脱原発—反原発運動の現状と小泉発言

                      三上 治


(1)まだ原発事故は進行中だ。
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 福島第一原発事故は野田前首相の収束宣言をあざ笑うかのように、現在も進行中である。事故は現在も収まらず、放射能汚染水の問題をはじめ予想を超えた難事が発生している。他方で事故の責任主体としての東電に投げかけられた疑念は深まる一方であり、より本格的な国の関与がとりざたされる局面である。

 また、放射能被害は大量の金をかけての除染活動にもかかわらず、その大きさと深刻さが明らかになっている。子供たちの甲状腺癌も多発しはじめている。時間が経てばどのような大きな災害からも立ち直り復興が進むという事態にたいして原発震災は違った動きとしてある。原発震災は自然災害に人災が加わり、どちらかと言えば人災の要素が強いのだから当然と言えるのかもしれない。

 こうした現状の中で、政府や官僚(経産省や原子力ムラなど)、さらに産業界は福島原発事故を福島地域に封じ込め、他の原発の再稼動の準備を進めている。原発再稼動→原発保存という戦略(シナリオ)は福島原発の事故直後から経産省や原子力ムラによって構想されてきたものである。原発事故を津波のせいにして地震による要因を注意深く隠してきたのもこれに基づいたものだ。彼らは福島第一原発事故が原発の存続の是非に発展することを避けることを当初の段階から考え用心深くそれを進めてきたのだ。

 これに対して安全神話でおおわれてきた原発に対して多くの疑念を国民の間に発生させたのが福島第一原発事故であった。国民は福島第一原発の惨状を目のあたりにして広範に流布されてきた安全神話に疑念を持ち、いくつかの彩りを持ちながらも脱原発—反原発の意識に傾いてきた。この広さと深さは経産省や原子力ムラには予想外のことだったのかも知れないが、そのことで彼らと脱原発—反原発の間で持続的な対抗関係が存在してきた。僕はこの現在を持久戦的な段階と言うが、原発再稼動を一つの節目としながらこの局面にあると思っている。

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(2)右翼でも小泉でも脱原発の動きは評価したい。
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 いつの場合も体制や権力との闘いはその闘い手にとっては孤立感の中にあるものだ。僕らはこの持久戦の一つとして経産省の一角にテントを張り、脱原発のひろばをつくりながら闘っている。これは個人の自発的な集まりによるものであるが、その担い手たちもいくばくかの孤立感を持っている。だが、この孤立感はどこかで連帯というものを求めているし、その手触りのようなものが支えになっている。それは人々の脱原発や反原発の意思を心の動きの中に感じられるということである。

 この見えない共感や連帯感が孤立感を支えている。これはどのような闘いにも現れることであり、脱原発や反原発の運動が特殊というわけではないと思う。こういう孤立感の中で、援軍というのは嬉しいものである。脱原発—反原発の運動の中ではそれは色々の形であるのだが、非常に特異なことは、俗にいう右側といわれる部分からの援軍のようなものが現れたことである。もちろん、彼らは独自の考えを持ってその運動や意思表示をしているだけあるのだとしてもである。

 僕らが経産省前にテントを張って間もないころから、右翼の街宣車の攻撃にさらされた。結構しつこい攻撃であり、僕らが対抗的に動けば警察の介入も考えられたから、非暴力で無視するという方法をとるしかなかった。こうした動きの中で経産省にテントを認めろと申し入れる右翼が現れた。また、右からの脱原発デモも出現し、テントを激励していくようにもなった。これは僕らが予想しなかった動きであり、僕らの内部に論争を生みだした。

 右翼との共闘などとんでもない、という意見があり、他方で脱原発—反原発なら誰とでも共闘していいという意見があった。共闘に批判的な部分は過去に、あるいは現在でも他の領域では右翼とは対立関係にあることをあげた。他方で脱原発や反原発であれば誰でもいいのであり、左右の党派の枠組みは関係ないと意見も出された。この論争は自然の収まって行ったのであるが、脱原発や反原発の立場、いうなら大きな意味での政治的立場の問題を露呈させた。

 最近の小泉元首相の脱原発(原発即時ゼロ)を聞いた時も、これを援軍として歓迎するか、冷やかに見るかが出てきている。僕の立場は明瞭であって、右翼であれ、小泉であれ、脱原発—反原発の動きを評価する。機会や契機があれば一緒の行動もしたいと思う。

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(3)脱原発運動参加は個人で。
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 小泉元首相の「脱原発宣言」が『文藝春秋』12月号に出ている。これは毎日新聞の編集委員によるインタビユーの一部終始を明らかにしたものであり、その内容は明快である。「即時原発ゼロ」というのもいいし、今やらないで再稼動をやればそれが困難になるという見解もいいと思う。僕は小泉が別のところで政治的な連携よりも個々人で動けというのもいいと思うが、僕は脱原発に関する小泉の見解を歓迎するし、その見識を評価する。彼の過去の事も、他の分野でのことを持って批判する必要はないと思う。仮に自民党や安倍首相が小泉の進言を取り入れたなら、それもいいことだと思う。

 何故だろう。原発は従来の意味での左右の理念の枠組(資本主義か社会主義か)とは別の次元で事の成否を問うべきことであるからだ。それは人間と自然の交流(循環)という根源を破壊するのか、否かという問題であり、核生成(核解放)のエネルギーを使うべきか、また、その産業化を容認すべきか、どうかである。現在の体制が生み出す矛盾であるというよりは、人間が自然の対象化の活動の問題として出てきた問題であり、体制の問題としては解決できない問題であるからだ。

 現在の人間的な活動とそこから生まれる矛盾を体制や制度に還元できない領域が生まれてきているのであって、その意味では体制論的な領域を相対化して行く問題が出てきているのである。それを象徴する問題として原発問題はあるのだと言える。体制的な理念では対応できない領域が出てきているのである。もちろん、これは体制的な理念が無効になったことを意味しない。それは相対化されただけであり、現在でも重要な問題である。

 いわゆるエコロジー《自然》の問題はこうした流れにあるものと言える。体制論を絶対化することも、エコロジーを絶対化することもできない時代であり、それを領域的に考えることを現在は強いてきている。この問題は別稿で詳しく論じたいところだが、原発問題が従来の政治的な枠組み(党派的枠組み)に収まらない理由といえようか。原発問題では他の領域では対立する人とも手を組む事が必要な理由でもある。原発問題での政治的対立があるとすれば、原発推進《再稼動も含めて》か、脱原発かである。他の理念的な対立も含めた政治的対立はこの領域には持ち込むべきではないのである。政治と言っても少しちがうのである。

 この場合に出てくる問題として、多くの政治集団やグループは政治的に出てくるとき無意識もふくめて、現在では体制的な理念を媒介にして出てこざるをえないということがある。これは原発問題に政治的な動きが登場する時も出てくるのである。政治党派の問題である。これを鑑みると、脱原発の運動に参加し、何らかの形で集団を組む時、意識的に個人の参加を考え、党派という枠組みを超えることをめざすべきだ。党派的枠組みに自分があることに自覚的であるべきだ。その意味で小泉が個人として動けという提言をしていることも評価できる。(11月15日記)


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