【戦後70年を考える(4)私にとってのアジア】

私の戦後70年談話

南雲 智


 安倍晋三首相による戦後70年談話の内容が取りざたされている。中国、韓国、台湾、その他のアジア諸国で、かつて日本がおこなった行為への、安倍晋三という憲法第9条までも変えることを視野に入れている首相の歴史認識が反映されるはずだからである。アジア諸国が、特に中国、韓国が強い関心を持つのは安倍晋三首相への強い不信があるからにほかならない。
 その一方で日本は平和憲法の下で戦後70年を他国と戦火を交えずに経済的な復興、そして発展をとげ、平和的な外交戦略で国家としての存在感を世界の中で示してきた。その意味で、「戦争放棄」を記した憲法第9条は世界に誇るべき条文と言える。

 しかし時の流れは人間の心を一つのところに留まらせてはくれない。いや一人の人間としてなら、1945年の敗戦直後のおのれを不動の思惟的原点として時を刻み続けている日本人がそれなりにいることは確信できる。
 しかし時は無情とも言える。戦後から70年が過ぎ、もはや戦後を流し去ってしまったかのような日本が現出している。安倍晋三という日本人が今や総理大臣になっているのだから。いやこの人物だけではない。ごく普通の私たちでさえ例外ではないのだ。
 あるテレビ番組で、日本人の若者への「8月15日とは何の日か」という質問に「終戦記念日」と正解できたのは半数ほどだったという。またNHKが2015年6月に広島市と長崎市、それに全国の20歳以上の男女を対象に行った世論調査で、広島と長崎に原爆が投下された日について、不正解者がそれぞれ全国でほぼ7割に上ったという。しかも広島と長崎に住む住民ですら、広島で3割、長崎で4割の人びとが自分の住む都市への原爆投下日を知らなかったのである。

 時は流れていく。人間がその流れに逆らえないのは仕方ない。だが戦争の記憶が確実に薄れて“風化現象”が起きている日本人の現在を放置することはできない。再び戦争への道を歩む危険性にみずから身を寄せていく可能性があるからである。
 しかし戦後生まれの私には、自分の体験として戦争の悲惨さを後世に語り伝え、絶対に戦争を起こしてはならないと訴えることはできない。私にできることは明治維新以降、近代国家として国の舵を大きく転回させた日本の歴史をあらためてより客観的に学び、私自身の歴史認識をしっかり持つことしかなさそうである。
 1894年に日本はなぜ「日清戦争」を起こしたのか。1904年に日本はなぜ「日露戦争」を起こしたのか。1910年に日本はなぜ朝鮮半島を併合したのか・・・と。さらに1914年、1932年、1937年、1941年という年にも“日本はなぜ”の問いかけが必要のようだ。

 戦争と侵略を繰り返したその歴史の中でいったい何が起きたのか? その結果は? そして何よりも忘れてならないのは、いつでも、どの場所にもそこで生活しているごく普通の無辜の人びとがいたことである。
 足を踏みつけた者と、踏みつけられた者の差は大きい。踏みつけた者は忘れやすく、踏みつけられた者はいつまでも忘れない。しかし、踏みつけられた者が、逆に踏みつける者となったとき、踏みつけられたときの痛みを思い出すことは少ない。人間とは何とも都合がよく、哀れむべき動物なのだろうかと思う。
 日本は1945年8月6日に広島、9日には長崎にアメリカ軍によって原子爆弾が投下され、世界で唯一の被爆国として、戦後を歩み始めた。被害者として、言い換えれば足を踏まれた者としての痛みを強烈に知ったはずの日本が、足を踏みつけた者としてアジアでおこなった行為を直視し、相手の立場に理解を示すなら、おのずと見えてくるものがあるはずなのだが・・・。

 原爆投下日を知らない人が増え、生存している被爆者は年々減少している日本だからこそ原子爆弾の恐ろしさを後世に伝え、核廃絶を訴え続けていかなければならない。また「8月15日」を知らない日本人が増加しているからこそ、戦争と侵略を繰り返した1945年までの日本の歴史を語り伝えていかなければならない。
 日本の戦争はアジア解放のための戦争だったと記述されている歴史教科書がヒタヒタと近づいてきている。

 (筆者は大妻女子大学教授)


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