【オルタの視点】

現代史文脈からみる朝鮮半島の和平と北東アジア

 ―― 世界構図の変化のなかでの社会・市民運動の役割

井上 定彦

  いまから2年弱前の2016年末にアメリカではトランプ政権が誕生することになった。「アメリカ第一主義」を掲げ、それによって人気をえて当選しただけに、アメリカが第二次大戦後、「普遍主義(ユニバーサリズム」を掲げ続けて世界でリーダーシップをとってきた論理といわば真逆である。第二次大戦から70年余にわたって、この「普遍主義」を担うかたちでIMFやWTOのような国際機構は大きな存在感を発揮し、世界秩序を形成してきたともいえよう。
 したがって、アメリカのこの「転進」の世界への衝撃は誠に甚大である。

 加えて、それに数カ月先行してこれまた19世紀から20世紀前葉をリードしてきたイギリスが、欧州連合から離脱する国民投票で方向を決めた。離脱手続き期限は迫っている。この二つの大国が米英連合(大西洋同盟)を組むことで、世界秩序への影響力を確保してきたわけだ。「パクス・ブリタニカ」(イギリスによる「平和」)と「パクス・アメリカーナ(アメリカによる「平和」)という19世紀と20世紀の二つの大国・覇権国が、明らかにみずからその位置を切替えようとしているともえる。

 このような世界構図の変化のなかで、中国はすでに2010年には日本を追い越して世界第二の経済大国となり、存在感を急速に高めていた。「大不況(いわゆる2008年リーマン・ショック)後」の世界で「G20」体制を創出しただけなく、並行して、BRICSの形成、上海条約機構(中国、ロシア、カザフスタンそしてインド、パキスタン)、さらには長期展望のもとで「一帯一路」のユーラシアからアフリカにいたる巨大圏域の構想を徐々に具体化しつつある。ASEAN(東南アジア諸国連合)の諸国はそれなりのまとまりを維持し(東南アジア経済共同体・AEC)高い経済成長を続け存在感を増している。いちじは、アメリカと中国という二大国の協調による「G2」体制にみえたこともあったが、これは誠に短命であった。いまや米中「貿易戦争」のはげしさは増すばかりだ。他方、中東地域の大混乱は続いたまま、中南米の国々のそれぞれの変化も激しい。

 これらの独自の動きは、いかにも21世紀の特徴を表しているのかもしれない。
 端的に表現すれば、いまやどこか特定の大リーダー国のもとで、それぞれ縦型序列で構成されたような秩序の時代は去りつつあり、世界の多極化の傾向は明らかである。世界で突出してみずからの政策(路線)をそのまま貫けるというような「超大国」という存在・位置はすでになくなりつつあるのではないか。このことを「Gゼロ」の世界(イアン・ブレマー)というなら、そのような傾向はますます強まっているように思う。だから、個々の国家間での対立・対決(その背景にはそれぞれの国内情勢のたえざる変化がある)独自性をもった動き・交渉がもとめられる、それなりに有効性をもつ、そのような時代に入っているのではないか。
 こうした歴史文脈でみたとき、眼前にしている朝鮮半島情勢の変化と北東アジア地域の今後の展望もこれが関わっているように思う。

◆◇ 2018年、南北首脳会談・米朝首脳会談 最後の「冷戦地帯」は終わるのか?

 そこで、本稿のテーマである朝鮮半島情勢の新展開について述べたい。
 まずは、筆者がこの夏にソウルでの会議(1,300人が参加した国際労使関係学会)に出席したときの実感を紹介したい。この分科会のひとつに、韓国の代表者がみえられ、この会議に「来年からはあるいは北朝鮮の代表者も参加してくれるかもしれない」と述べたことに驚いた。というのも、これまでずっと数十年にわたり、北朝鮮の研究者の参加なぞはむろん考えられなかったからである。
 また、韓国側の相次いだ社会労働報告の前文には、それぞれに立場の相違があるはずにも関わらず、必ず「キャンドル市民革命」に続く内外の変化、という表現がつけられていた。このことにも強く印象づけられた。この新文在寅政権を誕生させた社会運動の大波は、韓国の国内問題に関わるだけではなく、対外関係、外交上、安全保障上の問題についての大転換に連動する可能性をもつ変化であったと理解すべきなのかもしれない。

 そこで、この半年たらずの間での、朝鮮半島情勢の劇的変化を追ってみよう。それは、1)2018年4月27日の韓国・文在寅大統領、北朝鮮・金正恩委員長の南北首脳会談(板門店)、2)引き続く5月26日の電撃会談、そして3)世界的に注目された6月12日の米朝首脳会談(トランプ大統領と金正恩委員長、シンガポール)、4)さらには9月19日の南北首脳会談(平壌)での声明という展開によって、おおよその流れをたどることができよう。

 4月27日の文在寅大統領と金正恩委員長の最初の会談と声明は、その後の推移をみると、もっとも系統的で一連の流れの枠組みをなしていると思う。この「板門店宣言」では、「両首脳は、朝鮮半島にもはや戦争はなく、新たな平和の時代が切り開かれたことを8千万同胞と全世界に厳粛に宣言した」とし、「冷戦の産物である長い分断と対決を一日もはやく終わらせ・・・、民族的和解と平和繁栄の新たな時代を果敢に切り開き、南北関係を改善し発展させる」との確固たる意志をこめる、とする。そして、「完全な非核化を通して核のない朝鮮半島を実現するという共通の目標を確認した」という項目をたてつつ、注目すべきは、両国間での各級レベルでの積極的交流をかなり具体的に列挙している点だと思われる。

 高官級会談をはじめ、首脳会談での合意にそって実践するため積極的な対策をたてる、開城に南北間の常設共同連絡所をおく。当局と国会、政党、地方自治体、民間団体などの各界各層の参加する民族共同行事を推進する。南北の鉄道・道路を東海線と京義線を含め連結して、活用のための実践的な対策をとる。また、軍事的には、衝突の根源となる相手に対する一切の軍事的行為を全面的に禁止する。国防相会談をはじめとする軍事当局者会談を頻繁に開催し、将官級軍事会談を実施する。また朝鮮半島外の国際関係について、「南と北は、休戦協定締結65年となる今年、終戦を宣言し休戦協定を積極的に転換し、・・・南北米三者、または南北米中4者会談の開催を積極的に進める」としている。9月の南北首脳会談実施を日程に盛りこんでいる。

◆◇ 直面する「終戦宣言」、平和協定は実現するか

 この流れは、現在も迂与曲折の中にある。だから、早々に示された米朝会談の予定も、いつも先行き不透明であったし今後もそうなのであろう。トランプ大統領のかけひき・交渉術という側面もあるが、北が自らの「生命線」としている核・ミサイルを放棄するというのは「長い道程」となることは想像できよう。それに先立つところの現在の一時的な「休戦協定」を転換して終戦宣言や平和協定とすること自体がまずは大事業となるのである。二度目の文・金首脳会談(「日帰り電撃会談」)は、その後6月12日に実施される結果となった米朝会談の確認、目標としての「非核化」やそのための手続きの準備会合であったようだ。

 そして、米朝首脳会談(シンガポール、6月12日)は、金正恩氏が世界政治の立役者のひとりとして華々しく登場する初舞台となった。この会談の声明は、たしかにおどろくほど短い。最大のポイントは、米朝間で朝鮮半島の平和に関する新たな国家間関係樹立を確認し、北朝鮮は「朝鮮半島の完全な非核化のためのゆるぎない関与を再確認する」ということ。そしてそれに対してアメリカは北朝鮮の「体制保障 security guarantees」を行う、ということであった。その前の文・金首脳の板門店宣言の再確認も明文化されている。

 日本をはじめマスコミの多くは、核廃棄のタイム・スケジュール、その核施設やミサイル製造拠点の開示がなかったということで、無内容であるとするものが多いが、米当局はそんなことまでを期待はしていなかったのかもしれない。米国内向けにはなによりもトランプ大統領の外交成果を誇示すること、北による戦略核攻撃の危険性が当面抑止されたこと、またさらには朝鮮半島周辺の安全保障の経済コストを下げうる可能性をさぐるということであったのかもしれない。それにしても日本の安倍政権にとっては、国連制裁・経済封鎖によって「最大限の圧力」をかけつづける、すなわち対話路線を一切拒否してきたわけだから、大きな衝撃であり、無様に北との対話を求めるという姿勢転換とならざるをえないことになる。

 このあと、しばらく米朝対話は不調だったが(ポンペオ国務長官は7月と10月上旬に平壤訪問)、韓国と北朝鮮との対話・交渉はほぼ予定どおり進行している。
 9月19日には文大統領が平壤を訪問、「平壤共同宣言」をだした。これには、1)「実質的な終戦宣言」であるということ、2)南北交流・経済協力の強化、南北の民族経済を均衡的に発展するという表現には、北に対して巨大な経済優位をもつ韓国の経済協力は攻撃的・吸収的なものではないことを北に保障するもの、とも読める、3)非核化への韓国の参加・当事者であることを明記し、北はむろんアメリカもこれを了承していることが明らかとなった。
 さらに注目すべきことは、軍事合意書が別立てで結ばれたことである。それは、1)南北の一切の敵対行為を全面中止、2)38度線周辺の「非武装地帯」を本当に非武装化し、監視哨所の撤去を含めてさらに平和地帯とすること、南北双方が非核化の過程で互いに銃を向けないことを含めて「不可侵合意書」とみることができるという点である。

 アメリカは、この10月はじめの段階にいたっても、当初は期待されることもあった朝鮮半島の「終戦宣言」を肯定する姿勢をみせていない。このことについては、北はもとより韓国政府も、さきの板門店宣言で休戦協定65周年となる今年中には終戦宣言をめざしたいとしてきていた。

 しかしながら、トランプ大統領はともかくとしてアメリカの従来の「産軍複合体」をはじめとする「エスタブリッシュメント」にとってはこれは鬼門であるとみられる。というのも、終戦になるまでは朝鮮国連軍が当事者(「休戦協定」は、国連軍・中国・北朝鮮の三者が結んだもの)なのであり、この国連軍(とはいってもトップは米軍司令官が兼任)のもとで、有事には在韓・在日米軍はもとより、韓国軍そして日本の自衛隊も指揮・協力下に入ることが想定されていたからである。本当に「終戦」となれば、この国連軍指揮という形式が失われることになるわけだ。

 そして、この春から夏にかけ新たに大きな国際問題として登場した問題は、米中「貿易戦争」、あるいは米・中対決の様相が世界的スケールで次第に色濃くなってきているという点である。北朝鮮の核問題、極東の安全保障問題というだけでなく、いまやアメリカにとっての最大のライバルとなりつつある中国を、太平洋、インド洋を含めていかにして牽制するのかが、より大きな課題となってきたのかもしれない。沖縄の米軍基地問題もこのことに関わらないはずはないのである。

◆◇ 朝鮮半島、南北対話開始にいたる道のり

 そしてこのような、一連の外交交渉と朝鮮半島という最後の「冷戦地帯」の克服に関して、韓国の文在寅大統領政権の主動的な大きな役割をあらゆるところで読み取ることができよう。文政権は昨年5月大統領に着任後、9月の国連総会での公式スピーチ、ベルリンでの演説をはじめ、朝鮮半島での戦争の回避と平和の道をめざし緊張緩和をよびかけるため、非常に多くの外交努力を積み重ねてきていた。同盟関係にあるアメリカはむろん、中国やロシアを並行してそれぞれ訪問、平和への動きの地ならしを行ってきていた。それは、北朝鮮があいついで核実験を行い水爆についても完成に近づく、その運搬手段のミサイルについても発射実験を繰り返したさ中のことであった。その脅威が周辺諸国のみならず、米本土(グアム、ハワイを含む)においても一時騒然となった時期でもあったのである。

 国連安保理の経済制裁はさらに厳密度を増し石油及び石油製品輸入が大幅に制限され、中国も北朝鮮からの石炭輸入を大きく削減することとなり、2018年以降の北朝鮮経済の顕著な悪化はさけられないものと予測される状態となっていた。
 緊張は2017年秋から2018年はじめにかけてピークに達していた。それでもいまからみれば、この北朝鮮の核ミサイルによる威嚇のもとにおいても、水面下では韓国、北朝鮮、米国の情報機関の事態打開をさぐりあう動きがあったものと思われる。

 そして、転機となったのが、2018年春の韓国ピョンチャンでの冬季オリンピック開催であった。ピョンチャンには北から金永南最高会議常務委員長、金与生氏をはじめとする代表団が来訪し、これが南北対話の公式のスタートとなったことは記憶に新しいことだ。
 膨大な犠牲をだした朝鮮戦争の悲劇(1951~53年)は繰り返したくない、同じ民族同士血を流しあうことはしたくない、このことは韓国も北朝鮮も一般論としては、いつも存在はしていた。しかしながら、それにもかかわらず、朝鮮半島全土においての政治抗争、全面戦闘はなくとも小規模な軍事衝突はずっと続いてきた。韓国側からみれば1968年の青瓦台の大統領府へのゲリラ部隊の攻撃、ラングーンでの当時の大統領をねらった爆破攻撃(1983年)、1987年12月の大韓航空機爆破事件はその一部にすぎない。北からの高官を含む亡命の続出、初期からの誘拐・拉致、行方不明事件は日本での拉致問題(主に1970年代後半)よりはるかに多数に及ぶものであったとされる。

 金日成政権時代を「遊撃隊国家」の時代であった、と歴史的に規定しうるほどに、正規戦はなくとも遊撃戦が続けられていたとみることもできよう。金正日国防委員長は、これを「先軍政治」すなわち正規軍に政治権力を集中することで国内を統制し直し、現在の金正恩政権にひきついだわけである。2016年5月には、金正恩党委員長は「36年ぶり」となる朝鮮労働党全国大会をひらき、次いで6月には北朝鮮の最高人民会議の国務委員長にも就く。国家としての統制・安定は、すでに開始されていた経済改革の実行(企業責任管理制度の導入等)、そしてなにより国際的孤立の中でイラクやリビアのような米軍による破壊を避け「体制保証」を求めるためとして、核兵器の開発、長距離ミサイル開発に集中した(「並進路線」)わけである。

 この後者がほぼ完成の域に近づいたとき、国際的な経済制裁が一層強まり、軍事的緊張もピークに達することは予想しえないことではなかったはずだ。そして、すでに着任していた文在寅政権の登場、国連などでの外交和平方針の表明をみて、決断をしたとみられよう。2018年の「新年の辞」において、金正恩委員長は、それまでのアメリカとの交渉・対話優先から、「先南後米」政策へアクセントを移すことを明示した。「凍結状態にある北南関係を改善し、意義深い今年を民族史に特記すべき画期的な年として輝かさねばならない」とした。2017年12月からは、すでに目立った核・ミサイル実験は、完成したので不要であるとして自粛をつづけ、本気度を示した。
 そして南北会談少し前の3月25日、金正恩委員長は長らく不和が伝えられてきた中国との会見改善を示すため特別列車で北京を訪問、その後も米朝交渉に関わっても中国首脳と会談、ロシアとの関係改善の動きを示した。

◆◇ 文在寅政権の新路線を生み支えた「キャンドル市民革命」

 このような文・金が率いる南北首脳対話の開始は、双方の長期にわたる長い政治的軍事的対峙、小戦闘はいつでも起こりうるというそれぞれの社会の基層を含む国内的緊張と、それに見合う政治勢力構造の形成をふまえた困難な転換が必要であった。殊に「民主化宣言」(1987年)以降の韓国にとっても、金大中政権と盧武鉉政権のあとに二代続いた李博明・朴槿恵保守政権が、「反共・反北韓」をかかげる新旧軍部勢力や韓国経済を仕切る大財閥グループの連合によって支えられていただけに、その壁は巨大であったとみられよう。
 南北朝鮮の分断を「力」で統一する「強行統一」論が、韓国でも、朝鮮戦争をしかけた北においても正統派たるかのような議論がまかりとおった長い分断後の歴史であった。

 それでも韓国の世論調査をみれば、2017年はじめには、北との対決論より対話推進を支持するものが多数をしめるようになってきた。築き上げてきた圧倒的に有利な韓国経済、そして世界的に存在感と信望のある位置を占めるようなったという自信が備わってきていたということなのかもしれない(1990年代半ばのOECD加盟による「先進国」入り、韓国人が国連事務総長となったこと等)。それが北の核とミサイルによる威嚇を目の当たりにし、「ふたたび民族同士は争わない」というメッセージをみたとき、膨大な犠牲が予想される北との軍事的対決よりも「対話」の方が優先事項として支持される雰囲気が生まれてきたのかもしれない。

 そして、その契機となったのが、2016年秋から2017年春にいたる「キャンドル市民革命」の大波であった。朴政権退陣・罷免を求める巨大な国民運動の興隆であった。2012年に文在寅候補を破って登場した朴槿恵大統領は、父正煕の伝統をもつ強い支持層(保守あるいは反動派)があった。しかしながら、このころから経済のグローバル化により加速された韓国社会のさまざまな亀裂が表面化してきていた。「二重社会」ともいわれるような青年の失業の深刻化、非正規雇用の拡大、新たな貧困、そしてそれと対極をなすようなサムソン、ロッテをはじめとする大財閥層の富裕化、特権化があった。そしてそれらが韓国の縁故政治、金権政治の政治文化と結びついて朴槿恵大統領周辺に集まり、大統領秘書官グループを含む権力的政治への批判の土壌となった。

 韓国市民社会の感覚から中央政治が乖離しているのではないかという疑念は、国民の中に広がっていった。そこに2014年秋には、大型旅客船セウォル号が沈没、高校生を含む300名余の犠牲者をだすという大惨事を起こした。そのとき人々に印象づけられたのは、大統領府のこの事件への無関心と、沈没直前に学生達に船室にとどまるよう指示しながら、最後まで残るべき船長が真先に脱出したことであった。間をおかずして、大韓航空がアメリカの空港から離陸しようとしたとき、この大会社の娘が、機内サービスが悪いとして感情を爆発させ、機長に駐機場にもどるよう「命令」した「ナッツ・リターン事件」も起こった。特権階層の横暴が印象づけられたが、このようなことが韓国社会で日常化していた現実を反映していたということかもしれない。
 2015年には、政府の農業政策に抗議する農民が韓国民主労総主催のソウル光化門前集会で警察の防水銃で倒れ死去したことも憤激をかった。だから2016年4月の国会選挙では、与党セヌリ党が敗北したうえ分裂し、「共に民主党」がいったんこれを上回ることとなっていた。

 この秋の9月から、一部の勇気ある新聞とテレビで、朴大統領の私的友人の民間人・崔順実のパソコンから大統領室の大量の機密情報(国家機密)に関与していた証拠が明らかにされた。この私人である崔順実が大統領と秘書官グループと組んで、財閥からの献金を集め、私的に流用しようとしていたこと、また崔の娘が大統領周辺の圧力で名門大学に不正入学し留学までしていたことが、順次、明らかになった。韓国の大学入学をめぐる「受験競争・受験地獄」は、日本の常識をはるかにこえるような酷さであり、このような不正に対して、高校生・大学生、青年層は激しく反発した。

 全国のさまざまな潮流の市民運動はネットによって相互に連携をはじめ、ソウルをだけでなく各地に「朴槿恵政権退陣非常国民行動」が組織され、巨大な潮流が現出した。2016年10月29日の第一次デモはソウルでは3万人が結集したが、これ以降、毎土曜日の午後から夕刻にかけて、かならず大規模な集会とデモが開かれ、参加数は加速度的に増加していった。11月26日の第4次集会は、ソウルでは警察発表でも27万人が、ソウル市庁舎から広い光化門前の道路を、手に手にキャンドルライトを掲げ埋めつくした。
 このような集会とデモは2017年3月の憲法裁判所による大統領弾劾妥当の判決、27日の大統領逮捕にいたるまで途切れることなく続いた(この毎土曜日の集会だけでも20波、累計で1,700万人といわれる)。冬の酷寒の韓国各地の集会・デモには、徴兵義務(2~1.75年)を終え38度線周辺山間部の軍務についていた青年も多く混じっていたわけである。これらの全国各地の行動は、たとえばソウル市の協力(警察など)、良き誘導と集会参加リーダー達の熟達した指導のもとで、おこりがちな衝突・混乱は殆ど回避され、整然たる行動となった。

 韓国ではこれまで自由や民主主義、特権層への批判・抗議の運動が高揚してくると、いつも反動・保守層の強い反撃・弾圧が加えられた。しかし、今回は朴大統領を支持した勢力は分裂し、強固な大衆運動の基盤のうえで民主党など野党はまとまって行動した。
 そして、5月9日の大統領直接選挙で、さきにはいったん破れた文在寅候補が第一位となり、すぐに着任することになった。なお、文在寅氏はさきの盧武鉉民主党大統領のもとで統一推進委員長をつとめたことがあり(離散家族でもある)、早くから南北対話事業の困難に通暁した政治家でもあった。文在寅大統領は、北が核実験を繰り返し、日本海では複数の米軍空母や大型爆撃機の軍事演習が繰り返される中で、昨2017年9月21日には、国連総会で北の強硬姿勢について「失望と怒りを禁じえない、しかし韓国政府は北の崩壊を望まず、北部の吸収統一も推進しない」と演説した。

 国内では、文政権の下で社会政策の新たな進展(公共部門をはじめとする非正規雇用の正規化や最低賃金の大幅引上げ、経済社会評議会の新設と政・労・使三者、青年、女性、中小企業の各代表による政策運営体制の強化等)は知られていたが、内外ともに2016年秋から2017年春にかけての、あの民主化運動の大波という社会の基底における共通した地殻変動に関連していたわけだ。
 人権と民主主義の擁護、市民参加の「広場民主主義」は、朝鮮半島の平和と戦後構造の転換を求め、「板門店宣言」後は、文政権への支持率はかえって上昇した。
 韓国では、この「キャンドル市民革命」について、17世紀のイギリスの「名誉革命」、18世紀のフランス革命と並ぶものと位置づける識者もいる。

◆◇ 問われる日本の対外姿勢 ―「小日本主義」は妥当しないのか?

 このような劇的ともいえるアジアと世界をめぐる国際関係の変化のなかで、あらためて問い直されているのが、日本政府の矛盾の多い、また著しく遅い対応という問題である。文大統領、金正恩委員長、そしてトランプ大統領、習近平首席が、次の時代の世界秩序に関わる新たなダイナミックな動きをしてきたのに対して、日本の平和に直接関わるこの1~2年の動きについて、アメリカに従来のまま追随する、殊に北朝鮮に対しては「最大限の圧力」のみを強調した棒を飲んだような対応しか行わなかった。また浮上してきた「米・中貿易戦争」の懸念についても、これといった役割を果たしていない。むしろ、トランプ大統領の当選祝いに真先にかけつけた安倍首相(欧州諸国をはじめ冷やかな反応が多かった)にもかかわらず、アメリカのお先棒をかついだはずのTPPからの離脱をつきつけられ、加えて対米貿易の黒字問題に関わって対日関税引上げが求められている。

 もともと、北朝鮮の関係については、1990年前後の与野党合同訪問団をはじめ、2001年には、小泉首相の平壤訪問と首脳会談(金正日)から国交関係の樹立の模索があった(日朝平壤宣言)。拉致被害者を連れ帰るという成果は残したが、世論は沸騰し、かえってこの拉致問題が大きな障害となって動きがとれなくなったという面がある。短命だった福田康夫政権も回復を模索したが果たせなかった。民主党政権も基本的にはなんらの改善も折衝もできなかった。

 また、その間、米の外交政策それ自体の変化や、中国等の新興国の世界経済と政治での比重増大という構造変化がある。したがって、そこでは日本の国際的位置が以前までの「米・欧・日」の三極時代はすでにとうに終焉したと考えるべきだ。このような変化をふまえたうえでの大きな視野で対外戦略を再検討すべきときなのだ、と思う。いまや、日本のジャーナリズム、政党の世界認識は、対中国・対韓国(嫌中・嫌韓)を含めて、世界の構造変化・構図変化に対して大きく乖離してしまったのではないかと懸念される。そのことで、国民世論が世界の動きから取り残されてはならないのである。

 かつての戦前期の軍部礼讃・政党と政治の卑下、対アジア政策での日本優位を生かす(大陸進出)というところまでではむろんないとしても、懸念すべきことである。
 これから日本はいかなる対外戦略をもってのぞむのか、どのような方向が日本と世界の本当の利益になるのだろうか。この戦前期の大正後半から昭和10年代においても、日本の政治経済と対外路線について、冷静な思考を貫いて、日本の進路に一貫して警鐘をならしつづけた識者もいたのである。石橋湛山(岸内閣の前の首相を務めた)は、早くから日本の対外姿勢は人々と世界の利益にならないとして、対外利権の放棄を含め「小日本主義」を唱え続けた(清沢洌もそうである)。
 このような本物の知識人が、これほど海外情報が氾濫しているなかで現在の日本にいないはずはないと思う。ジャーナリスト、国際問題の研究者、外務省を含む官庁の識者の意見は、おそらく、強大な現政権の意向「忖度」の圧力構造に抑圧させられて、発言はあっても目立たない位置に追いやられているのではないかと思われる。

◆◇ 問われる私たちひとりひとりの姿勢

 米朝首脳会談再開は可能なのか、朝鮮半島の「終戦」、最後の「冷戦地帯」の清算は可能なのか、まだ不透明な部分が多くある。しかしながら、「朝鮮半島の非核化」と北東アジアの平和と交流、さらには共同の繁栄は、どんなに時間がかかっても実現しなければならない現代の課題である。残されているロシアとの平和条約締結を含めた戦後70年余の北東アジア全体の歴史を見直し、再構築してゆくという大きな機会が到来しているとみるべきではないだろうか。

 そのとき、私たちは戦前の朝鮮半島を「併合」したこと、中国大陸へ侵略を拡大したこと、という非常に大きな歴史の「負」遺産を現在も日本が背負っていることを自覚しておかねばならない。未だ、この重い『歴史の記憶』が、アジア諸国にそして世界に深く刻まれ現実を動かしているという真実について若者に伝達することを含めて、直視し続けなければならないのである(河野談話、村山談話という「謝罪文」のみで解消されるはずがないという常識をもつべきだ)。すなわち、戦後での日本の役割、対外姿勢についても、問い直されていると認識されるべきではないか。それは、ひとり与党自民党の責任にとどまるものではない。韓国が光州事件(1980年)で人々が多くの「血」を流したとき私たちは何ができたのか。多数の犠牲をだしながら1987年の「民主化宣言」をかちとったとき、どのように評価したか。長い苦しい韓国の民主主義運動に私たちがどこまで連帯できてきたのか、という反省もつきつけられていると思う。

 文在寅政権登場とその内外政策(社会政策や南北平和をめざす動き)を生み出した「キャンドル市民革命」のパワー、韓国の人々の運動は、世界に大きな影響をあたえ動かした。筆者はこの歴史的運動は、これからの「アジアの社会的側面 Social Dimension ― 基本的人権をふまえた社会・政治のあり方」に対しても大きな希望をもたらしたものと思う。
 そして、その延長上には、私たちは世界の構図変化に対応した日本の国内政策(少子高齢社会と早すぎる人口減少、社会保障と地域福祉システムの危機)と外交政策、安全保障政策についても、体系的に思考しなおさねばならないところに至っていると思う。現実化しつつある世界の多極化という状況は、私たち世代にとっても、主体性を発揮する可能性が広がるはじめての歴史的チャンスなのかもしれない。そこには、武器輸出をどう考えるのか、なし崩しに進みつつある現状をゆるしてよいのか、また、もしも「専守防衛」がイエスとすれば、その先をどう具体的に考えなければならないのか、ということも含まれるわけなのである。

 (島根県立大学名誉教授)

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