■臆子妄論      

興福寺の仏像          西村  徹

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  2007年11月はじめ、興福寺を訪ねた。正倉院展が重なって奈良はたいへんな
人出だった。国宝館の阿形、吽形の金剛力士、そして北圓堂の無着、世親がさし
あたっての目あてであった。興福寺の仏像は、昭和34年(1959年)国宝館がで
きるまではそっくり国立博物館に入っていた。父が足繁く博物館に通い、しばし
ば小学生の私をつれていったから、そして列品講座のあるときなど、その間私は
館内にひとり放たれていたから、金剛力士も見るだけは見ていた。海底を思わせ
るような鈍い軟らかい光の中で水族館の魚類を見るかのように見ていた。見ると
いうよりそこにいっしょにいた。
  北圓堂は秋のこの時期を外すと普段は見られない。中学生になってから、やは
り父につれられて一度見ただけだから、やはりこれも見たというだけで、父が「二
人は兄弟」と言ったのを覚えているだけだが、父がしきりに子どもの私に見させ
たがるものは、人間の顔だったりはするけれども人間でないもの、この世のもの
でないもの、つまり仏像にかぎられていたのに、この無着、世親は実在した生身
の人間で、仏像の場合のようなフィクションがまるきりなくて、そのぶんよそよ
そしさもないかわりに見るのに気楽でないもの、距離の取りようのないもの、陳
腐になるがリアリティーを感じたのが特殊だった。そういう特殊をもう一度この
目で確かめておこうと久々に秋日和に誘われて出かけた。


■パトリス・ジュリアン


  そんな気になったのは6月にNHK-BSでパトリス・ジュリアンというフラン
ス人が語った言葉に触発されてのことだった。その語りを聞いたままに書き写す
とこんなぐあいだ。

  先ず阿形、吽形の二体について

  《 中からすごい力が出ているんですね。“気”が。中から気持ちがつたわる。
二つの像があるんですが、少しの時間で一つになる。二つが一つになっている。
細かく見るより全体の気持ちが入っている。こんどは自分と全部一つになる。ギ
リシャ彫刻を見るときは、筋肉とかハーモニーとか、プロポーションが大事。ヨ
ーロッパは外から考える。この像を見ると中から感じるね。》

つぎは北圓堂の無着、世親の二体について

《(こに)“いる”感じがしますね。生きている感じ。目のところを見ると
”いる“感じがする。目がポイント。すごくリアリズムのある目。中の気持ちを
すべて目が決めている。
世親像のほうがこちら見てる・開いている感じ。教える・人を助ける、という気
持ちがつたわる。無着のほうは全然ちがう気持ちで、すごく大事にするものがあ
って、心の中でそれを護っている。
  いずれも心の中にある、言葉でいえないことや、絵で、像で、表しづらいもの
を、”チャレンジ”して、それを煮詰めて表現している。意識そのものを形にす
るということ。リアリティーは、モノを表現して、そのモノがあるから一つの意
識が生まれる。逆に一つの意識があるからこの形が生まれると思う。どういう文
化でも目に見えないものを表現するのは、すごく大きいチャレンジ。それはその
文化を超える結果が出る。》

  このパトリスの言葉を紹介するだけで私は満足で、あとは格別になにも言いた
くはないほどだが、すこし注釈を付け足す。金剛力士像について「二つが一つに
なっている。」は阿吽の一対だから当然として、ただ客観的に一対であることと、
それが確かにそう見えたこと、「少しの時間で」そう実感されるにいたったこと、
さらには「こんどは自分と全部ひとつになる」にいたったことはおのずから別で、
それは十分に強調されてよいことだろう。
  また、無着、世親像について、「“いる”感じがしますね。」の“いる”には強
いアクセントが置かれて通常日本人にはない発声で聞かれた。ドナルド・キーン
が、やはりテレビで、京都で最初に下宿した東山の寺(泉涌寺か?)の庭に面し
た自室について、部屋は外と隔てがなく開かれていて、中にいて「そのまま外に
“いる”感じ」というぐあいに語っていたのとおなじだ。「存在感」などと今や
常套句になって張子のように軽くなっている言葉でなくて、“いる”と強勢を置
いて端的に迫ることの効力は十分に強調されてよいことだろう。


■北圓堂の無着、世親


  さて私はまず北圓堂に入った。無著像194.7、世親像191,6センチメートルと、
寸法そのものも大きいが、寸法以上に見る者に与える印象がとにかく大きい。兄
の無着は温容の老僧として、弟の世親は眼光鋭く精悍な壮年の僧として、本来の
四世紀インド人でなく日本人の顔で、しかも公家貴族風でもなく理想化された仏
相でもなく、への字に結んだ口にこそ冒しがたい厳しさはあるが、全体として典
型的な東北アジア農民的面貌の持ち主として表象されている。ことのほか無着は
金壺眼で、この国の村里でときに見る、風雪に耐えた老農夫の顔が土台にある。
一つ顔の中で高らかな権威の表出をそれに見合う深い内省と謙遜が打ち消して
いる。
  世親は「唯識三年倶舎八年」と言われるところの倶舎論なる煩瑣哲学の第一人
者。いわばコスモロジーの大家でありながら無着の勧奨によって唯識に転じた。
その世親が、おのが過去の不明を恥じて耳を割いたとか舌を割こうとしたとかい
う劇的背景を、そこから発するものを、パトリス・ジュリアンは両者の目の対比
においてとらえる。私など粗雑かつ表面的に単純化して無着は象の目、世親は鷹
の目ということで片付けるところ、彼は奥行き深く踏み込んで内面に届くとらえ
方をする。まさに「目がポイント」であるが、残念ながらこれは堂内の自然光よ
りもパリや東京の興福寺展で、よく調えられた照明によって見るほうがはるかに
つぶさに見ることができるだろう。
  堂内では明るさに欠けるかわりに背面にまわって見ることができる利点があ
る。背面からだと正面から見るのとはまたちがって、逆光だからさらにその量感
は圧倒的で、その背は仰げばあたかも山のごとく、居合わせた四十がらみの女性
連れが「大きいわねえ」と囁きあう声に思わず相槌を打ちたくなった。今回この
運慶最高傑作中の傑作についてはこれ以上触れることを禁欲し、国宝館へ急ぐこ
ととする。


■金剛力士・阿形と吽形


  込み合う国宝館の中で金剛力士は直ぐには見つからなくて、年配の案内係が
「置き場所が変わったので」と案内してくれた。釈迦三尊の脇に立っていて、そ
れが本来だしガラス越しでないのはよいとして、背面にまわれればさらによかっ
たろうがそれはかなわなかった。「なにか訊く事はないか」という案内係の、む
しろ催促顔に付き合う感じで「阿形のほうが心持ち高いように思うが、像高は?」
と尋ねると「両方おんなじ。162センチ。モデルがおったんですな」という。162
センチなら徴兵検査時の私と同寸。鎌倉武士とはなんと小造りにカッチリと緊ま
っていたものだと思う。帰宅後調べてみたら、さらに小さくて阿形は154.0で吽
形は153.7センチ。やはり阿形がわずか3ミリだが高い。いずれも真っ直ぐ立っ
た姿になれば162センチかもしれぬ。

目には玉眼(水晶)を入れ、水晶の裏側に瞳を描きこんでおくとか、白眼には
朱を入れて血走った感じを出すとか、筋肉や骨格は解剖学的にも正確だ(西村公
朝)とか、正確でない(宮元健次)とか、怒張する血管は躍動感を与えるとか、
たしかに真に迫ろうとする工夫はされていて、だからとにかく写実だ、写実だと
さかんに言われる。
  作者とされる定慶は運慶とおなじ慶派ではあるが、この金剛力士像には運慶作
の東大寺南大門の仁王像ほどアニメ的デフォルメはない。8メートル40センチ
と巨大な(巨大すでに誇張だが)南大門仁王像におけるデフォルメは、おそらく
遠望を想定しての、彫刻というより建造物に必要な工夫であって、堂内に本尊脇
侍として飾られる興福寺金剛力士とはおのずからちがうであろう。慶派のなかで
互いに切磋するということはあって、定慶と運慶の個性の違いはあるにせよ、そ
の差の表れというのとはちがうであろう。

もちろん、いくら写実だ、写実だといっても人体モデルをそっくりなぞったと
いうはずもない。誇張はある。というより写実を超える写実とでもいうべきとこ
ろはもちろんある。腰の位置がやや高く、したがって理屈上は不自然に脚部が長
い。それによって、いっそう逞しさと颯爽の風韻が加わるというような、緻密と
いうより直感的な効果の計算もあるとされる。計算といっても、それは「中から
すごい力が」はたらいてのもので、けっしてモデルに縛られた「外から」の、受
動の写実であるはずはない。南大門・運慶のばあいの大きなチームワークとはち
がって、定慶のばあいフリーハンドの余地ははるかに大きく、なにものにも妨げ
られず、妨げられても撥ねのけて、むしろ奔放自在、自他一如の境地に達して像
のイデアを捉え、それをほとんどこれ以外にないという形に収斂することができ
たものであろう。


■敦煌・莫高窟および天平仏と慶派のちがい


  敦煌・莫高窟の194窟には、これに酷似した、あるいは原型ではないかと思
えるものがあるが、その写真や映像を見るかぎり、顔の輪郭は鰓が張っていて四
角い。よく緊まった「小顔」の定慶作より南大門の運慶作が僅かにこれに似てい
る。眦こそ決しているが、あえて言えばポカン口で慶派のもののように大喝火を
吐く迫力はない。おなじ194窟に並ぶ増長天にいたっては、目も口もにったり
笑っていて蛭子能収みたいに弛緩した顔だ。茫洋と大陸的、よく言えば「以徳報
怨」中国大人の風にも見える。威風地を払う東大寺戒壇院の増長天とほぼ同時代
のはずだが、なんたるちがいであろうか。

あくまでも定慶作を見てしまった後だからではあろうが、力士のほうも筋肉は
隆々を通り越して異様なまでに瘤々としていながら、腰の捻りはやや浅く、裳に
包まれた上肢にかぎっては逞しいというよりむしろ華奢。左右に開いた足の角度
もやはり浅くて、大地を踏みしめているというよりは棒立ちで、単調に伸ばした
両手の位置、動きをも含めて、気功か太極拳かの悠々迫らぬ動作途中としか見え
ない。足の不安定は天平仏の場合がこれに近く、力感、動感ともにいささか希薄
に思われる。
  八世紀末と十三世紀初頭、数千キロの隔たりからして影響の過程はたやすくは
測りがたいが、定慶における洗練は、大唐の先蹤もよくその達成を嘉納するはず
のものである。パトリス・ジュリアンの言うところに掛け値はない。
  脚部描出の迫真性についていうならば、それこそまさに天平仏と鎌倉仏とのも
っとも著しいちがいが現れるところである。そのように私は父から聞いた。東大
寺戒壇院の四天王を見たときに父はそのように言った。父は口頭によるメッセー
ジ伝達の能力をほとんど天才的に欠いていて呟くようになにかを言って、なぜか
すぐさま「なるほど」と私が納得してしまったことだけ覚えている。

すべての点で静かな古典的完成に達している四天王の、脚だけはなぜか、もう
それは脚でさえあればよいというように手抜きされて見える。抽象的なまでにあ
っさり仕上げられている。殊に沓を穿いた足は幼児のそれのようにふくよかでさ
えある。邪鬼を踏んでいるというよりほとんど重量もなく、軽く宙に浮かんでい
るかのようだ。邪鬼は邪鬼というより道化に見える。しかしこれはこれでいいの
であって、もし裸足で、鎌倉仏のように激しい迫力で踏みしだいているありさま
が活写されていたなら天平仏の静謐な古典的均衡は破られるだろう。端正なたた
ずまいはかき乱され、厳粛の気は薄らぐことだろう。


■そしてやはり阿修羅像


  というわけで定慶作金剛力士に圧倒されて深いため息を吐きながら東にとっ
て返し北壁沿いの裏側通路を西にたどる。やがて西壁に並ぶ八部衆の中に、かの、
日本人なら誰知らぬ人のない阿修羅像が置かれているはずである。
  阿修羅像はかつて博物館入口のホールに単独で置かれていた。私は館内にひと
り放たれたとき、たいていは阿修羅像のまえで大方の時を過ごした。153,4セン
チメートルと小ぶりながら高い台座の上に立つ像を見上げて少し兄ぐらいの友
達を見上げる思いだった。そこに一人でいる少年と、ここに一人でいる自分と、
二人が独りであることに私は安息を見出していた。そして彼がなにかを悲しんで
いるようで、なにかを訴えているようで、それが気がかりで容易に立ち去ること
ができなかった。傷つきやすい少年の心を互いのものと思いなし重ね合わせても
いたのであろうか。

だから青臭くて気障にも聞こえることではあるが、またそれはかならずしも私
にかぎってのことでもなかろうが、どうしてもこの像にはポゼッシブになってし
まうところが私にはあった。ヨーロッパ人のある種の人がクーロス(注1)のあ
る種のものに寄せる耽美主義的な偏愛(注2)とはちがっていた。似ているが正
反対の、まったく肉体性を持たない感情であった。
  いま右手からその姿が見え、見えたとき阿修羅はこちらに向かって瞬き、そし
て微かに頬笑んだ。たまゆら私は阿修羅とともに少年になった。

(注1)ギリシャ美術アルカイク期(AD650~500)の少年裸像
(注2)たとえばIris Murdoch; A Fairly Honourable Defeat
                  (筆者は堺市在住)

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