■【横丁茶話】 ~甲子園の「君が代」~  西村 徹

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■「君が代」に思わず涙


  3月23日、春の選抜高校野球がはじまった。春も夏も私は高校野球を見ない。
それゆえ例年との比較はできない。しかし、たまたま目にすることになったテレ
ビ実況によると、東日本大震災の被災者に遠慮して、入場する選手がグランドを
一周するとかプカドンとか、すべて祝祭的な演出は中止され、例年とはちがっ
て、厳粛といえば厳粛な、かなり沈んだ雰囲気になったらしい。

 その、たまたまのテレビ画面に、たまたま開場式が映った。静まり返ったグラ
ンドの、ホームベースの前、少しピッチャーズマウンドに寄ったところにマイク
が設置されていた。黒い制服、黒いストッキング、ポニーテールの少女が外野席
のほうに向ってマイクの前に立ち、国旗掲揚とともに「君が代」を無伴奏で独唱
した。後にYouTube(※)で確かめたところによると、宮崎西高校2年生。その名は
谷口まりや。 (※) http://www.youtube.com/watch?v=4F4tuu3i18A

 なんとしたことか。聴いていて、私は涙を抑えきれなくなってしまった。「君
が代」に涙するというのは私においてありうべからざることであった。いまでこ
そ、日の丸は多くの国旗の中の一つとして、「君が代」は多くの国歌の中の一つ
として、格別の愛憎をまじえずに受け入れるようになってはいるが、ここまで来
るにはかなりの時間を費やさねばならなかった。

 戦時中、日の丸は血塗られたものであった。「君が代」はおどろおどろしいも
のであった。どちらも死と殺戮に結びついて意識されねばならぬものであった。
どちらも重苦しく人の心を威圧してやまぬものであった。日の丸それ自身、「君
が代」それ自身に責任のあることではなく、状況がこの旗と歌にそのようなイ
メージを背負わせてしまったのだと認識するには相応の時間を費やさねばならな
かった。その「君が代」に、私はわれにもあらず涙したのだった。

 日の丸はまだしもよい。勝手にひるがえっているだけなら、身体的被害をもた
らしはしない。それどころか、日本が交易国家であるかぎり、外洋を安全に航行
するには船舶にとって必要不可欠であろう。しかし「君が代」はちがう。勝手に
鳴っているだけならまだしも、東京都の高校などでは教師が無理やり起立させら
れたり、口パクではなくて発声しているかどうかをチェックされたりして、直接
の身体的苦痛と精神的屈辱を強いる責め道具になっている。

 あるブログ(※)に「『君が代』を不気味に感じるのは、その陰湿で最悪なメロ
ディーのセイだけじゃない。何よりも、リリックが不気味なのだ。」とあるのは
、たぶんそのとおりだろう。概ねこれに近い印象を長く持ち続けてきた、その私
が涙したのは大いに不覚といわねばならない。その不覚はどうして起こったか。
歌詞の意味は吹っ飛んでしまって純粋に音楽だけが私の心に響いたのだろうか。
だとすると「陰湿で最悪なメロディー」に私は涙したことになるのであろうか。
  (※)http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2008/02/post_4f60.html  

■どうしてそれは起こったか? ------------------------ 
 
  どうしてそういうことが起こったかを考えてみよう。まずリリックのほうから
考える。リリックは歌詞のことだ。このブロガーの好きなヒップホップでは歌詞
をリリックというらしい。もともと私は歌を聞いてメロディーは覚えても歌詞を
正しく覚えることが苦手だ。歌詞は私にはほとんど重要でないことの私的理由を
説明するために少し脱線する。

 歌でも詩でも読んで気に入るときは、私は十分気に入るのだけれど、よどみな
く誦んじるレベルにまで記憶することはなかなかできない。覚えたいのにできな
い。小説を読んでも、読後の満たされた気分だけが持続して、ストーリーが正確
に記憶されることはほとんどない。注意力散漫というのか、集中力が持続しない
というのか、要するに堪え性がないのだろう。大江健三郎は一読よく詩を正確に
暗誦することができると自ら語っていた。

 人の話しを聞いて録音したかのように正確に復唱できる人が歴史学者にはい
る。鉄道唱歌を初めから終わりまで歌う人、軍歌「戦友」を全編デュエットで
歌って即興の振り付けで踊る二人組みがいたりする。どだいアタマの組成がちが
うらしく、私はたぶん文学的に魯鈍散漫で怠惰なのだろう。文学的に魯鈍散漫で
怠惰だけでなくて、すべて生そのものに対して積極性がなく、行動に対して無気
力で怠惰なのだろう。今若ければ草食系だろう。たとえば、私は、なにごとにも
好奇心は強いのに、カンニングには一度も誘惑を感じたことがない。

 京大入試のカンニングなどの話しを聞いても、あんな面倒な努力を要すること
をあえてする人に大いに感心はするが自分もひとつ真似て見ようなど、つゆ
ほども思うことがない。そういうダメ人間だから「君が代」の内容をほとんど意
識したことはない。つまり、どうでもよくて、いつもうわの空だったから今回も
そうだったのだろう。ただ、高校の友人などで、なにかというと寮歌を歌いたが
る連中がいるが、歌詞の意味を意識して歌っている者はほとんどいない。うわの
空は私だけではない気がする。


■さざれ石は巌になるか?


  だから歌詞は余り考えなくてもいいわけだけれども、折角だから考えてみるこ
とにする。さざれ石が巌になるのは不合理だと、よく言われる。このブロガーも
そう言う。しかし私のような理科オンチでも、それはそんなに不合理ではなかろ
うと思う。礫岩というのがある。砂粒が集まって岩になるらしい。石筍というの
もある。石の氷柱である。石だってなんらかの化学物質を含んでいるだろうか
ら、そういう化学反応だか物理反応だかが起こってもいいだろう。

 河原の石を見ているとじつにいろんな石がある。石の中に石が居候しているよ
うなのもある。常識どおり岩が崩壊して砂になるだけとはかぎらないぐらいの想
像力は私にも働く。アンモナイトとか、とにかく化石があるなら石化もあるわけ
で、さざれ石が巌になるぐらいはあるだろう。 たとえ自然法則上ありえなくて
も、また、ほとんどありえないほど稀であっても、それぐらい稀なことが起こる
ほどに悠久の時を措定するのは、詩の誇張表現として、さほど稀ではない。私は
この歌のここがいちばんのミソだとさえ思う。

 これあるがゆえにこれは詩なので、これがなければ屁のように退屈な歌になっ
たであろうと思う。実朝の「山は裂け海はあせなん世なりとも」やロバート・
バーンズの「海は乾き、岩は太陽に熔けるとも、わが愛は変わらじ、いのち尽き
るまで」などは誇張と言っても所詮は常識の次元を出るものではない。「日は西
に昇り月は東に沈む」までこなければ、さざれ石が巌となるほどのサープライズ
はない。しかし17世紀イギリスの形而上詩にはこれぐらいの目を剥く奇想
(conceit)は珍しくない。


■「君が代」は賀歌にあらず挽歌という説


  さて、さざれ石が片付いたとして、それですぐさま悲しい歌になるわけではな
い。ところが「君が代」挽歌説というものがあるという。藤田友治『「君が代」
の起源』を、友人のKさんの蔵書から借覧することができた。元歌の『古今和歌
集』巻七「読み人しらず」は「我が君は 千代にましませ さざれ石の 巌とな
りて 苔のむすまで」である。これが今の形に変えられて天壌無窮の皇運を寿ぐ
歌になったらしい。ところが、これが賀歌に入れられているのは紀貫之の作為に
よるもので、本歌は万葉集の「妹が名は千代に流れむ姫島の子松が末に苔生すま
でに」という河辺宮人の挽歌であるという。

 「姫島で若い女性の水死体を発見した作者が、その女性を哀れんで詠んだ歌」
だと前書きが付いてる。死者を哀悼して「苔生すまでに」と言っていて、歌い口
は「君が代」にそっくりだ。だから古今集の元歌も挽歌もしくは哀傷歌であるべ
きだという。もうこれで私が涙したにはしかるべき理由があったことがはっきり
したようなものである。挽歌を賀歌にトランスするぐらいは、土佐日記を書いた
女装趣味のチョイ悪オヤジなら造作もなかろう。

 挽歌なら、哀傷歌なら、涙してなんの不思議もない。「我が君」は天皇などで
なく、天皇なら「大君」となるはずだし、「我が」も対称の代名詞だという。対
称の「我」はやや古い近畿の方言を知る者には十分納得できる。「おのれ」もお
なじくだ。どやしつけるとき「わりゃア」「おんどりゃア」など。東国の方言で
なら「てめえ」。近ごろでも対称の代名詞として「自分」が使われる例がある。
子供にむかって「ボク」とか「ボクちゃん」などと一人称を対称化して使用する
ケースは英語にもある。この歌は身近な死者に対して、その死を拒んで永遠に生
きていてくれと願っているということになる。

 歌詞のほうはこれぐらいにしてメロディーに移る。「陰湿で最悪なメロディー
」というのも、私がこれを歌わされた1945年までの軍国主義の状況下ではまった
くそのとおりであった。「君が代」を歌うのは、たいてい、圧拍的で陰うつな空
気の支配する場面でのことが多かった。そういう状況設定で、多人数の混声で斉
唱されると地鳴りのようにどよもして不気味だった。挽歌とは知らなくても十分
陰気だった。短いだけがせめてものすくいで、はじめごろのように三番まであっ
たら堪らなかったろうと思う。


■「君が代」のメロディーは陰湿で最悪か?


  そのような前世紀前半の抑圧的状況から離れて、楽曲そのものの成立の過程を
見直すとする。藤田友治からのほぼ丸写しをする。「君が代」は元々が薩摩藩の
琵琶歌「蓬莱山」のなかに歌いこまれていたものだという。薩摩藩は祝儀の歌を
つくることとなり、委嘱を受けた砲兵隊長大山巌が、自分の名の巌を強く意識し
て「君が代」を選定し、明治二年、藩軍楽隊長イギリス人フェントンに作曲を依
頼、海軍省、宮内省に提出した。ところが、それが不評であったため、宮内省は
雅楽課林広守に作曲させ、ドイツ人
  エッケルトに編曲させたという。

 雅楽なら話しは変わる。私は琵琶歌をほとんど知らず、蓬莱山をまったく知ら
ない。辛うじて雅楽を少し知っている。知っているは言い過ぎで、聞いていると
いうべきであろう。そして雅楽を聴くことを好むともいうことができる。雅楽に
ついて、中野重治は、ゴビの砂漠に生じてモンゴルの草原を渡ってくるような音
楽、というようなことを述べていて、共感した記憶がある。濁った混声の斉唱で
はなくて、笙・篳篥・龍笛のような、清澄な吹き物で奏されれば「君が代」もず
いぶんと趣きは変わるのではないかと思う。これを当世の欧米渡りの、しかもヒ
ップホップのようなものを尺度にして言うことはできまい。

 そこで結論。早朝の静まり返った甲子園球場のまん中で、「君が代」を無伴奏
で独唱した谷口まりやの声は、どこまでも清く澄んで、よく透る、ヴィブラート
のほとんどない、しかし決して硬くはない、張りのあるソプラノであった。イギ
リスのルネサンス音楽、リュートとともに歌われる声に通じる声質のように思わ
れた。エマ・カークビーという天使の声の持ち主といわれる今や大御所の声楽家
がいる。今日では波多野睦美という日本人声楽家がエマ・カークビーに伍して、
ダウランドなどを歌って世界に知られる。

 将来の谷口まりやはこれらに続くのではないか。そんな気がした。偶然かもし
れないが谷口まりやは宮崎西高校、波多野睦美は宮崎大学教育学部卒である。あ
るいはもっと日本的な、新内や清元に遡りうる声質のものであるのか、そのあた
りは私にはわからない。

 とにかく「息を呑む」という常套句を使うしかない美声であった。谷口まりや
の美しい声を通して純粋に音楽だけが私の心に響いたのであった。もし自分をカ
ッコに入れることの出来る人であれば、歌詞のイデオロギーを洗いさって後の音
楽そのものに感応することができるはずである。東日本大震災直後の、日本人の
すべての心が深く傷つき破れている非常時の沈痛な雰囲気がこれにもう一つの効
果を与えていたことはいうまでもない。谷口まりやの喪服を思わせる黒づくめの
服装とあいまって、濃厚にその音楽は挽歌の響きを響かせるものであった。

                             (2011/04/03)

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