【自由へのひろば】

葫芦島への旅                                                篠原 令


 今の日本で「ころとう」と言ってもなんのことだか分からない人がほとんどだと思う。多くの中国人にとっても「葫芦島」は何の感慨もないと思う。しかしこの遼寧省の渤海湾に面した小さな港湾はかつて多くの日本人にとっては怨嗟と屈辱の場所であった。日本がポツダム宣言を受諾し、戦争終結を宣言した1945年の8月15日は中国、朝鮮など日本の支配下に置かれていた人々にとっては文字通り「光復」の日であったが、旧満州、中国大陸、台湾、朝鮮、樺太、南洋諸島など海外にいた日本人六百万人にとってはこの日が苦難の始まりであった。中でも旧満州、朝鮮に駐屯していた日本軍六十万人はソ連軍によって強制的にシベリアに抑留され、数年間にも及ぶ強制労働を強いられ、その一割は日本の土を踏むこともなく現地で病死した。
 満州国の悲劇はそれだけではなかった。最初はソ連軍に支配されたものの、その後、国民党と共産党の激しい内戦のため、日本への引き揚げはままならなかった。それでも満州各地に居住していた日本人は葫芦島へ一旦集められ、ここから徐々に日本に引き揚げていくことになった。その数、百五万人余、葫芦島の海岸に作られた収容所で生活しながら足かけ三年間の歳月をかけて順次日本に送還されていった。大連や朝鮮経由で早期に帰国できた人々は幸せだったが、満州各地に遍在していた日本人の引き揚げは容易なことではなかった。まして当時、東北を支配していた国民党は共産党との熾烈な闘いを展開していたので日本人たちに対しても十分な配慮をすることはできなかったと思われる。
 毎年、中国を訪れる日本人は現在350万人を超えている。その中にはかつて本人が、あるいは家族が住んでいた旧満州、現在の中国東北部を訪れる人々も多い。最も人気があるのは大連、旅順で、続いて沈陽、長春、ハルピンだろうか。多くの人々が思い出を綴り、過去を懐かしんでいる。だが、葫芦島を再び訪れたという人の体験談を私はまだ目にしたことがない。葫芦島から帰国した人は百万人以上いるというのに、どうして誰も再訪しようとしないのか。帰国に先立ちすべての財産を没収された怨みだろうか。収容所でのひもじく苛酷な体験のためだろうか。私は一度葫芦島を訪れてみなければと秘かに思っていた。
 季節は夏の終わりというのがいいのか、秋の入口というのがいいのか、朝晩は涼しい海風が吹く八月末、友人のはからいで葫芦島を訪れる機会がやってきた。北京からは和諧号で約三時間、北京ー沈陽間の新幹線が開通すればわずか一時間の距離である。北戴河を過ぎ、山海関を過ぎるとそこは東北である。葫芦島の手前にある興城には明代に創建された興城古城が比較的完全な形で残っている。明末、寧遠衛城と呼ばれていたここでは名将袁崇煥が清のヌルハチ軍を破っている。ヌルハチはこの時の戦いで受けた傷が原因で死んでいる。
 葫芦島が初めて注目されたのは孫中山(孫文)が「建国方略」の中で七大港として、大連、営口、葫芦島、上海、福州、広州、欽州の七つの港の開発、整備を提唱したことによる。孫文は英国人の専門家に沿海各地の調査をさせ、水深や将来の発展性などからこれら七港を選んでいる。そして葫芦島の築港に実際に着手したのは1929年、当時、日本の満鉄に対抗して新たな鉄道路線の建設に着手し、大連港に対抗する港を築こうとした張学良であった。港を見下ろす岡の上には張学良の築港紀年碑が建ち、港内には張学良の別荘も現存している。隣の興城の温泉地には父親の張作霖の別荘ものこっているがこれらはいずれも対外開放されていない。貴重な観光資源なのに惜しいことである。
 葫芦島は島ではない。錦州に隣り合った渤海湾に面した陸地である。秦皇島が島ではないのと同じである。日本時代、ここには石油の精製所があった。また、セメント工場や化学工場も多く、海岸に近い工業地帯には今でも日本時代の大きな煙突がいくつもみられる。また風光明媚な海岸地帯には日本人が作った黒松林があちこちに残り、市民の憩いの場所になっている。そして私はとうとう百万人を超える日本人が送還された収容所があった海岸を見渡せる丘の上にやってきた。当時の写真と同じ山が遠くにそのままの姿で存在している。丘の中腹には「日本僑俘遣返之地」という大きな碑が建っていた。そこには1051047人という送還された日本人の人数まで正確に記されていた。1946年から1948年にかけてのことである。収容所の跡は更地になり当時の面影を留めるものは何も残っていなかった。
 葫芦島から引き揚げた日本人たちは収容所での苛酷な生活、毎日支給された水のようなお粥、引き揚げ時に没収された財産などに対する怨み辛みを語り継ぐ人々が多かったが、今回、葫芦島に来て現地の人々の声を聞けば、当時は自分たちさえ食べるものがなかったのに100万人もの日本人の食事の世話までしなければならなかった苦労を引き揚げ者たちにも理解してほしかったという。
 台湾のベストセラー作家、龍応台の「台湾海峡一九四九」には、共産党軍との内戦に敗れ葫芦島から国民党軍が引き揚げる場面も出てくる。一九四八年の冬のことである。「遼寧省葫芦島の埠頭には四十四艘の輸送艦が停泊し、十四万人の国民党軍兵士が乗船中であった。東北地方から撤退するのである」「一九四八年十月十日、国共両軍は錦州郊外でぶつかりあった。範漢傑率いる国民党軍十一個師団は、林彪、羅栄桓の率いる東北野戦軍五個縦隊との間で交戦に入った。十月十五日、解放軍は国民党軍十万人を「全滅」させ、錦州に入城した」とある。このような状況下で国民党政権はよく日本人の引き揚げ事業を行ったものだと感心する。
 日本には「恩讐を超えて」という言葉がある。情けも仇も超えて大きな人類愛で友情を深めていこうという意味がある。当時の引き揚げ者たちももう八十過ぎの高齢者になっている。その引き揚げ者たちを見送った中国の人々も高齢化している。私はこの人たちがまだ生きている間に葫芦島収容所と引き揚げ者たちの記録をまとめて、次の世代に歴史の事実としてこのようなことがあったことを伝えていく必要があると思う。戦争というのは悲惨である。植民地を作るということも結局は悲劇である。そうした人類の愚かな行為がどんな結末を迎えたかということを記録として遺していくことは大事なことだと思う。
 葫芦島市は解放後、海軍の軍港が あったため、改革開放の時代になってもいろいろ制約があり外資企業の進出が遅れ、経済発展の面では他の沿海都市に遅れをとったという。日本企業の進出はいまのところわずか一社しかない。1946年から1948年にかけて苦楽を共にしてきた関係から日本人観光客や日本企業の進出をもっと積極的に迎えてもいいのではないかと思う。葫芦島市と日本は、中国的な言い方をすれば「有縁分」ということになる。なお、沈陽戦役の後、蒋介石はここから船で大陸を去ったと土地の人々は言っている。もし葫芦島を訪れることがあれば南下して山海関の古城と長城が渤海湾に突き出た老龍頭を訪ねてみるのもよいし、北上して磐錦で遼河の河口に茂る葦の林や紅海と呼ばれている水草で赤く染まった海の上の遊歩道を歩いてみるのもよい。渤海湾沿岸の各地はまた中国の海鮮料理の宝庫でもある。おしゃれな海鮮料理屋もあちこちにあった。

(筆者は日中ビジネス・コンサルタント)


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