【コラム】
大原雄の『流儀』

芸の伝承と世代交代(中)

 玉三郎「阿古屋」伝承、奮闘中

大原 雄

 歌舞伎界の真女形の人間国宝・坂東玉三郎(68)は、自分の得意とする役柄を若手に譲り、さらに、同じ舞台で脇役に廻る形で、共演しながら、若い世代への芸の伝承と実技指導をしている。先月号で紹介したように、玉三郎(大和屋)は、10月歌舞伎座の勘九郎・七之助(中村屋)兄弟(十八代目勘三郎の息子たち)に引き続いて、12月歌舞伎座では、「阿古屋」で、梅枝(萬屋。時蔵の長男)、児太郎(成駒屋。福助の長男)のふたりに主役の「阿古屋」を日替わりで譲り、芸の伝承と指導育成に努めている。
 梅枝、児太郎ふたりは、初役で歌舞伎座夜の部に交互に出演している。また、昼の部では、壱太郎(成駒家。鴈治郎の長男)は、玉三郎監修の「お染の七役」に初役で挑戦している。彼らは、いずれも1年ほど前から楽屋や稽古場で玉三郎から指導を受けた上、今回は、主役を任され、歌舞伎座の同じ舞台に「師弟関係」で立ちながら、真女形大先達の指導を受けている。
 12月の歌舞伎座夜の部のハイライトは「阿古屋」。1958年以降、六代目歌右衛門と玉三郎のふたりだけが、演じ続けていた「阿古屋」を60年ぶりにいよいよ新たな若手後継候補たちに伝承するのである。玉三郎自身は、普段なら演じない、立役の道化敵役の岩永左衛門を人形振りという滑稽な演出で演じながら、若い女形たちを育成指導する、というわけである。

 江戸時代から歌舞伎の役者たちは、己が取得した芸のエキスを有望な後進たちに伝承してきた。芸の伝承とは、ベテラン役者のいずれの時の己の消滅と若手への世代交代という厳しい背景を踏まえて、どのタイミングで、誰に芸を伝承するか、という課題をかけている。伝承の仕方は、さまざまあるだろうが、その一つに同じ舞台に立ちながら芸を伝承するという方法がある。同じ舞台に立つといっても、主役を張る先達が見本を示し、後進がそれを目や耳を含めて身体全体で受け止め、記憶し、模倣するという方法や、先達が後進に主役を譲って脇役に廻り、出演後楽屋などで助言をする、ということもあるだろう。
 とにかく大事なことは、歌舞伎で同じ舞台で共演するという場合は、現在の興行形態では、初日から千秋楽まで25日間、毎日、ほぼ同じ時間に同じ演技を繰り返すというシステムになっていることを忘れてはならないということだろう。前日、上手く演じられず、先達から助言を受けたことは、翌日、あるいは翌日以降の舞台で、改めて演じ直すということができるからである。

 琴、三味線、胡弓の三曲を遊君・阿古屋自らが演奏することで知られる「壇浦兜軍記 阿古屋」の見せ場は、通称「琴責め」と言われる。阿古屋を演じられる役者が極めて少ない古典的な演目の義太夫狂言。六代目中村歌右衛門より教えを受け、1997年初演から20年以上も阿古屋を勤めてきた玉三郎は、「阿古屋」の後継者を探していた。その「阿古屋」が、いよいよ、玉三郎以外の女形によって上演される機会が来たのだ。12月歌舞伎座、夜の部。梅枝(萬屋)と児太郎(成駒屋)が、遊君・阿古屋役に初挑戦することとなった。その経緯について、玉三郎は、記者会見で以下のように語った。まずそれを紹介しよう。

★「阿古屋」伝承

 以下、配信された記者会見の記事を元に、適宜、文章を補ったり、文章表現を判りやすく直したりしていることをお断りしておく。

 玉三郎 「私が(初役で)やらせていただくことになったとき、成駒屋さん(六代目歌右衛門)は体調を崩されていて、やっとお話が伺えたという状況だったんです。(だから、今なら)自分で演じてみせてあげられて、かつ(演技を)見てあげられるときに受け取ってもらいたいと思って、今回上演することを決めました。歌舞伎座でこの大役を勤めることは、梅枝さんと児太郎さんにとって大変なことだと思うんです。なので、(夜の部の構成を)Aプロ(引用者注:従来通り、玉三郎自身が阿古屋を演じる。25日間の興行のうち、14日間)とBプロ(引用者注:若手女形のふたりが日替わりで交互に阿古屋を演じる。玉三郎は、立役の滑稽な脇役へ回る。25日間の興行のうち、11日間)のふたつに分けて(自分を含めて、阿古屋役を)三人で分担してやっていくことにしました」と説明する。
 つまり、玉三郎は、先達として、阿古屋を演じ、ふたりの若い女形役者に手本を見せたり、ふたりに主役を演じさせながら、自身は、脇役に廻り、リアルタイムで、若手を指導したりする、という方法をとったのだ。

 今年の夏頃から稽古を始めたという玉三郎は「おふたりとも特に胡弓がお上手。年齢的には梅枝さんが歳上なのですが、楽器を前にすると梅枝さんは若い娘方という印象で、児太郎さんは落ち着いた雰囲気があります」と答える。
 また、「阿古屋を演じる上で大事なのは、ふたつのことが同時にできるかどうか。阿古屋の役になりきった状態で三曲をしっかりと奏でられるか、ということですね。それから、“源平に関わってしまった傾城の心”を想像することも大切。想像で役を作り、お客様に伝えるのが俳優(役者)の仕事ですから」と自身の経験を踏まえて語るとともに、「かつての私もそうでしたが、はじめの稽古ではできていても、ほかの俳優(役者)さんが稽古に参加したり、(舞台が)稽古場から劇場に移ったり、周りの状況が変わると急にうまくできなくなってしまうことがあるんです。ですが、それでもやらないと先に進めないんです」と若いふたりに発破をかける。
 さらに阿古屋という難役・大役を継承していくことにも言及し、「稽古をすれば阿古屋を演じられるチャンスがあると思ってもらうことが大事。そうしないと幅が広がらなくなってしまいます。阿古屋に限らず、どの役もそうですが、誰々でなければ勤められないという固定観念はないほうがいいのかもしれません」と話す。

 Bプロでは、玉三郎自身が立役の滑稽な脇役・岩永左衛門を、それも人形振り(人形浄瑠璃の人形のような振り付けで動く)で演じることについて質問が出ると、玉三郎は「皆様、驚かれたことと思います」と微笑みながら、「『蜘蛛の拍子舞』や『日本振袖始』で後シテを経験しましたので、今回はそこまで大変ではないと思います。人形振りについては、文楽(人形浄瑠璃)の吉田玉男さんにお話を伺おうと考えております」と答えた。
 その後も玉三郎は、以前「お染の七役」を勤めた中村七之助や、今回同じ演目に初役で挑む壱太郎にも触れ、記者会見では次代の歌舞伎界を担う若い女形たちへの期待を熱っぽく語ってくれた、という。

★「阿古屋」主演

 「壇浦兜軍記~阿古屋」を私が観たのは、最近では、3年前、15年10月歌舞伎座。私としては、この時で4回目の拝見となる。いずれも阿古屋は、玉三郎が演じた。初めて私が玉三郎の阿古屋を観たのは、19年近く前、2000年1月、歌舞伎座であった。

 玉三郎自身は、21年前、97年1月、国立劇場で初役を演じた。それ以来、今回で11回目の出演となる。以来、玉三郎だけの阿古屋が続いてきた。玉三郎だけの阿古屋はいつまで続くのか、と私は思ってきた。新しい阿古屋を演じるのは誰か。新しい阿古屋よ、出でよ、と長い間思ってきた。その思いが、今回、やっと満たされることになったのだ。
 私の関心のポイントは、次のようなことである。玉三郎は、どこを若手に教えるか。若手女形は、その教えをどう受け止めるか。まず、お手本に15年10月歌舞伎座・夜の部の「壇浦兜軍記~阿古屋」の玉三郎の舞台を覗いておこう。

 「壇浦兜軍記 阿古屋」は、堀川御所の問注所(評定所)の場面という、いわば法廷(お白州)に引きずり出された阿古屋(玉三郎)は、権力におもねらず、恋人の平家方の武将・悪七兵衛景清の所在を白状しないという強い気持ちを胸に秘めたまま、あくまでも気高く、堂々としている。五條坂の遊君(遊女)の風格や気概を滲ませていて、玉三郎の阿古屋は、最高であった。特に、「琴責め」と通称される、楽器を使った「音楽裁判」で、嫌疑無しと言い渡された時の、横を向いて、顔を上げたポーズは、愛を貫き通した女性のプライドが、煌めいていた。あわせて、歌舞伎界の真女形の第一人者である人間国宝・玉三郎の風格も、二重写しに見えて来たものだ。

 評定所では、捌き役として、秩父庄司重忠(菊之助)が登場する。揺るぎない判決を言い渡すことになるのは、黒地に金銀の縫い取りの入った衣装で、颯爽と登場する秩父庄司重忠。悪七兵衛景清の詮議を任された禁裏守護の代官で、主任の立場。白塗り、生締めの典型的な捌き役である。

 もう一人の捌き役は、助役の岩永左衛門致連(亀三郎時代の彦三郎)。秩父と岩永のふたりは、裁判官の、いわば主任と副主任。どちらが実質的な主導権を握るかで、阿古屋の運命は決まる。さらに、廷吏役で「遊君(ゆうくん)阿古屋」と呼び掛け、阿古屋を白州に引き出して来るのは、重忠の部下、榛沢六郎成清は、抜擢の名題役者・功一が演じる。廷吏らしく、法廷の開始と終了で、被告の阿古屋の入りと出を先導する場面以外は、後ろに立ったまま(合引に座って)で、じっとしている、文字どおりの辛抱役であった。

 赤ッ面で、太い眉毛が動く人形振り(役者が人形になりきったように演技をする演出)の岩永左衛門致連は、キンキラの派手な衣装に、定式の人形の振りで、客席から笑いを取っていた。銀地の無地の衝立をバックに、三人遣いの人形浄瑠璃と違って、足遣い不在の、ふたりの人形遣いを引き連れている。岩永左衛門致連の上手横には、なぜか、火鉢が置いてある。後で、理由が判る。そのほか、大勢の捕手たちは、人形浄瑠璃で、「その他大勢」と分類される一人遣いの人形のような動きをする。

★「三曲」演奏

 この演目では、傾城の正装である重い衣装(「助六」の揚巻の衣装・鬘は、およそ40キロと言うが、阿古屋の衣装も、あまり変わらないのではないか)を着た阿古屋が、琴(箏)、三味線(三絃)、胡弓を演奏しないといけないので、まず、3種類の楽器がこなせる役者でないと演じられない。胡弓を演奏できる女形が少ないということで、長年、歌右衛門の得意演目になっていたが、その後は、玉三郎が独占してきた。松竹の上演記録によると、1958年から1986年まで阿古屋の配役欄には、六代目歌右衛門の名前のみが、連記されている。

 伊達兵庫の髷。前に締めた孔雀模様の帯(傾城の正装用の帯で、「俎板帯」、「だらり帯」と言う)。大柄な白、赤、金の牡丹や蝶の文様が刺繍された打掛。松竹梅と霞に桜楓文様の歌右衛門の衣装とは違う。阿古屋は、すっかり玉三郎の持ち役になっている。こういう重い衣装を付けながら、玉三郎の所作、動きは、宇宙を遊泳しているように、重力を感じさせない。軽やかに、滑るように、移動するのは、さすがに、見事だ。
 舞台上手の竹本は、4連。人形浄瑠璃同様に、竹本の太夫が、秩父庄司重忠、岩永左衛門、榛沢六郎成清、そして、阿古屋の担当と分かれて語る。つまり、この演目は、いろいろ、細部に亘って、人形浄瑠璃のパロディとなっているのである。

 まず、「琴」。玉三郎の「蕗組(ふきぐみ)の唱歌(しょうが)」(かげという月の縁 清しというも月の縁 かげ清きが名のみにてうつせど)の琴演奏に竹本の太棹の三味線が協演する。玉三郎の琴は、爪が四角なので、関西系の「生田流」だという。

 次の「三味線」では、下手の網代塀(いつもの黒御簾とは、趣が違う)が、シャッターが上がるように、引き上がり、菱形で、平な引台に乗った長唄と三味線のコンビが、(黒衣ふたりに押し出されて)滑り出てくる。「翠帳紅閨に枕ならぶる床のうち」と、玉三郎の「班女(はんじょ)」の故事を唄う三味線演奏にあわせて、細棹の三味線でサポートする。

 さらに、「胡弓」。玉三郎の「望月」の胡弓演奏にあわせるのは、再び、竹本の太棹の三味線の協演。「仇し野の露 鳥辺野の煙り」。胡弓の弓は、馬の毛で出来ているという。

 岩永のハイライト場面。阿古屋の演奏に魅せられ、舞台上手横にあった火鉢を自分の前に置き直し(黒衣がサポートする)、中の火箸で、胡弓の演奏の見立てをしてしまう岩永左衛門。場内からは、笑いが漏れる。彼も、お役目に忠実なだけの、善人なのかもしれない。

 問注所の捌きが、楽器の音色と演奏の乱れで判断するという趣向だけあって、筋立ては、阿古屋と景清との馴初めから、別れまでのいくたてを追い掛けるという単純明快さで、判りやすい。吉右衛門が演じた時と同じように菊之助の秩父は、問注所の三段に長袴の右足を前に出したまま、左手で、太刀を抱え込み、阿古屋の演奏にじっと耳を傾けるというポーズを取る。「熊谷陣屋」の直実の制札の見得を彷彿とさせるポーズである。

★12月歌舞伎座の試み

 さて、2018年12月4日。歌舞伎座夜の部。この日、「阿古屋」を梅枝が初めて勤めた。1997年以降、玉三郎以外の女形が阿古屋を初めて演じたのだ。問注所のお白州に連行されるため、花道から登場した梅枝の阿古屋は、前後を捕手たちに囲まれながらも、堂々としているように見えた。しかし、阿古屋役の初日とあって、かなり緊張しているように見受けられた。本舞台に移動した後は、平舞台に座らされて、詮議となる。恋人の悪七兵衛景清の居処を白状せよと責め立てられる場面である。三種の楽器の演奏を強いられる。観客も、梅枝の初役の阿古屋の、それも初日の舞台だということを知っているので、観客の側も緊張しているのが、伝わってくる。結果は、どうだったか。最初は、琴を演じた。ついで、三味線を演奏した。最後は、三種の中でいちばん難しいと言われる胡弓の演奏である。

 梅枝は、12月の興行では、Bプロ、11日間の若手出演のうち、千秋楽までに6回、初役で阿古屋を演じることになる。私が観た12月4日は、Bプロの初日。梅枝にとって、女形役者としての生涯のエポックメイキングな日であっただろう。もう一人、初役で同じ体験をしたのが、児太郎で、こちらは、5回、演じる。梅枝出演の翌日、5日が、児太郎にとっても、やはり、女形役者としての生涯のエポックメイキングな日であっただろう。ただし、私が観劇したのは、梅枝の方のプログラムで、児太郎の方は見ていない。そういうエポックな舞台だけに、梅枝への劇評は、次号できちんと書きたいが、この号でも、さわりだけ書いておこう。

 阿古屋を演じる女形の肝心要の必要条件は、ふたつあるように私は思う。一つ目は、琴、三味線、胡弓の演奏がきちんとできるかどうか。
 ふたつ目は、演奏に神経が行き過ぎて、演奏者が遊君・阿古屋になりきれなくなるようなことはないか。

 印象論だが、私と一緒に歌舞伎座の座席を埋めた観客も、梅枝の女形の演技よりも、三曲の演奏がきちんとできるかに神経がいっているように思えた。なぜかというと、琴、三味線、胡弓が演じ終わるたびに、ホッとしたような空気(あるいは、ため息)のようなものが感じられた。その後、盛大な拍手、そして、大向こうからの声(「萬屋!」)が掛かった。ミスがなかったと思われる演奏が、終わるたびに、この、拍手が繰り返され、時に屋号が叫ばれたからである。

 5日には、私は、12月歌舞伎座の昼の部だけを観に行った。昼の部では、玉三郎監修「お染の七役」を壱太郎が初役で勤めたからである。これについての劇評も、次号できちんと書きたい。ここでは、むしろ、前号の、「芸の伝承と世代交代(上)」で、紙数が尽きた関係で、きちんと書かなかった10月興行の舞台での、若手指導の舞台の劇評を書いておきたい。10月興行の舞台も人間国宝級のベテラン役者から、若手役者が、生の舞台で共演しながら、芸の指導を受けるというシステム。歌舞伎は、昔からオン・ジョブ・トレーニングの場でもある。

★白鸚と七之助の共演「佐倉義民伝」

 「佐倉義民伝」。今回の場面構成は、次の通り。序幕第一場「印旛沼渡し小屋の場」、第二場「木内宗吾内の場」、第三場「同 裏手の場」、二幕目「東叡山直訴の場」。

 このうち、七之助が、白鸚と共演する場面は、序幕第二場「木内宗吾内の場」、第三場「同 裏手の場」である。

 序幕では、印旛沼の渡し、佐倉の木内宗吾内、同裏手へと雪のなかを舞台が廻り、モノトーンの場面が展開する。二幕目では、1年後の江戸・上野の寛永寺。多数の大名を連れた四代将軍家綱の参詣の場面は、錦繍のなかで燦然と輝く朱塗りの太鼓橋である通天橋(吉祥閣と御霊所を結ぶが、死の世界に通じる橋でもあるだろう)が、舞台上手と下手に大きく跨がり、まさに、錦絵だ(「遠見」という舞台の背景画の中央に、寛永寺本堂が望まれる)。やがて、宗吾は、この橋の下に忍び寄り、橋の上を通りかかる将軍に死の直訴をすることになるのだ。雪の白さと錦繍の紅との対比。それは、将軍直訴=死刑という時代に、故郷と愛しい家族との別れの場面を純愛の白色(古来、日本では、白は、葬礼=タナトスと婚礼=エロスの色であった)、雪の色の白で表わし、迫り来る死の覚悟を血の色の赤色、紅葉の紅で表わそうとしたのかも知れない。

 舞台が廻り、「木内宗吾内の場」へ。いわゆる泣かせどころ、「子別れ」の場面である。見せ場とあって、竹本も、床(ちょぼ)の上で、東太夫の出語りに替る。「渡し場」「子別れ」と続く。まず、佐倉の「木内宗吾内の場」は、珍しく上手に屋根付きの門がある。下手に障子屋体。いずれも、常の大道具の位置とは、逆である。歌舞伎では、下手(観客席から見て左側)に花道があるので、屋体(大道具)の出入り口も、下手側にあり、障子屋体は、上手側にある場合が多い。座敷では、宗吾の女房おさん(七之助)が、縫い物をしている。七之助は、初役。宗吾の子どもたちが、囲炉裡端で遊んでいる。長男・彦七、次男・徳松に加えて長女・おとうもいる。さらに、障子屋体に寝ている乳飲み子も。すべて、やがての「子別れ」の場面を濃厚に演じようという伏線だろう。七之助は、世話物の母親としてのおさんを演じる。

 國久、千壽、玉朗、達者な傍役たちが演じる村の百姓の女房たちが、薄着で震えている。おさんは、宗吾との婚礼のときに着た着物や男物の袴などを寒さしのぎにと女房たちにくれてやる。後の愁嘆場の前のチャリ場(笑劇)で、客席を笑わせておく。七之助は、世話焼きが信条のお内儀を演じる。

 女房たちが帰った後、上手から宗吾が出て来て、門内に入る。家族との久々の出逢い。宗吾が脱いだ笠から雪が、再び、ぞろっとすべり落ちる。女房との出逢い、目と目を見交わす、濃艶さを秘めた情愛。子どもたち一人一人との再会。父に抱き着く子どもたち。子から父への親愛の場面。父から子への情愛。双方向の愛情が交流しあう。白鸚は、それぞれをいつもの思い入れで、じっくりと演じて行く。子役たちも、熱演で応える。

 雪に濡れた着物を仕立て下ろしに着替える宗吾。手伝うおさんは、自分が着ていた半纏を夫に着せかける。しかし、家族との交情もほどほどに。宗吾一家の再会は、永遠の別れのための暇乞いなのだ。宗吾は、下手の障子屋体の小部屋に、なにやらものを置いた。自分がいなくなってから、おさんに見せようとした去り状(縁切り状)だろう。

 去り状をおさんに見られた宗吾は、仕方なく、本心を明かす。将軍直訴は、家族も同罪となるので、家族に罪が及ばぬようにと、家族大事で縁切り状を認めていたのだ。離縁してでも、家族を救いたいという宗吾。夫婦として、いっしょに地獄に落ちたいというおさん。夫婦の情愛。その心に突き動かされて去り状を破り捨てる宗吾。「嬉しゅうござんす」と、背中から夫に抱き着き、喜びの涙を流す七之助も熱演。七之助は、妻の色気も情愛も滲ませなければならない。

 親たちの情愛の交流を肌で感じ、子ども心にも、永遠の別れを予感してか、次々に、父親に纏わりついて離れようとしない子どもたち。皆、巧い。「子別れ」は、歌舞伎には、多い場面だが、3人(正確には、乳飲み子を入れて4人)の子別れは、珍しい。それだけに、こってり、こってり、お涙を誘う演出が続く。役者の藝で観客を泣かせる場面。実際、客席のあちこちですすり上げる声が聞こえ出す。白鸚は、こういう芝居は、自家薬籠中であろう。今回は、効果的。泣かせに、泣かせる。特に、長男・彦七は、宗吾の合羽を掴んで放さない。垣根を壊して、家の裏手へ廻る宗吾の動きに引っ張られてついて行く。半廻りする舞台。ともに、半廻りして、移動する父と子。最後は、息子を突き飛ばす父親。雪は、いちだんと霏々と降り出す。「新口村」のようだ。
 肉親との別れに、雪は、効果的だ。別れを隔てる雪の壁。本舞台では、家の中から、いまや、正面を向いた裏窓の雨戸を開けて、顔を揃えたおさんと子どもたちが泣叫ぶ。振り切って、花道を逃げるように行く宗吾。農民の反権力の芝居というより、親子の別れの人情話の印象が強い場面だ。七之助は、三十代の独身の役者ながら、子沢山の母親役、夫の信念ゆえに、いずれ子どもたちと共に死んで行くことになる。白鸚演じる夫との別れ、妻としての情愛などを秘めながら、演じる。

 二幕目「東叡山直訴の場」。直訴状が松平伊豆守に渡る。この結果、佐倉城主・堀田上野之介の悪政は、将軍家に知られるところとなり、領民は救済される。しかし、封建時代は、形式主義の時代だから、宗吾一家は、離縁をせずにいたので、おさんが覚悟したように乳飲み子も含めて家族全員が、皆殺しにされる。

 「佐倉義民伝」は、17世紀半ばに起きた史実を基にした芝居だが、明治期の九代目團十郎が志向した「史劇」では無い。江戸時代の芝居、時代ものだ。明治維新まで、あと17年という、1851(嘉永4)年、江戸・中村座で、上演された。原作は、三代目瀬川如皐。初演時は、「東山桜荘子」(東の国の佐倉の草紙=物語というところか)という外題で、時代ものとして、舞台も、室町時代に設定されていた。直訴の場面の演出も、幕府によって、変更させられたという。
 木内宗吾は、本名、木内惣五郎だけに、「惣『五郎』」で、「五郎」。これは、曾我兄弟の「五郎・十郎」の「五郎」と同じで、「五郎」=「御霊(ごりょう)」。つまり、御霊信仰。農村における凶作悪疫の厄を払う、古来の民間信仰に通じる。この後、今では滅多に演じられないが、「問註所」の裁きの場面(「仏光寺」)、大詰で城主の病気と宗吾一家の怨霊出現の場面(「堀田家怪異」)があり、庶民が、溜飲を下げる形になっている。

贅言1):宗吾の故郷、佐倉藩の領地、印旛郡公津村(いまの成田市)には、没後350年以上経ったいまも宗吾霊堂には、年間250万人を超える人が参詣するという。私心を捨て、公民のために、己と家族の命を犠牲にした「宗吾様」は、神様なのである。宗吾の決死の行動は、明治の自由民権運動にも影響を与えたといわれる。明治期に全国で上演された「佐倉義民伝」は、110回を数えるという。1901(明治34)年、足尾鉱毒事件で、明治天皇に直訴した田中正造は、木内惣五郎を尊敬していたという。反権力の地下水脈は、滔々と流れていたことになる。

贅言2):今回は、人情劇の色合いが濃い演出になっていたが、この芝居は、本来、「木綿芝居」という、地味な農民の反権力の劇である。1945年の敗戦直後に、「忠臣蔵」など切腹の場面などがある歌舞伎は、戦前の軍国主義を支えた、封建的な演劇だということで、GHQによって、暫くの期間、禁じられたが、そういう動きのなかで、「佐倉義民伝」は、デモクラティックな芝居として、敗戦から、わずか3ヶ月後の、11月には、東京劇場で、上演された。早々と歌舞伎復活の一翼を担ったことになる。初代吉右衛門の宗吾、美貌の三代目時蔵のおさん、初代吉之丞の甚兵衛、七代目幸四郎の伊豆守、後の十七代目勘三郎のもしほの家綱などという配役であった。初演時は、磔を背負った宗吾一家の怨霊がでる演出などがあったという。反権力のメッセージも、より明確だったのだろう。

★玉三郎と勘九郎の共演「吉野山」

 「吉野山」は、歌舞伎の3大演目のひとつ「義経千本桜」の一幕。「道行初音の旅」。舞踊劇で、男女の道行ものをベースにしている。富本の「幾菊蝶初音道行(いつもきくちょうはつねのみちゆき)」を清元に改めた。軍物語の件は清元の「菊鶏関初音(きくにとりせきのはつね)」を竹本にした。

 春爛漫の吉野山。舞台装置は、いつもより素直な感じ、単彩色の桜の絵。吉野山の奥にある川連法眼館を目指して、義経の連れ合い静御前(玉三郎)とその護衛役の佐藤忠信、実は源九郎狐(勘九郎)の道行の場面だ。まず、花道から静御前が、一人でやってくる。最近の玉三郎らしからぬ、オーソドックスな出だ。静御前が義経から託された「初音の鼓」を打ち鳴らすと、花道「すっぽん」(花道に設置されている小さなエレベーターのような装置。役者が奈落と花道を行き来することができる)から狐忠信が姿を見せる。本舞台にやってきた狐忠信に「待ちかねた」と静御前。ちょっと、不機嫌。狐忠信は、実は、初音の鼓に用いられている鼓の皮(狐の皮)の子どもなのだ。皮にされた親狐への慕情止み難く忠信に化けて、静御前の護衛役という主従関係を装い、「鼓に付いてきた」のだった。
 静御前と狐忠信のふたりの踊りでは、玉三郎の演出だろうが、いつもより、ふたりの主従関係が、くっきりと見えてくる。毅然とした「主」としての静御前。控えめに振る舞う狐忠信。忠信は、忠義の信徒だ。それが、一つの頂点に達するのが、「女雛男雛」のポーズをとる場面だ。普段なら、大向こうから「ご両人」と声がかかるところだが、玉三郎の後方にそっと近づいてきた勘九郎は、遠慮がちに狐忠信の男雛のポーズをとった。今回は、この場面では大向こうからも、声はない。大向こうの皆さんは、さすが、判っている。

 ついで、「桃にひぞりて後ろ向き」(枯れてそった葉っぱのことを江戸時代は、「ひぞり葉」、重心が定まらずにくねって回る独楽を「ひぞり独楽」と表現したという)では、静御前が持つ初音の鼓に忠信がすり寄っていく場面は、ぎこちなく、まさに、ひぞり独楽のように、くねくね、ギクシャクと「狐っぽい」所作を見せる。狐の本性が、顕れてしまう、という感じだ。この場面、勘九郎と玉三郎は、狐と人間の違いを見せつけたように思う。

 舞台中央の桜木とその手前の切り株に、旅の途中のふたりが保管してきた初音の鼓と着瀬長(きせなが。鎧)を組み合わせて、義経の御前という態で、忠信が屋島の合戦の様子を語り伝える。「あら物々しや夕日影」で始まる軍物語。竹本は、愛太夫と蔵太夫の2連。床の出語り。大向こうから「待ってました」と声がかかる。待っていたのは、「軍物語」の場面と愛太夫の出語りか。

 鎌倉方の追っ手、早見藤太が大勢の花四天たちを引き連れて、現れる。滑稽な場面(チャリ場)、「稲荷尽くし」(?)の所作ダテ、いつものコミカルな立ち回りとなる。

 今回の「吉野山」は、静御前と狐忠信の関係で、くっきりとふたつの線を引いている。「主従関係」と「狐と人間の関係」。これは、「吉野山」の原点として再確認されたように思う。勘三郎と玉三郎。ふたりの志には、古典的な歌舞伎を活き活きとした現代の演劇として再生しようという意識があったように思う。勘九郎・七之助の兄弟は、今回の先達たち、白鸚、仁左衛門、玉三郎から伝えられる、こうした志を受け止めて、これからも、この課題に取り組んでいってほしい。

 歌舞伎界の世代交代は、猛烈な勢いで進んでいる。正月に、浅草歌舞伎で主役を射止めて張り切っているような若手の役者が、その年の暮れには、早くも歌舞伎の殿堂・歌舞伎座に主役級で出演している姿を見かけるようになった。また、一世一代のような大きな役をベテラン役者自らが、生の舞台での共演という形で若手育成・後継育成・芸の伝承へと尽力しながら、歌舞伎界の世代交代へ大きく突き進んでいるように見える。それは、役者の促成栽培のようなものなのか、それとも、若手役者というマグマがエネルギーを溜め込んできていて、歌舞伎界という火口から今にも力強い芸が吹き出しそうな勢いを見せている、ということなのか。この視点での歌舞伎ウオッチングは、暫く続けなければならないかもしれない。

 (ジャーナリスト/元NHK社会部記者、日本ペンクラブ理事、オルタ編集委員)

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