田巌が逮捕されてちょうど10日目、この間、袴田は捜査当局の鋭い追及に壁際まで押されながら、依然として口を割らず、雑談以外は一切“知らぬ存ぜぬ”を決め込んでいる」。(中略)「おれのパジャマに血が付くはずがない」とか「アリバイはある。良く同僚を調べてくれ」の一点張り。
 そして『袴田のうそつきも相当なものらしく、雑談の中でボクシングの選手当時、マニラに遠征したあのころが懐かしいとさも思い出にふける様子。刑事が調べたところ、袴田は一度も海外に遠征したことはなかった。『話がボクシングに触れるとまるで人が変ったように喋りまくっているが、おそらくは大半が嘘だろう』と係員もあきれ返っている」と。

 私が袴田の冤罪を調査し始めたのはこの記事が端緒であった。一人の人間が殺人犯であるかどうかは、ジャーナリズムならば裏付けを調べる義務がある。私の調査経過は省略するが、袴田はマニラに遠征していたし、他のボクサーたちとマニラで試合をしていた。このことを調べるのは全く簡単な話であった。
 この簡単な調査をせずに刑事の言うことをそのまま袴田を凶悪な殺人犯とする記事を書いた背景が問題であろう。その記事が出たのが1966年8月29日なのである。

■捜査報告書が自己暴露した袴田犯人説のでっち上げの真相

 ところでこの1966年8月29日は警察にとって、袴田殺人犯として陥れる、ぎりぎりの日であった。その日付に関して捜査報告書は書いている。
 『初日の取り調べには終始反抗的』
 『8月22日には弁護人が面接、“おれにも味方ができた”と意気揚々』『調べ官が事件を追及して急所に触れると黙秘権』『拘留期限がだんだん切迫してくるし係官も焦りの色が見え始めた』
 『8月29日、静岡市内の本件警察寮芙蓉荘において本部長、刑事部長、捜一、鑑識遼課長をはじめ、清水署長、刑事課長、取り調べ官による検討会を開催、(中略)袴田の取り調べは条理だけで自供に追い込むことは困難であるから取調べは確固たる信念を持って、犯人は袴田以外にはない、犯人は絶対に袴田に間違いないということを強く袴田に印象付けることに努める』などと報告している。
 こういう状態で1966年8月29日、「袴田はうそつきだ」という記事が毎日新聞静岡版に出て、捜査報告書にも1966年8月29日についての報告が行われたのである。

 皆さんが何かの事件で逮捕されたとき、警察の幹部たちは証拠もなしに寄ってたかって『絶対にお前は凶悪犯だ』と決めつける。その後に証拠はねつ造される。犯人かどうかを客観的に証拠に基づいて調べるのではなく、あなたが犯人だと決めつける確固たる信念で取り調べるという赤裸々な報告書がこのように存在するのである。それを否定すれば、うそつきだということになり、マスコミもあなたを「うそつきだ」と報道する。
 そうして犯行着衣、凶器、犯行侵入口などについて証拠のねつ造が好き勝手に行われる。袴田はこのようにして、警察とマスコミの暗黒の落とし穴にはまって48年間、ギネスブックに記録される暗黒の虜囚とされてきた。NHKの籾井会長は『政府が右だというものを左だというわけにはいかんだろうが』、とうそぶいたままである。安倍晋三はまさにこういう人物をマスコミ支配に充てているのである。

 私はいくつもの事実を掘り起こした。
 殺人の証拠とされた五点の着衣、その着衣を隠匿したとされる味噌タンクのからくり、犯行の侵入脱出口とされた裏木戸、殺人の凶器とされるくり小刀、数々の偽装をすべて見破って反論の余地もないまでに私は仲間たちと実験を行い『地獄のゴングが鳴った』で描き切った。

 私の袴田無実の立証は特に着衣の問題に顕著に力点が置かれている。
 犯行着衣の問題は、摩訶不思議な変転をたどっている。当初パジャマを着て犯行に及んだとしていたが、後にスポーツシャツに肌着、ズボン、ステテコ、緑色のブリーフ、そしてスポンジゴム草履が犯行着衣だとされるという奇妙な変転をたどっている。
 そして、後に、事件から1年2カ月後に味噌工場の味噌タンクの中から前記五点の着衣が忽然と発見され、これが袴田の犯行の決め手とされた。
 この五点の着衣は袴田によって工場の味噌タンクに隠されたとされているが、袴田が犯行を行って後に味噌タンクに隠す時間もない。第一に重要なのは警察の捜査班の捜査責任者が事件後、この味噌タンクを何度も探したが着衣などは発見されなかったと証言していることである。事件後何度も捜査したが発見されなかった味噌タンクから事件後一年半後に忽然と五点の着衣が現れるはずがないのである。

 私はその詳細をここで描きつくせないが、簡単な捜査員の証言を紹介しよう。
 朝日新聞遠州版(1968年12月22日)県警刑事部長池谷真二氏の証言。
 『事件後の昭和41年7月4日の捜索ではもちろん、タンクの中を捜したさ。その時は何もなかった。』
 袴田の死刑判決では『捜査班はタンクの中を捜さなかった』とされており、だから隠された五点の着衣は発見されなかったとされているが、この死刑判決そのものが嘘だということが分かる。事実は警察は綿密に捜索したが、後に着衣が発見された味噌タンクからは池谷氏を責任者にする捜査班は何も発見していなかったというのが真実である。したがって、事件から1年2カ月もたって発見された着衣は袴田を殺人犯に仕立てたいものの工作だということは明らかである。これは拘留期限が切れるので焦っていた警察の仕業であることは間違いがない。この点についても私は「地獄のゴング」で詳細を描いているので読んでいただきたい。

 またこの着衣の血痕が袴田の殺人の証拠だとされ、のちにDNA鑑定で着衣の血痕は犯行着衣ではないことを証明しているとされたが、DNA鑑定を待つまでもなく、捜索で発見されなかった着衣が1年2カ月午後に忽然と発見されるという虚構が証明されている以上、袴田を陥れる工作が行われていた事実は証明されていたのである。だからDNA鑑定は証明され事実を補強する役割を持っているのである。
 更に着衣への血痕付着は、袴田の犯行を偽装工作によって証明しようとした警察の行為を証明した。

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 五点の着衣は警察の偽造証拠である。
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着衣       血痕付着個所 付着血液型 被害者血液型  袴田血液型


グリーンブリーフ 右前部     B型   妻千恵子B型  B型
         右前下     B型   妻千恵子B型   
         左前      B型
白ステテコ            A型   専務藤夫A型
鉄紺色ズボン   ほぼ全部    A型   専務藤夫A型
白半袖衿シャツ  右肩      B型   妻千恵子B型  B型
         其の他     A型   専務藤夫A型
黒スポーツシャツ 右袖      AB型  長男雅一郎AB型
         その他     A型

 袴田にはグリーンブリーフ部に出血なし。したがってグリーンブリーフの血痕は袴田の出血からの血痕付着ではない。千恵子の返り血と想定するしかない。この状況からすれば、袴田は千恵子を殺した時、下半身はブリーフ一丁だったことになる。理由は以下に述べる。

 袴田が専務を刺したときは専務のA型の血は袴田のズボンの全面にかかった。そのかえり血はブーメランのように袴田の背後まで回り込んで背中にかかった。
 ズボンにかかった大量の返り血はじわじわとしみこんでステテコのかなりな部分に浸透した。
 しかし、このかえり血=A型の血はステテコの部分からブリーフに浸透しようとした瞬間に前開きの部分には浸透したが突然A型からB型に変化した。
 これは、ビールを飲んでズボンにビールをこぼしたのに、ブリーフにはビールのしみはなくアイスクリームのしみがついていたような話である。これは物理的に絶対にあり得ない状況である。ステテコにつけられた血と、ブリーフにつけられた血は犯行時の血ではないことを物語っている。

 この殺人犯は複数でしかあり得ない。
 単独犯であれば、殺人の最中に着衣を脱いだり、はいたり、着替えたりしていることになる。まるでドタバタ喜劇のような衣替え劇を袴田が殺人を行っている最終に演じたことになる。だからあえて言えばこの着衣による殺人ドラマは複数犯でしか成り立たない。その殺人犯はABCDの四人である。それを犯行として描いてみると次のようになる。

 ズボンとステテコだけを穿いた犯人Aが藤夫だけを殺した。
 犯人Bはグリーンブリーフだけを穿いて藤夫殺しを少し手伝いながら、主に千恵子を殺した。
 犯人Cは下半身素っ裸で主に藤夫殺しをやり、そして一人で雅一郎殺しをやった。
 犯人Dは全身素っ裸で不二子を殺した。

 着衣と血痕が物語るものは、こういうあり得ない、漫画的、にぎやかな殺人が行われたことになる。
 そして、こんな殺人は血液付着の状況から、完全に誰かが作り上げた架空の状況である。誰がこんなことをやるのであろうか?
 この筋書きでは五点の着衣は殺人の着衣ではなかったことを証明しているのである。
 殺人の着衣を装った警察のでっち上げ作品であることを物語っている。

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 スポンジゴム草履の問題
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 自白調書によれば、殺人犯行の時に一貫して履き続けていたスポンジゴム草履には全く血痕が付いていない。もっとも血痕が激しく付いていなければならないゴム草履に血痕がない。ルミノール反応がない。これも袴田が犯行をやっていないことの証明である。

■犯人は味噌タンクに五点の着衣を隠すことは。

 五点の犯行着衣が味噌タンクから発見された時期、1967年8月31日は、殺人が行われたといわれている昭和41年(1966年6月29日)とは1年2カ月経っていた。この味噌タンクのおかれた状況からすれば、1年2カ月も隠しておけるか?
 味噌に隠されたという一年2カ月後に発見されることもあり得ない。味噌は当時の記録から80キログラムであり、五点の着衣は南京袋に包まれており、味噌で隠すことは不可能である。せいぜい味噌を南京袋になすりつけた状態でしかない。このことは運動が行った再現実験で明らかである。味噌は会社の仕事として従業員が出し入れをする状態であったから、1年2カ月も発見されないはずがないのである。

 そのほか、袴田が侵入脱出したという裏木戸から人間が侵入脱出することは不可能である。このことは実験で明らかにされている。またくり小刀が殺人凶器であった事実もあり得ないことが証明されている。

 以上、現在から44年近く前の状況なので、主たる状況の概要しか語れないが、詳細は『地獄のゴングが鳴った』(三一書房、1981年11月)(月刊『現代の眼』1979年9月号)に記録されており、また、合同出版(東京都千代田区神田神保町1-28、03-3294-3506)から『地獄のゴングが鳴った』の新版も2014年中に出版されるので参照していただきたい。

 (筆者はジャーナリスト)


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