■臆子妄論  

- 病気、病院、電車のはなし(4)- 西村 徹


■チンチン電車(阪堺電気軌道)


 退院したのが五月一日、連休明けからの放射線治療は電車で通った。空模様の
悪いときはKさんのクルマで運んでもらったが、基本的には電車で通った。土日
以外の毎日だから、いちいち切符も面倒になって途中から定期券を買った。乗車
回数からはトクにならなかったが記念品になって残った。その電車は今どきめっ
きり少なくなった路面電車だ。路面といっても市電のように全線が路面、すなわ
ち併用路線ばかりというのでない。柵の中を電車だけが走る専用路線のところも
ある。

 専用線で一箇所だけ駅と駅の間が1.3キロの直線コースがある。このときだけ
はしゃにむに走る。そして左右に激しく揺れる。酔っ払いが踊るかのように走る
。ところどころ電車のお通りのたびに遮断機が下りる。人を通せんぼしてカンカ
ンカンと警報が鳴る中を電車そのものもカシャシャンカシャシャンと音を立てて
走る。たぶんこのとき運転手は月給の厚薄には替えられないほどの開放感に胸ふ
くらませているのではないかと思う。私が運転手を羨むのはこのときである。時
速50キロも出ている。それ以外は表定時速20.1キロ、いちばんがんばっても30キ
ロ、ときどき自転車に追い越されたりする。

 他に私が運転手を羨むところが二箇所ある。ひとつは南のターミナルである浜
寺公園駅前を出発して次の船尾駅までの、途中に立体交差するところである。出
発する時は南海本線浜寺公園駅の約100メートル西からほとんど並行に北進す
るが、間もなくS字状カーブを登坂し、盛り土高架上をチンチン電車が南海本線
を跨ぐことになる。ここは下から眺めても中に乗っていてもはなはだ愉快なとこ
ろだ。下を走る電車が普通列車だと、もう直ぐ停まる速度だから、まるで音のな
い動画を見ている感じだが、特急や急行が轟音とともに疾走するのに出くわすと
愉快度は倍増する。本線の上り下りがすれちがったりすると倍増ではおさまらな
い。そのうれしさをたとえれば政権交代とおなじではないが少し似ている。天に
昇った、は大袈裟でも大屋根に上がったぐらいの気にはなる。休日になるとカメ
ラを構えてその瞬間を待つ人の姿をよく見る。昔は土手の上に海道畑という駅が
あったそうだが今はない。

 もうひとつ、上町線の住吉から、その次の神ノ木までが同じくS字の上り坂だ
。両駅間の距離600メートルすべて上り勾配を完全登山電車だ。電車はけなげ
にがんばっていることが、その音からわかる。カシャシャンカシャシャンではな
くてヒーンと一本調子になる。運転手もきっとふんばっているにちがいない。ひ
ょっとして後ろに滑り落ちないだろうかと心配しているだろう。下りはイマイチ
拍子抜けでくだらない、などというと駄洒落になるが、上りは運転手でなくても
力が入る。神ノ木駅も盛り土高架で下を南海高野線が走っている。上りきって土
手のてっぺんに停まったときの心持ちは、ひとまずある種の達成感がある。なぜ
神ノ木か。昔は浜が見えて神木が立っていたとか住吉大社の老松が見えたとかで
あるらしい。ついでに言うと、この神ノ木は映画にもなり63年以降八回にわた
ってテレビドラマになった山崎豊子原作「女系家族」の、老舗の呉服店「矢島屋
」の社長の妾宅があると設定される土地である。神ノ木駅から400メートル北
の帝塚山四丁目で降りて東へ10分歩いたところが私の通院する病院である。


■のんびり電車―阪堺線と上町線


 路線は二つあって、ひとつは阪堺線、もうひとつは上町線という。阪堺線は浜
寺公園駅前から恵美須町まで、ほとんど一直線に北上して日本橋デンデンタウン
の南端、歓楽商店街「新世界」北端に達する。全長14.1キロ。上町線とは、
阪堺線途中の住吉で東に分れて(厳密にいうと上町線の始発駅は住吉ではなく、
その200メートル先の住吉公園であるが)天王寺駅前まで北上する4.6キロをい
う。南の端の浜寺公園駅前から北の端まで、恵美須町へも天王寺駅前にも、どち
らにせよ14キロを走るのに42分かかる。春風駘蕩のんびり電車である。住吉
公園駅から出てくるのを住吉で待っていると電車は粛々と音もなく人家の蔭から
現れる。それは、あたかも能役者が揚幕の下から橋掛かりに出てくるようにあら
たまって見える。

 歴史地理的に言うと阪堺線は「音に聞く高師浜」を発して紀州街道に沿い,北
畠顕家が戦死した石津川を渡り、御陵前(仁徳陵)から旧堺市中に入り、与謝野
晶子生家跡、利休茶室跡、堺事件の妙国寺などの傍らを過ぎ、大和川を渡って住
吉大社に達し、阪堺線はそのまま紀州街道を直進して今宮戎に達する。上町線は
住吉から枝分かれして少し東に振れた後、帝塚山から上町台地上を北に進み、安
倍晴明神社のあたりで現在の阿倍野筋、昔の熊野街道に入ることになる。

 現代史的には阪堺線終点の恵美須町は新世界という商店街ならびに歓楽街であ
る。庶民的という以上に庶民的な、雑駁というよりむしろ猥雑な歓楽街である。
浅草ほども垢抜けてはいるまいし、浅草ほどの賑わいも今はないだろう。山谷に
該当する釜が崎というドヤ街の地続きでもある。たとえばかつては温泉劇場とい
うストリップ小屋があって「ペニスの鼻歌」などという看板がかかっていたりし
た。今は見なくなったが恵美須町のプラットホームには茣蓙を敷いてカマの労働
者が真っ昼間一升瓶を抱えて独酌で酒盛りをしていたりした。駅の手洗いは彼ら
の洗面所であった。


■新世界とサルトル、そして澤野工房


 サルトルが来たことがある。新潮世界文学47の月報13に朝吹登水子という
人が書いている。
  「1966年9月、サルトルとボーヴォワールが慶応義塾の招きで日本に来た
時・・・その日は大阪のNHKでテレビに出、そのあと庶民的な新世界をぶらぶ
ら歩いた。狭い一杯飲み屋ご飯をかきこんでいる職人、夢中でパチンコをやって
いる若者、バラックの店先いっぱい並べた小間物屋の商品をひっくり返している
お内儀さん。夕方で相当の人が出ていた。むこうから千鳥足でやって来た労務者
風の男が、すれ違いざま『やあー』と陽気な声をかけて、サルトルの肩をぽんと
叩いた。サルトルはちょっとびっくりしたが、すぐにこっと笑って手を振った。
もちろん男はサルトルが誰であるか知らなかったようだ。」

 いかにもカマの労働者らしさがよく出ている。もっとも大阪人は、とくに南大
阪では、老若男女を問わず、行きずりの人に平気で話しかけるから必ずしもカマ
の労働者の持ち前とは言えないかもしれない。とりわけこの界隈はそんな気分が
横溢している。ここに来る人はある種の緊張と解放を同時に感じる。ある種のア
ナーキーな雰囲気が全体を覆っている。欲望の解放区でもあり肉の苦界でもある
が、また弱者が傷を舐め合う「どん底」の連帯感情の生まれるところでもある。
しかしさすがに「肩をぽん」は新世界の「労務者風の男」ならではのことかもし
れない。

 誰の入れ智慧によったものかは知らないが、新世界は十分サルトルの興味を呼
ぶに値するところだと思う。新世界とサルトルという組み合わせの意外性にも負
けない組み合わせが他にある。通天閣のちょっと手前に澤野商店という大正三年
創業の履物店がある。履物屋は、和装が主流の時代、いまのブチックのように華
やいだ色彩の氾濫するお店だった。そこは同時に澤野工房というジャズレコード
の会社でもある。下駄屋の老舗四代目の大将が同時にレコード会社の社長である
。そういう不思議な深みと味わいを、この新世界の濃密な空気が、たぶんに享楽
的で刹那的でもある空気が包み持っている。あるいは澤野由明氏とジャズは純粋
に個人的であって新世界は偶然であるのかもしれないが、偶然だろうがなんだろ
うが澤野工房の所在地が新世界であることは紛れもない事実なのである。

 新世界は釜が崎に連なり、釜が崎は日本最大級の飛田遊郭に連なり、そこから
東へ天王寺公園の南側JRの掘割を隔てて通称天王寺村と呼ばれる芸人長屋の町
があった。今や芸人はタレントと呼ばれる富裕層に変貌して天王寺村は跡形もな
いが、天王寺村消滅後も相当期間、男娼はこの界隈に住んで、たそがれる頃合を
待って街頭に進出していた。ときに阿倍野のビルの曲がり角で艶麗で、かつ量感
のある大女(?)が通行客に秋波を送っているのにぶつかって度肝を抜かれたこ
とがある。花柳とかなんとか新派の舞台の女形を見るような壮観であった。いず
れにせよ半世紀ぐらい前のはなしであって現在の消息を私は知らない。しかし、
その、天王寺村の東端こそが上町線のターミナル天王寺駅前になるのである。


■上町線


 この天王寺駅前駅は、ターミナルはターミナルでも路上にあって、今は地下道
を通って上に出るようになっているが、以前は信号に従い路上を半分横断してプ
ラットホームに達するしかけになっていた。ポチの小屋を大きくしたような木箱
の出改札口だったと思う。ここから阿倍野筋すなわち熊野街道を1キロ余り下っ
た松虫という駅の辺で首を少し西に振っておいてから再び直進して北畠、姫松、
帝塚山三丁目などという高級住宅地を住吉公園目指して南下する。高級住宅地で
あるとともに学園地帯でもある。下町を走る阪堺線と対照的な、まさしく上町線
である。しかし上町台地は同時に上町断層でもあって、いずれ大地震が直撃する
だろうといわれている。瀟洒な数寄屋のお屋敷は相続税の重圧に圧されて持ち主
がかわり、新たな勝ち組が跡地に建てる家はむくつけき鉄筋コンクリートが多く
なって往年の景観は急速に失われつつある。
 
  じつは私が最初に就職したのが大阪女子大学という一学年140人、学生総数
640人の超ミニ大学で、所在地が上町線の帝塚山三丁目であった。旧制のころ
は大阪府女子専門学校といった。北畠には旧制の大阪高等学校があった。相隔て
ること800メートル。いずれも上町線の東側であった。大阪高等学校の向かい
、すなわち線路の西側には旧制住吉中学校、現在の住吉高等学校が今もある。帝
塚山学院という富裕層向きの私立学校は帝塚山三丁目の西側にある。東側にあっ
た学校は二つながら消滅したが、西はいずれも健在である。電車はおのずからこ
れらの学生生徒で溢れる。私も天王寺駅前から通った。しけた話だが、姫松で降
りると5円安い。学生は学割定期だから帝塚山三丁目まで行って降りる。我々生
活者は姫松で降りて400メートルを歩くことによって5円を節約することがあ
った。この節約術を奨めてくれたのは化学の教授で船場道修町の名立たる薬種問
屋の跡継ぎであった。


■八十歳の車両


 なぜこんな、電車の話を書く気になったかというと、病院通いで久しぶりに乗
った電車がたまたま昭和参年、川崎車輌製造の160型モ162であったことに
よる。車両そのものがきわめて古格で、外側鋼板だが内部は木製。冷房装置を屋
根に搭載する荷重に耐えないので夏の間は車庫で静かに冬眠でなくて夏眠する。
いま日本中の電車のうち最高齢と聞く。外は蓬、青竹、抹茶、ビリヤードグリー
ン、ターコイズグリーンと、いろいろ想像を呼ぶが結局深緑。医者、クスリ屋の
明るいグリーンではない。これは親会社南海電車のシンボルカラーだからである
。他の車両は広告塗装しているが、これだけは伝統の色を保存塗装している。扉
は芥子色。いや柿か金茶かマリゴールドか。内部は萌黄か若菜かというところ。
窓は木枠一枚ガラスで開けるときは下枠の引き手に手をかけて全開する。開ける
か閉めるか、中途半端はできない。運転席背中の衝立と天井とのあいだにはアー
ルデコ調唐草模様の飾りアームが付いている。

 私は、もうこれだけで痺れてしまうが、なによりも昭和参年に参ってしまった
。それは1928年、私の満2歳の年。一気にこの年を起点として昭和史が脳裏を駆
け巡る。なによりも昭和参年は竹内好が、また保田輿重郎が大阪高等学校に入学
した年である。彼らは真新しいモ162にどれほど頻繁に乗ったことであろうか
。なんということであろうか。車両内の空気は俄かに一変する。たったいまこの
中に彼らがいないと誰がいえるか。そう思うだけで私の心は震える。彼らの霊よ
出現せよと震える。霊といえばせっかちに過ぎようか。ひとつの記号を契機にひ
とつの記憶がよみがえり、記憶が感覚として身体性を帯びるにいたった心境は、
霊あるいは出現(apparition)というほかにあろうか。石川淳が書いていたと思
う。東京の市電のなかで前に座っているのが誰あろう森鴎外その人と気付いて身
も心も震えたと。そういうことを私はこの「昭和参年車」に乗ると、仮想のなか
で追体験してしまうのである。
  今回はこれが書きたいだけで書いたようなもの。


■こぼればなし


 折角だから、少々こぼればなしのようなことも加えておく。駅あるいは停留所
に「チカンはアカン」というポスターが貼ってある。駅と駅との間隔は1~2分
である。時間帯にもよるだろうが、座席が一杯でも立っている客を見ることはま
れである。これでチカンができる、そんな器用なチカンはいるだろうか。私の貧
しい想像力では不可能としか思えない。どこかから、たぶん国交省の天下り先の
独立法人かなにかから、すべての駅に貼るようにと税金を使って作ったポスター
を送ってくるので、枯れ木も山の賑わいというので壁の空間を塞いでいるのであ
ろうと思う。ありえないことをあり得るかのように言うのは、これはちょっとし
たブラックユーモアかもしれない。

 もうひとつ、堺市内の大道の北端、綾の町で線路はS字に曲がるが、曲がる直
前の突き当たりに洋風居酒屋らしき店。これがGreedという。運転席のうしろに
座っていると、いやでも真正面に見える。店主は何のつもりでこんな名前をつけ
たのか。簡単には理解できなくて唸ってしまう。「強欲」という意味を知らない
で付けるとも思われない。うんとgreedyに飲み食いしてくれという意味だろうか
。鬼婆なんていう居酒屋もあるから、人目を引くためにどぎつい名前をつけるの
は珍しくないことかもしれない。やはり、これは「チカンはアカン」に負けない
くらいのブラックユーモアかもしれない。

 もうひとつ、天然記念物的昭和参年車のほかにいくつかの車種がある。60年前
後の帝国車輌製モ501も、モ601も乗車口が40センチぐらいの段差があって、と
くに和装の年配女性は昇るのにたいへんである。慣れた人は降車口つまり前から
乗って、語らずして運転手の助けを得ている。正規の乗車口つまり後ろから自力
で這って上がる人もいるが、大抵だれかが気軽に手伝うのが普通になってはいる
。そこがこの阪堺線のアットホームなところではある。さすがにその後はモ701
から2段ステップになった。しかしこれがはなはだ少ない。


■有形文化財として保存を


 両方あわせて20.7キロのうち大阪市内の11キロは3月決算で年間800万円の黒字
、堺市内の8キロ足らずは2.億2100万円の赤字であった。赤字分のいくらかを堺
市が補填している。堺市はLRT東西線の新設と共に阪堺との相互乗り入れを考
えていたが市長が替わり新市長はこれを廃案とした。赤字に苦しむ阪堺電気軌道
は廃線を言い始めている。

 人間でも古くなると「国宝」といって、なんとか保存しようと大切にする。遊
郭の建物でも飛田新地の元妓楼「百番」は2000年に国の登録有形文化財にな
っている。この百年電車、鉄道馬車時代に遡れば百二十年の路面軌道を、なんと
か残せないものであろうか。これを残すか残さないかで、それを決める立場にあ
る市長が俗物であるかないかが決まるといえる。新しい市長を強く推した知事が
ほんものの俗物であるかないかが決まるといえる。

 銚子電鉄は銚子から犬吠を過ぎて外川に至る営業距離6キロほどの単線である
。車両の法定検査費用に窮し、土地の醤油を使って濡れ煎餅を製造発売して支援
を呼び掛け、これに応じる支援者によって銚子電鉄は救われた。もし知事も市長
も真っ赤な俗物であることが明らかになった場合、なにか銚子電鉄のようなアイ
ディアはないものかと私は思う。
                    (筆者は堺市在住)

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