落穂拾記(36)

知らなかった「葛根廟事件」

羽原 清雅


 終戦69年。
 8月14日、目黒の五百羅漢寺で、ある慰霊祭が行われた。「葛根廟(かっこんびょう)」で命を落とした1000人余と、戦後に亡くなった人々を弔うものだった。
 そして、この日に向けて、「葛根廟事件の証言—草原の惨劇・平和への祈り」(興安街命日会編・新風書房=大阪=刊)、563ページという大部の記録・証言の書が出版された。

 この事件はかなり報道され、多くの著述があり、映画にもなりながら、筆者にとっては初めて知った事実だった。「戦争」被害は、多くの場所で、さまざまな形で存在したことが伝えられているが、新たに知ることで、これまでのマンネリ化した実感を脱して、むしろ新鮮に感じられ、あらためて「戦争」を考えることにもなった。時事通信社から日銀副総裁を務めた藤原作弥さんも小学3年生の時、この事件に巻き込まれ、かろうじての引き揚げ児童だった。

 事件関係者の、この事件についての記録・証言は、混乱時の個別当事者のものである。だが、それだけか。書けなかった、書くことに踏み切れなかった残虐、暴行や強姦、略奪、不快な権力行使など、戦争に伴う悲憤は数知れなかったのではないか。中国に残された孤児たちは、まだまだいたのではないか。一葛根廟にとどまらぬ惨状は、アジアの各地で展開されたにちがいない。そんなことも感じざるを得なかった。

        ◇    ◇    ◇

 葛根廟のある興安街は「興安総省」の役所の置かれた拠点で、住民の3分の2は政府や軍関係者だったという。いまは、中国の内モンゴル自治区ウランホト市で、ここは吉林、黒竜江両省境に近く、大興安嶺の山脈の横たわる内モンゴルでははずれの方に存在している。この廟は興安街の郊外の草原にあるラマ教の寺院で、地名にもなっている。
 1945年8月8日、ソ連が日ソ中立条約を破棄、日本に宣戦布告をし、9日午前0時を期して旧満州国などに侵攻してきた。残酷な事件のあった14日は、日本のポツダム宣言受諾の日であった。

 被災者については6割程度の氏名しかつかめていないようで、厚生、外務両省の調査もきわめておおざっぱだ。まずは、概要だけ紹介しよう。
 戦時下の興安街の在留邦人は約3000。郊外などに邦人開拓団の千数百人がいた。10日にはまず、関東軍、憲兵、特務機関員や軍属、軍家族、官庁関係など300人ほどが列車で撤退、朝鮮経由で帰国する。街の一般人は、いくつかのグループに分かれ、興安街西半分の地域の住民は11日夜の最後の列車で700人が出発、またやはり西側を中心としたグループ(高綱班)と、これに合流した開拓団などの950人は9月初旬までになんとかチチハル(黒竜江省)、長春(吉林省)に到着する。
 また、警務庁長に率いられた100人(福地班)は途中、土匪と交戦して8人が死に、そのあとソ連の収容所に移送される。

 悲惨だったのは、街の東部住民を「興安七生報国隊」と名付けて編成された1200〜1300人の避難行動集団(浅野班)だった。
 すでに11日の朝から、ソ連機は爆撃を始めており、電信、電話、電燈などは破壊されていた。そうしたなかで、同日午後5時に歩き始めて翌朝8時ころ、街から東北6キロのウランハタに集結した。高齢者や婦女子が多く、リヤカーなどを引く隊列は4つに割れ、何キロも続いた。事前に準備した馬車30台余は興安軍(当時の満州国軍)に徴発され、歩かざるを得なかったのだ。
 当初は100キロほど離れた地を目標にしたが、歩ける状況になく、約30キロの鉄道駅のある葛根廟に向かうことにした。ただ、12、13の両日は一部の人が北進するなどのこともあり、状況を見つつ途中で野宿状態だったようだ。
 14日午前11時ころ、一行の先頭が葛根廟に着いたころ、2キロほど遅れたグループのうしろに、ソ連の戦車10数台が次々に接近して、機銃掃射が始まった。守りの日本人男子はわずかな小銃で応戦したが、実態は無防備の婦女子たちを無差別に銃撃する殺戮だった。倒れた犠牲者を踏みにじるように、戦車は進む。キャタピラの金属音、銃撃のすさまじい爆発音、まさに阿鼻叫喚のすさまじさだった、という。
 「名刹葛根廟の山麓は実に1000名の惨血に染まった」(外務省記録、前述の書による)。
 地獄を脱出できた者約200、現場付近に残された婦女子約90、と見られている。
                 
 悲惨な姿は、ソ連兵らの攻撃ばかりではない。
 小学4年生で生き残った大島満吉さんが7月に会見したときの話である。
 「在郷軍人か役所の幹部か、日本刀を持つ3人の前には、自決を待つ7、80人の列ができていた」というように、生きてはいるものの家族を殺され、惨劇の様子を見て、自死をも覚悟する人々が多くいたという。
 大島さんの場合、家族のうち父と長兄(10)を見失い(のちに遭遇)、母親は自分と弟(6)、それに2歳の妹を抱え、死ぬことを選ぼうとした。まず妹ののどを借りた日本刀で突く。鮮血がほとばしった。
 だが、あとの子たちに続けることはできなかった。
 地割れしたような大きな壕に潜むが、追跡するソ連兵の姿におびえ続けた。戦車に轢かれ、折り重なった数百人の死体。爆殺・絞殺・銃殺・刺殺・服毒、入水の遺体。青酸カリの服毒や銃剣で刺す自決の様相。動ける人による決死隊。どこかから現れて衣服や持ち物を剥ぎとる暴民。ただ一人生き残った幼児。守ってくれるはずの軍隊の逃亡と不在。食糧の欠乏と襲う飢餓。通信手段や交通機関の途絶。8月の暑さと蚊や小虫の襲来・・・・
 それでも、大島さん一家はかろうじて日本の土を踏むことができた。
 734人の犠牲者の氏名は判明したが、約300人については不明のままだ。1946年に帰還できた人は110人ほどで、全滅した家族については一切わからない。また、帰還しても、全く語ろうとしない人、あるいは口外できない人も少なくない、という。

        ◇    ◇    ◇

 証言の記録から1、2の現実を紹介したい。
 ある残留孤児の話である(年齢は当時)。
 葛根廟でのソ連軍戦車に両親と次兄を殺され、姉(11)、三男の兄(6)、女児の私(3)が生き残る。2日間、草原をさまよったあと、葛根廟駅近くで中国人の駅員に救われる。3人はバラバラに預けられ、兄は鉄道員宅に、姉と私は別々の農家だった。私の引き取られた農家は3人家族で貧しく、食事は朝夕二回、農閑期は一回でトウモロコシと野草の餅か粥のみ。引き取ったのは、盲目の息子の面倒を見させるためだった。
 しばらくは、近くにいた姉とときどき会い、やっと覚えた中国語で話をしたが、そのうち私が帰国することを恐れた養父が姉と会うことを禁じた。成績は良く小、中学校を卒業したものの、「小日本鬼子」とののしられ、なにかと差別された。それでも、電力学校を出て、火力発電所に就職、日本人とわかってからは管理部門からランク最低の作業員にされる。
 18歳のころ、進学のために日本に残っていた長兄のいることを初めて知るが、帰国できるとは思えなかった。文革後期の1968年、同じ職場の工員と結婚。72年に日中復交を知り、76年には長兄から手紙と写真が送られてきた。78年中野良子の「君よ憤怒の河を渉れ」(「追捕」)などを見て、日本への思いがますます募ってくる。
 その年、いろいろの手続きを経て一時帰国が可能になった。姉がまず永住帰国、「死亡」の戸籍も復活できたものの、身元保証などの手続きが進まず、92年に結局20万円余の自費帰国の道を選び、帰国後に働いて返済した。夫(50)、長男(21)、長女(19)の家族ぐるみの帰国だった。
 だが、日本での生活は日本語ができず、日本人とのトラブルあり、電気通信の技能を生かせる職場なし、清掃の仕事は不景気による解雇などと厳しく、高齢化と語学力不足で就職口を閉ざされ、結局生活保護を受け、市営住宅住まい、という。帰国に尽力した多くの関係者に感謝をしながらも、言う。
 「軍国主義の国の政策によって…私達中国残留日本人孤児は永年中国に放置されたために『小日本鬼子』と言われて虐げられ過酷な条件の中で苦労して生き残り、帰国後も就職はじめ衣食住も儘ならず、『残留孤児』として蔑まれている被害者です」

 もう一人は残留孤児として、中国で中学の先生をしていた女性の事例である。
 兄弟は6人。長兄は進学のため日本にいて、父親はその日出張中。母親は5人の子どもを連れて、いったんは列車に乗り込むが、夫との行き違いを恐れて、車内に荷物を残したまま下車し、葛根廟に向かう集団に加わる。だが、途中でソ連軍のすさまじい攻撃にあう。
 姉(11)は逃げ惑う人々に踏みつぶされるように死ぬ。弟(4)は雇っていた牛車上で息を失う。もう一人の弟(6)は揺れる牛車から落ちて不明となる。残る3人で走って逃げ、くぼみに隠れると、これ以上は無理と思ったか、母親は背負っていた1歳にもならない妹を「いきなりナイフで刺し殺しました」。小学1年生の彼女は逃げ出すが、母親は追うことなく、自らナイフで自分を刺して、駆け戻ると「この袋にお金と写真がある。お父さんを探しに行きなさい」と言い残して、息を引き取る。
 ひとりのまま3、4日間、死体の山のなかで食べ物を見つけ、血の混じる雨水を飲み、炎天と大雨に苦しむうちに、やさしい中国人2人に出会う。これが第一の養父母となり、翌年には蒙古族で教養のある第二の養父のもとで育てられる。小中校から師範学校に進む。だが1966年、養父母は文革のなか、日本人孤児を養育したとの理由で連行、「日本のスパイ」として街中を引き回されたという。それでも、離れて住む彼女をかばい、身元の分かることを恐れて連絡を取ることを禁じた。

 その後、蒙古族の教育に当たって30余年。国会議員級のポジションにも就き、夫は失ったが、2人の子どもに恵まれる。81年、一時帰国が叶い、日本に残っていた長兄に会えた。出張中だった父親は、ソ連の参戦を知り、避難集団の避難列車に乗り合わせ、家族が車内に残した荷物を見出す。8月22日、釜山経由でやっと山口県小串港に到着するのだが、その船が港で機雷に触れて沈没、重傷を負う。帰京後は地元の助役などを務めるが、72年に病没、ついに生き残って帰国した娘と会うことはなかった。
 彼女は蒙古を愛し、その地元の砂漠2000ヘクタールを緑化しようと、日本人のボランティア団体などの支援で、94年現在で136万株を植樹、水稲もでき、小動物も住み着く「ウユン(烏雲)の森」を作った。「烏雲」は彼女の名前だ。葛根廟の関係者たちの「興安街命日会」はいまも、この事業を通じて苦難の地に親しみの想いをつないでいる。

 もうひとつ紹介を続ける。興安街から避難し、生き残った母親の手記である。
 この女性の夫は警察学校の校長で、迎撃隊を組んで国境に向かった。留守を預かる母親は長男(9)、二男(8)、妹(5)(3)(0)の5人の子供を連れて、運よく8月11日夕の避難列車に乗り込んだ。平壌で終戦を知り、釜山から山口県小串港に着くが、機雷で船は座礁。敗戦直後の日本も大混乱で、電報、電話は不通。やっとのことで郷里新潟に向かい、復員軍人のごった返す列車の座席下にもぐることはできたが、京都駅で1歳にもならない末の三女が命尽き、その後無蓋貨車で長雨にずぶぬれになって実家に着くが、すぐに5歳の長女が亡くなり、葬式の夜には3歳の二女が逝く。3人を失い、2人の男の子だけが残った。夫のことには触れていないので、モンゴルの地で玉砕したのだろうか。

        ◇    ◇    ◇

 以上がこの悲惨な事件のもたらした、いくつかの概要である。
 だが、この報告だけにとどめたくない。

 ・戦争は突然には起きない。おおまかにいえば日清、日露戦争は、日本が中国など混迷状態の国に侵出する列強諸国に立ち遅れることのないよう、また日本の殖産興業、富国強兵を実らせようという立場があった。日中戦争から太平洋戦争は、貧窮する農村や、不況に追い込まれる財閥・諸企業など経済界などの救済のために、大陸に土地と人口移住を求める国策があった。その、取られた政策が「戦争」だった。

 ・この日本サイドだけの「大義名分」は、相手側に理解されるか。それはあり得ない。一方的な理由づけは、むしろ相手側を刺激し、悪印象を長くとどめ、殺害などの苦しみと怨念を残す。相手側の混迷や弱みに付け込むことはできても、それは長期的な禍根を残す。中国、韓国、そして北朝鮮などの怒るA級戦犯容認の「靖国」は怨念の象徴であり、強制連行であろうとなかろうと、貧困からのしのぎであろうと「慰安婦」問題は、基本的な人権上、倫理上の点からだけでなく、明らかな軍の関与や手口の悪さなど身近な怒りが沈潜している。

 ・戦争に取り組むときには、いかなる国も自国側の「大義名分」を訴える。相手国は受け入れなくても、第三国などにアピールするためでもあるが、冷静に過去、現在、未来をにらめば、一方的で理にかなわないことが多い。戦争は、いつも強者の一方的な判断と説明に始まる。

 ・「大義名分」がない場合もある。その時は、満州事変、日中戦争前段の張作霖爆殺、柳条湖事件、日本僧侶謀殺事件など、相次ぐ謀略による戦闘のための「大義名分」つくりが進められる。政府や公権力は関与していない、証明する記録もない、と言っても、個々の実体験の、複合して重なる証言の数々や、歴史とその背景が明らかになってくれば、口先だけで逃げるすべはなく、認めたうえで将来に向けて進むしかない。

 ・戦争の舞台は、突発的に発生する事態もなくはないが、多くはまえもって、いろいろな仕掛けが設けられて始まる。結果からすると時間をかけての準備が進められていた、ということになる。対中、対米英戦にしても、近衛、東条が引き金を引く以前からの前段階の積み上げがカギである。左翼や自由主義の抑圧、右翼の政治テロ、恣意的な各面、各界にわたる法令の制定、政党の堕落、軍・官僚・財閥の癒着、言論報道の自由やチェック機能の喪失など、すべてがリンクして動き出す。気付いたころには、もう止まらないし、すでに正当化されており、それに逆らう者などは<正当に>弾圧されていく。

 ・多くの国民には、教育として愛国心と国家への忠誠が植えつけられる。愛国心は本来悪いものではないが、偏狭になりがちだ。自国を対比的に大切に思わせるには、相手国やその国民、民族の弱点、混乱の要素、自国への批判や攻撃への反発などを鼓吹する必要がある。つまり、相手への侮蔑、差別、嫌悪、憎悪のたぐいを吹き込むことになる。いまで言えば、ヘイトスピーチや一部のメディアなどが典型である。

 ・そこに、マスメディアの応援が加わる。戦前は言論の封殺や、大本営発表の責任に転嫁するまでもなく、メディア自体が偏狭な「愛国」アピールに溺れ、煽りにあおった。そこには客観性、公平性、自他の可否の比較検討もなかった。一方的に戦争に向かう環境整備に手を貸し、国民を方向づけた。
 戦争はメディアにとって、収益を広げる機会だった。燃える国民の関心を引き寄せ、戦況の情報に耳目を集め、部数を伸ばした経験が忘れられないのか。電波、電子の時代も、同じようである。
 一部の客観性を失った新聞、雑誌は、他国民を誹謗しつつ、相手側の怨念に対抗するように嫌悪感をまき散らす。相手側の気持ちなど、配慮しない。あたかも、ヘイトスピーチのような見出しが飛び出す。また、過去に歩いた道を二度と誤るまいとするメディアにしても、誤報のたぐいを長く検証、訂正せずに、二極化したメディアのなかで対抗する側を小躍りさせる。

 ・たとえば、「慰安婦」の問題のポイントは国家的な「強制」の有無ではなく、軍自体が間接的以上にシステム的に関与してきたことの反省や、外国人を巻き込んだことの相手の怒りを認識することであり、現代の視点からいえば人権や倫理、尊厳という、人間としての基本的な問題だろう。こうした、あるべき論議をごまかしてしまうことにもなりかねない。
 被害者の立場にあった相手の言動に、誤解や行き過ぎがあることも認める。だが、その点を争う前に、長期的な歴史に耐えうるかどうかの視点は見落としたくはない。

 ・民主主義は個々人のものであり、その判断や選択は個々人がしなければならない。権力やメディアの流れに身をゆだねていても、最終の結果や責任は個々人で負わなければならない。権力は時に都合のいい方向で国民に語りかけ、騙しにつながることもある。メディアも、情報源としては重要だが、その判断は視聴者個人が果さないと、誤った道を進みかねない。要は、多くの方向を見定める、長期の判断力を持たない限り、あざむかれることになりかねない。

 ・したがって、歴史を直視せず、暗い過去は水に流し、なかったことにするかの修正は、問題の本質を解決することにつながらない。緊張時にこそ出動すべき外交が「ドアだけ開けて相手を待つ」一方、相手への対抗措置とはいえ、軍事力をこれまでになく増強しつつ待ち受ける姿勢でいいのか。近隣諸国との未来は明るく持続できるのだろうか。

 ・「戦争」が国家国民一体で進行されたとしても、戦争の結果は国民一人ひとりがその重荷をそれぞれに背負わなければならない。葛根廟事件は、国策にそって家庭ぐるみで移住した人々の「後始末」となった。戦争の旗を振り始めたのは軍であり、政府であり、官僚群や財閥などであったとしても、結局その悲惨な結末は国民一人ずつが背負わなければならない。

 ・戦争への布石が今打たれようとされている、とまでは思わない。しかし、歴史の類似性は感じる。踏まれた足の小指の痛みは相手のもの。これを感じる程度のセンスは持ち合わせたい。

        ◇    ◇    ◇

 葛根廟の被害者には、ソ連、そしてソ連軍への怒りはいまも消えていない。ただ、69年の歳月は、むき出しに怒りを示すことはなく、沈潜しているように見える。内モンゴルから逃げるなかでの中国の人々に対しては、悪印象と感謝の気持ちが交錯しているようだ。感謝や親しみの情はいまも行動のなかにも示され、不快な思いは抑制されたのだろうか。
 この複雑な思いは、その当時者にしかわからない。
 葛根廟事件の被害者の気持ちは、中国、韓国、北朝鮮をはじめアジア諸国の被害者の想いに通じている。国情はどうあれ、被害者個々人の複雑なこころは、国家や権力を超えて、将来の一人ひとりの身に生かされなければなるまい。そうは書きながらも、むなしいような気もしないではないのだが・・・。

 (筆者は朝日新聞政治部長)


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