海外論潮短評(31)         初岡 昌一郎 

-神(宗教)の政治的利用を批判する-

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  世界的に宗教戦争が犠牲者を増加させるに連れて、神の名が評判を落としてい
る。だが、神に反対する闘いも被害者を出している。宗教戦争に休戦が必要であ
り、世俗主義(セキュラリズム)が宗教的原理主義(ファンダメンタリズム)と
同じく世界にとって脅威であるとする主張をアメリカの国際問題専門誌『フォー
リン・ポリシー』11月号が掲載している。

 筆者のカレン・アームストロングは、『神の歴史 ― イスラム』など、多数
の宗教に関する著書を公刊している研究者である。論旨は、一問一答方式で展開
されている。


◇◇「神は死んだ」 ― 死んでいない


  1882年にニーチェが「神は死んだ」と宣言した時、近代の科学的な世界において
人はまもなく宗教的信仰心を保持できなくなると彼は考えていた。1970年代以降
、ほとんどの主要宗教でファンダメンタリズム(原理主義)の興隆による政治化が
目立つようになったにもかかわらず、『エコノミスト』誌が話題を呼んだ「神の
死」特集を1999年に行なったのは、それが議論に値すると思われたからである。

 しかし、2001年9月11日以降、神が死んでいないことが立証された。少なくと
もグローバルな公開的討論ではそれは疑問の余地がなくなった。ジハーディスト
(神の名による聖戦をとなえるもの)によるアメリカ攻撃、中東の一層の過激化、
再臨を信ずるキリスト教徒の8年間にわたるアメリカ大統領在任などを見ると、
誰しもその主張に反論するのが困難となった。『エコノミスト』の編集長でさ
えも『神の再来』という共著を最近出版した。

 多くの人は神が私的生活に関わりがあるかどうかに疑問を持っており、グロー
バルな舞台では「神が世界のために有意義な力か」をめぐって異なる論議がある。
活発な主張を展開する新無神論者は、宗教を歴史逆行的であるだけでなく、悪で
あると弾劾している。彼らは、人間の意識から宗教心を抹殺するキャンペーンの
先頭に立っており、宗教が分裂、対立、戦争を生み、女性を閉じ込め、子どもを
洗脳していると主張しており、宗教的ドクトリンは幼稚で、非科学的、非理性的
であるとみている。

 これらの論者は宗教についてだけではなく、政治についても誤っている。彼ら
は、人間が本質的に宗教的なものであることを見誤っている。人間はその発生と
共に宗教を創立した。人間は意義を追及する生き物である。犬は犬であることを
悩まず、死の不可避性に苦しむことはないが、人間はその人生に意義を見出せな
い時に、自暴自棄になりやすい。神学的な思想には変遷があるが、意義の追求は
続いている。その意味で、神はいなくなってはいない。宗教を忌避すべき、否定
すべき、あるいは破壊すべきものとして扱う場合に、最悪の結果が増幅する。好
むと好まないかにかかわらず、神は現世に留まるのであり、バランスの取れた、
共感を持ったマナーで神と共に暮らす方法を見つけるときである。


◇◇「神と政治を混同すべきではない」 ― 必ずしもそうではない


  神学的に無知な政治家が宗教に汚名を塗ってきた。不適切な理解が神をアイド
ル化しているが、好きとか、嫌いというイメージで捉えることは精神的荒廃の最
悪の形態である。このような傲慢が十字軍のような残虐行為を導き出した。脱宗
教政治の登場はこの傾向をチェックする意義を持っていたが、世俗主義自体が今
や世界に有害な新しい悪霊を生み出している。

 西欧においては非宗教的現世主義が成功を収め、近代的な経済と政治制度に不
可欠となっている。 しかし、それは約300年間に漸進的に達成されたもので、
統治についての新しい思想が社会のあらゆるレベルに浸透する時間的余裕が西欧
にはあった。だが、他の世界各地では世俗主義があまりにも急激に広がったため
に、依然として宗教に深く帰依し、西欧の諸制度を異質と見る国民各層の反発を
買っている。

 中東においては過剰に攻撃的な世俗主義が逆流を招き、既成宗教を一層保守化
させ、あるいはその反対に過激化させている。例えば、エジプトでは有名な改革
者、ムハマッド・アリ(1769-1849)が聖職者層を無慈悲に経済的に追
い詰め、片隅に追いやったので、彼らは変化に背を向けた。イランのシャー(皇
帝)が体制反対派のイスラム教職者たちを拷問し、亡命に追いやったので、アヤ
トラ・ホメイニなどイランの従来の宗教的支配者に極端な対応が必要との結論を
下させることになった。

 シーア派は、それまで何世紀にもわたり祭政分離を神聖な原則としていた。聖
職者が国家元首となるべきという、ホメイニの主張は異例の新説であった。しか
し、穏健な宗教は建設的な役割を果たしうる。エジプトの偉大な律法学者、ムハ
マッド・アブドゥは、シューラ(話し合い)とジーマ(コンセンサス)を重視する
伝統的イスラム諸原則と明確に結び付けなければ、圧倒的多数のエジプト人が生
まれたばかりの民主的諸制度を理解しないことを心配していた。

 宗教が政治的に利用されるかどうかよりも、その利用の仕方がより重要である。
ケネディやオバマなどのアメリカ大統領は、国民を結集する共有の経験として
宗教に頼った。そのアプローチは、神の権威に依存することなく、精神的共同体
の力を認識したものである。それでも、アメリカを確固たるキリスト教国にしよ
うとするプロテスタント原理主義者にとっては、このコンセンサスは満足すべき
ものではない。


◇◇「神が暴力と非寛容を育てる」 ― 神ではなく、人間の業だ


  人間は他の動物を殺し、食べることで生き残ってきた。人間は仲間も殺す。こ
の暴力は非常に浸透しているので、ほとんどの聖典に忍び込んでいる。しかし、
これらの攻撃的な文言は、他者を自らと同じように遇せという基本的戒律によっ
てバランスがとられ、チェックされている。何百年にもわたる失敗と過怠にもか
かわらず、この黄金律は正統な立場として生きている。

 "宗教"戦争は、その手段が如何に近代化されようとも、常に政治戦争として始
まっている。これは17世紀のヨーロッパでそうであったし、今日の中東でそうで
ある。いわゆるジハーディスト(聖戦主張者)の行動でさえ、神によってではな
く、政治によって鼓舞されてきた。1980年から2004年までの自爆攻撃についての
研究は、その95%が自分たちの母国から外国勢力を撤退させるという、はっきり
した戦略的目的を動機としていた。

 しかし、この自爆行為は大多数の信者を代表したものではない。最近のギャロ
ップが35カ国のイスラム教徒を対象とした調査によると、回答者の僅か7%が9月
11日の攻撃を正当化したにすぎない。

 原理主義は保守主義ではない。むしろ、極めて革新的で、異端的でさえある。
それは常に、危機意識に対応して展開される。危機感を持つ一部原理主義者は、
自らが擁護しようとする伝統を歪めている。パキスタンのイデオローグ、アブ・
アラ・マウドゥディ(1903-1979)は、ジハードを自分自身の向上のた
めの努力という意味からイスラム教徒の中心的任務としての"聖戦"に転化させた
、最初の主要思想家であった。彼と、エジプトの有力な思想家、サイード・クト
ブの二人は、これが非常に異論の多いものであることを十分承知していたが、西
欧の帝国主義とエジプト大統領ナセルなど支配者の世俗主義的政策に対して正当
化されると考えた。

 ユダヤ教徒、キリスト教徒、あるいは回教徒であれ、全てのファンダメンタリ
ズムは、その宗教帰依者が絶滅されかねないという、根深い恐怖に根ざしている。
ナセルが何千人ものムスレム兄弟団メンバーを押し込めた収容所で、クトブは
彼のイデオロギーを発展させた。諸集団は軍事的あるいは言説的に攻撃を受けた
場合に、ほぼ一様に過激化することを歴史が示している。


◇◇「神は貧者と無知な人のために存在する」 ― そうではない


  宗教は他愛のないもので、非合理的であり、社会の幼児期に根を張ると現代の
無神論者は力説する。これは、一見しての無限の選択可能性と繁栄に直面した人
類が依然としてマルクスが"アヘン"と呼んだものに依存していることに対する、
西欧知識人の失望を反映したものである。

 いかなる主要宗教もビジネスに反対していない。それらの宗教はもともと市場
経済の創成期に発展した。バイブルとコーランは収奪を禁じているが、ユダヤ教
徒、キリスト教徒、回教徒はみなこれまでにこの禁止をくぐり抜ける方法を見つ
け、繁栄する経済を生み出してきた。創始者が神と富の両方に奉仕することは不
可能と説いたキリスト教が、マックス・ウエーバーが1905年の『プロテスタント
の倫理と資本主義の精神』で指摘した文化的環境を近代資本主義に統合したのは、
宗教の歴史における最大の皮肉な結果である。

 主要な宗教の信仰的伝統はビジネスに反対するものではないが、資本主義的逸
脱には対応しようとしてきた。仏教などの東洋の宗教は、ヨガや他の自制方法で
人間心理の過剰な欲望を緩和させようとしている。三大一神教は、社会における
貧富格差の直接的な批判者であり、富の不均等な配分を痛烈に非難している。宗
教とは単に義務的な信仰を個人的に保持するという問題ではなく、人類がもっと
人道的になるのを妨げる自己中心欲を超えようとして、不断の努力による懸命の
営みを意味するものである。


◇◇「神は女性にきびしい」 ― そのとおり


  世界の主要宗教いずれもが女性に優しくないというのは、不幸にして真実であ
る。伝統が女性にとって積極的に開始された場合にも(キリスト教やムスレムの
ように)、数十年のうちに男性が古い家父長制に引き戻してしまった。しかし、
これが変わりつつある。あらゆる宗教の最上の特徴の一つである平等主義を根拠
として、女性は男性に挑戦している。

 近代性を証明するものの一つが女性解放であった。原理主義者は現代のエトス
にたいする反乱の中で、ジェンダーの伝統的役割分担を強調しすぎる傾向がある。
不幸なことに、この家父長的傾向にたいする全面攻撃は非生産的なことが証明
されている。例えば、"近代化を進める"政府がヴェールを禁止すると、すぐにそ
れを被る女性が更に増えた。1935年に当時のイラン皇帝レザ・シャーレビが、シ
ーア派の聖地メシャドで発生した、西欧風衣服の強制に反対する平和的デモの鎮
圧に兵隊を派遣して数百人を射殺した。このような行動が、近代以前に普遍的慣
行ではなかったヴェールの着用をイスラム教徒の尊厳のシンボルに仕立てたので
ある。

 現在のイスラム教徒の中には、近代化のために西欧を手本とすることを不可欠
とは見ないとの主張がある。西欧の流行は富と特権を誇示する物が多いのに対し、
イスラム教徒の服装はコーランの平等主義を示している。一般論として、ジェ
ンダー問題に西欧が直接に介入することが反発を招いた。教育、職場、政治にお
ける女性の権利向上を求める、土着的なムスレム運動を支持するほうがよい。


◇◇「神は科学の敵である」 ― 必ずしもそうではない


  科学はキリスト教原理主義者たちの敵となっている。彼らは、公立学校での進
化論授業や遺伝子研究に聖書の教えに反するとの理由で反対している。しかし、
彼らの聖書の読み方は前例がないほど融通がきかないものである。近代以前でも、
生命誕生の正確な記述として創世記を読む人はほとんどいなかった。17世紀ま
で神学者たちは、聖書の記述が科学に矛盾するならば、それを比喩的に解釈すべ
きだと強調していた。

 科学との衝突は、近代西欧における神についての帰納的観念によるものである。
皮肉にも、近代科学の経験重視が、神と宗教的言説を象徴というより事実とみ
なし、宗教を過度に合論理的教条的かつ文字通りに解釈する傾向を奨励した。

 大衆的原理主義は近代性に対する反乱である。キリスト教原理主義者にとって、
進化論は近代世界における全ての誤りを典型的に示すものである。それは科学
的理論というよりも悪のシンボル視されている。この反科学的偏見は、ユダヤ教
徒やイスラム教徒の間にあまり見られない。後者の原理主義運動は、教条や反科
学よりも、イスラエル国家などの政治問題によって触発されている。


◇◇「神は民主主義と両立しない」 ― 両立する


  サムエル・ハンチントンは、自由世界とイスラム教の"文明の衝突"を予言した。
彼は、イスラムを本来的に民主主義に反するものと断言した。だが、20世紀初
めほとんど全てのイスラム知識人は西欧を愛し、母国がイギリスやフランスのよ
うになることを望んでいた。多くのイスラム教徒を民主主義思想から疎外したの
は彼らの宗教ではなく、基本的人権と民主的権利を否定した、イランのシャー、
サダム・フセイン、ホスニ・ムバラクなどの専制的支配者を支持してきた西欧の
政府であった。

 2007年のギャロップ世論調査は、イスラム世界において民主的自由と女性の権
利にたいする広範な支持を示しており、多くの政府がそれを阻止しようと対抗し
ている。しかしながら、西欧モデルの全面的採用には抵抗がある。多くの人は公
共面に神がもっと明確に反映することを願っている。これと同じように、2006年
のギャロップ調査によれば、神が立法の法源であるべきだと46%のアメリカ人は
信じている。シャリア法(コーランに基ずく律法)は、多くの西欧人が嘆いてい
るような厳しい体系ではない。イスラム改革派は、変化する社会状況からみて理
解すべきだと論じている。

 宗教は世界的な政治問題の原因ではないが、政治問題を解決しようとするなら
ば理解することが必要である。政策担当者がシーア派について研究する努力をし
ていたならば、アメリカはイラクにおける危機的失敗を回避していた。各地域の
経済、政治、社会的習慣を研究するのと同じような科学的な公平さと正確さで、
宗教が研究されなければならない。そのことによって、宗教が如何に政治と絡み
合っているか、何が非生産的であるかを理解し、不必要な反発を避ける方法が見
つけられる。


◇◇コメント


  日本ではあまり関心が払われていないが、アメリカではキリスト教の政治的影
響力が非常に強い。しかし、キリスト教内部に様々な流れがあって、一枚岩とは
ほど遠い。近年のキリスト教原理主義の勃興と政治的攻勢の激化によって、宗教
の危険な欠陥を突く批判も活発になっている。

 新しい無神論の展開も見られ、サム・ハリス(『信仰の終焉:宗教、テロおよ
び理性の将来』2004年)、リチャード・ドーキン(『神の妄想』2006年)、クリ
ストファー・ヒッチェンス(『神は偉大ならず:宗教がいかに全てのものを毒し
ているか』2007年)など代表的な論客が登場している。

 他方最近では、原理主義と無神論の中間的立場で宗教を擁護する著作が相次い
で出されている。ロバート・ライト(『神の進化』2009年)や、本論文の筆者、
カレン・アームストロング(『ケイス・フォー・ゴッド - 護神論』2009年)
などが代表的な論者である。このような立場からの著作に、科学誌『ネイチャー
』の編集者から『ニューヨーク・タイムス』科学記者に転じたニコラス・ウェー
ドの新著『信仰という本能:宗教はどのように進化し、なぜ持続したか』があり、
これを『エコノミスト』2009年12月19日号が書評で取り上げ、かなり詳しく紹介
している。

 ウェードは、生物学の発展を下敷きにして社会学的見地から歴史的に宗教を論
じ、なぜ人類が生き残るために宗教を必要としているかを考察している。彼の指
摘の中で考えさせられるのは、本来的には信仰は個人的なものであるが、集団化
によりはじめて社会的政治的な勢力となる側面である。その半面、信仰の集団化
が排他性を伴うことがある.

 『アトランティック』誌2009年12月号も、ハンナ・ロシン「キリスト教が衝
突を招いたのか」という、長い論文を掲載してこの論争に割り込んでいる。この
論文は、新興宗派が精神性ではなく、現世における繁栄の福音を説くことで勢力
を拡大している現状を取り上げ、現世利益を説く宗教が欲望を肯定し、物質的な
楽観主義と膨張主義を広めていることを批判している。

 環境や経済の深化した危機によって科学、特に社会科学はその有効性だけでは
なく、存在理由をも問われている。知識を拡大、進化させることで人間の向上と
その主体性の強化を信じてきた、啓蒙主義的近代の科学万能論は挫折しているよ
うにも見える。

 現代の人間が直面する複雑な問題の掘り下げた探求と理解を放棄して、あるい
はそのような努力をせずに、単純明快かつ他力本願的な擬似的解決に身をゆだね
たいという誘惑が強まる根拠は十分にある。このような誘惑を利用する宗教集団
は、ともすれば非寛容と対立を煽る。その反面、問題解決に個人の力の限界を知
り、社会的集団的解決を求めながらも、人間の弱さを認識し、個人的な欲望を制
御、抑制しながら、謙虚な態度で調和的に生きる道を求める傾向を助長する上で、
宗教は肯定的な役割を果たしうるものであろう。いずれの道が選好されるかで
宗教だけではなく、人類の将来が左右される。
         (筆者はソシアルアジア研究会代表)

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