■「【横丁茶話】 ~老化と劣化―夏の夜のたわごと~ 西村 徹

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老化の兆候を測る六項目があるという。高村薫という人がAERA 2011年4月25日
号、氏の担当する連載記事の最終回に書いていた。石原慎太郎がまたしても都知
事になったか、なろうとしていたかの時期で、「止せばいいのに」という感じの
前置きに続いて書いていた。だから、たぶんに石原慎太郎をモデルに老化の尺度
を構想していて、どこまで一般化できるか疑問は残るが、石原が老化しているこ
とはまちがいないから老化しているおよその老人には当てはまるところありと考
えてよかろう。
老化によって失われるか、あるいは低下するものは六つだという。

1.判断力
2.決断力
3.記憶力
4.思考力
5.発想力
6.自制力

まとめれば、こういうことだったと思う。


○判断力と決断力


1と2の判断力も決断力も、そのような力を必要とするようなエライ人になった
ことがないので、初手からそんなものが私には、あるのかないのかよく分らない。
日常は判断も決断もおおむね同伴者の任なので自分の力を確かめる機会にめぐま
れない。老化によって衰えるかもしれないが石原知事など老化したから衰えたの
だとも思われない。素っ頓狂な判断なら今に始まったことでもないだろう。

新銀行東京で都民に多大の損害を被らせたり、築地市場を高濃度に土壌の汚染
された所に移転しようとしたり、小泉訪朝のお膳立てをした田中均氏に対する卑
劣漢による嫌がらせを、牽制するどころか使嗾したり、これら一貫する薄っぺら
さは老害期に入る以前からの本人の持ち前であろう。また、知事選には「もう出
ない」と言っておいて大方の候補者が出そろったところで名乗りをあげるという
ような、後出しじゃんけんの老獪は老化とはまったく別ものだろう。


○記憶力


3の記憶力は石原をモデルにするまでもなく、身に沁みて納得できる。これは
ひどいものだ。数え上げればかぎりがないほどひどいものだ。人の名前、ものの
名前、なんでんかんでん忘れて忘れてどうにもならない。やっと今思い出して、
もう忘れないなどと思ったら、もう忘れている。そして不思議におなじ単語を忘
れる。

そのおなじが次第に増える。おなじ単語を忘れるなんてことがいえなくな
るほど増える。物を取りに移動して目的地点に達した途端、なにをしに来たかを
もう忘れている。菅直人のようだ。総理大臣になった途端、さて、なにをするた
めだったかを忘れた。

なにをしに来たかを決して忘れないのはトイレに入ったときぐらいだ。夜にな
って本日は脱糞したかいなかを忘れていることもある。しかし、まだ、メシを食
ったことを忘れる域には達していない。昨日なにを食ったかはときどきあやしい。
一昨日になるともっとあやしい。

3.11のすこし前にNHKで「お買い物」というドラマがあった。福島県南会津郡
南会津町久が原というところで老後を過ごしている夫婦がいる。久が原は架空ら
しい。リタイアしてから移住するとしたらどこがよいか、アンケートをとると福
島がトップだそうだ。さもありなんとドラマを見て思った。嗚呼!フクシマが福
島に戻る日はあるだろうか。このドラマ、じつは2009年2月14日に放送された。
私が見たのは再放送であるらしい。

したがって爺さんの久米明85歳、もう一人は渡辺美佐子76歳である。まさしく
今日現在のわれら夫婦にあてはまる。渡辺美佐子はまだ婆さんとは言いがたいが
久米明は十分に爺さんである。名実ともに爺さんの久米明は足を投げ出してテレ
ビを見ている。

演技上婆さんの渡辺美佐子は仕上がった洗濯物を畳んでいる。そして「食前の
おクスリのんだ?」と訊く。久米「のんだよ」渡辺「ウソ。どうしてウソつく
の?」久米「ウソじゃないよ。忘れただけだよ」。これはありうる。大いにあり
うる。
クスリが切れそうになって医者に行く。そのとき残ったクスリを点検すると種類
によってばらつきがある。どれかをのみ忘れたからにちがいない。


○思考力と発想力


4の思考力も5の発想力も、個人的には初手から格別深くも鋭くもなかったから、
年取ってどれほど劣化したのか、あるいは円熟老成したのだか、よくわからない。
生活者一般にはそんなものが失われようが低下しようが自然であればよい。適度
に枯れている方がヘンに生臭い老人よりいい。そんなことより老人にとっては視
力、聴力、脚力の劣化の方がよほど深刻だ。早口のテレビ出演者にはまったくつ
いていけない。

プロの落語も漫才も聞きとれるがビートタケシは聞こえない。BSジャパンに勝
間和代のデキビジという番組がある。たまたま見たらゲストの田原総一郎が勝間
の早口に「えっ?」「えっ?」と、頻繁に聞き返していた。田原が老化したのだ
ろう。勝間もラジオで独演(内容不問)は歯切れよく明晰なのにテレビで多数に
混じるとスピード違反で暴走する。

 勝間が速読を実演するのを見たが、すごい勢いでページをめくる。あれなら
きっと速聴もできるのだろう。マーラーの「巨人」は5分で聴ける、なんて。国
会の中継ビデオの早送りを押すと音声も早送りになる。リュリュリュリュリュで
全然わからない。勝間ならわかるのだろうか。あの早口で、たとえば宮沢賢治を
朗読したらどうなるだろう。

やはり詩の朗読は勝間でなくて室井佑月がいいだろう。震災のからみで近ごろ
東北弁を耳にする機会が多い。なんと美しい、やさしく暖かく人を包むコトバだ
ろうと思う。この際、政府機能を東北に移し、東北弁を標準語に改めてはどうだ
ろう。国会の討議もはるかに荘重で品位の高いものになるだろうと思う。とにか
く4も5も、どうでもよい。


○自制力


6の自制力は大いに問題だ。直前の段落の文章を見ればわかるように老化とと
もに思考が散漫になってあちこちうろうろ道草するようになる。つまり理路整然
でなくなる。自制力がなくなるからだ。人のこころの天然に帰るわけだ。自制力
が低下して怒りっぽくなる老人はいる。また涙もろくなる老人もいる。恥ずかし
ながら3.11以後、私は震災の映像を見るたびひとりで泣いてばかりいる。

海江田万里のように人前では泣かないが。やはり老化だろうか。笑いやすくな
る老人はあまりいないようだが、私はつとめて笑うことにしている。ニートの孫
に「爺ちゃん、年寄りなのに声立てて笑うね」と訝しがられたことがある。ニー
トの観察眼はヘンに老人臭い。これは私の個人的性癖かもしれないが、とにかく
老化と劣化は必ずしもおなじとはいえない。老化によって怒りっぽくなるのは劣
化だが、怒りっぽくなくなる場合は老化であっても劣化ではない。「年寄りは気
が短い」などは劣化だ。

というわけで自制力がなくなって怒るのはいろいろよくないところが多い。石
原知事はよく怒る。しかし年とる前からよく怒る。大阪の橋下知事もよく怒る。
若いのに怒る。すると怒るのと老化とはあまり関係ないのかもしれない。関係あ
ってもなくても怒るのはまずい。非常にまずい。だいいち怒るのは大体において
醜い。怒る本人は、自分は正義で相手は正義でないと決めてかかって怒る。

実は反対の場合が多い。怒る方が正義だと思うことが出来るし思わせることが
出来るから、先手をとって怒るのが怒り屋の定石だ。実は大変ずるい。「怒る阿
呆に怒らぬ阿呆。おなじ阿呆なら怒らにゃ損々」というわけだ。ところが困った
ことに、「大抵道徳的な怒りというものはいつでも気分のいいものだが、たいて
い見当違いなものである」(E.M.フォスター)。それを彼らは知らないわけはな
いと思う。だからいっそうずるくて醜い。(2011/08/13) 

        (筆者は堺市在住・大阪女子大学名誉教授)

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