海外論潮短評(71)

アメリカの教育がなぜ失敗したのか— 海外の教訓によって改善が可能 —

初岡 昌一郎

 表記のタイトルによる論文が、お馴染みの国際問題専門誌『フォーリン・アフェアーズ』5/6月号に掲載されている。筆者のジャル・メータは教育学者、ハーバード大学教育大学院准教授で、アメリカの教育改革について著書がある。アメリカの大学の多くが世界的に高い評価を受けているにもかかわらず、初中等義務教育に問題が山積しているのはなぜか。要約的に紹介する。

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■教育的考慮よりも学校運営に力点をおく教育行政

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 かって社会学者のダニエル・ベルは、その代表的著書『ポスト工業化社会』のなかで、アメリカは製造業を核とする労働集約的経済からサービスの提供を中心とする知識集約型社会に移行する過渡にあると論じた。もはや成功は、アセンブリー・ラインの肉体労働によって収められるものではなく、知識社会では高度な技能技術と創造性が必要とされる。

 それ以来、国の将来にとっての鍵が教育にあることをアメリカの政治家と専門家が常に強調してきた。経済の全般的な繁栄、個人の社会的上昇、そして健全な市民社会にとって優良な学校が前提であることには、すべての人の合意があるように思われる。

 教育の価値に疑義を抱くものはいないが、それをいかに改善するかについては、激しく議論がされてきた。次々と新しいアイデアが繰り出された。やれ新基準の採用、やれチャーター・スクール(目的別編成)の導入、はたまた私立学校へのバウチャー発給、さらには教員に対する業績給導入などなど。

 全ての生徒を落ちこぼれさせないことを目的とする2001年の法律に基づき、オバマ政権のイニシアチブは改革を追求する州にインセンティブを与え、変革を促進しようとしている。これらの活動はいくつかの領域で成果を挙げているが、広範な改善にはつながっていない。

 アメリカの学校は依然として国際ランキングの中位にとどまっており、エストニアやスロベニアの後塵を拝している。人種隔離政策が公式に廃止されて半世紀が経つが、人種と階級による巨大なギャップが生徒を分裂させている。平均して黒人12年生の読解力は、白人8年生のレベルにとどまっている。

 近年のアメリカの評価法は、あまりにも結果責任に偏っている。読解力と算数の年次テスト測定結果に対する説明責任を学校にますます負わせ、改善の見られない学校に重圧をかけている。現行のイニシアチブが目的を達成していない一因である社会的不均等など、他の要因に取り組むことを怠っている。

 他の国は、子どもの教育にもっとより良い方法をとっている。国際的な調査で好成績を収めている国は、アメリカとは反対のやり方をしている。カナダ、フィンランド、韓国、シンガポールなどの諸国は、才能の優れた学生を教員に選抜し、幅広い訓練を与えている。入職後は同僚との協力を図る機会を与え、教員が仕事をするのに必要な支持を外からも与えている。また、彼らの努力を福祉国家政策で支えている。これらの国では教育者の専門性が良く評価されているので、外部の介入による学校業績のモニターの必要があまりない。

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■工場のように見られてきた学校

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 アメリカの学校制度は、一世紀ほどまえに現在の形態が採られるようになった。20世紀初頭までに学区別学校システムが整備された。その後、ビジネス組織の効率性優先に影響を受け、男性校長がCEOとして振舞い、校長が決めた規則や教科編成に多数を占めた女性教員が従った。

 この縦型モデルにおいては、教員が上からの指示に抵抗する力をほとんど持たなかった。しかし、上からのモニタリングがなかったので、教室内では教員はかなり自由であった。教職は複雑な仕事とはみなされず、教員が訓練を受けることはほとんどなかった。

 学校に対する期待がそれほど高くなかったので、このモデルが半世紀ばかりは比較的うまくいった。当時は女性に他のオプションが限られていたので、教師はほとんど女性であった。彼女たちは家計の主たる担い手ではなく、その低い給与がさしたる大きな抵抗を招かなかった。

 ほとんどの白人生徒は高校卒で製造業などの中間階級的職業につけたので、1960年ごろまではこのような制度がアメリカで許容されてきた。特権的な少数の青年は優秀な公立か私立高校を経て大学に進学した。結果として、すべての生徒の学力最大限化を図らなくても、このシステムが受容されていた。

 過去半世紀間、教育に対する期待が増すにつれてこのモデルの限界が明白になってきた。市民権という至上命令と、産業社会から脱産業社会への転換によって、今や政策決定者はすべての生徒に高いレベルを達成するように期待する。しかし、この野心を実現する手段は不在だ。アメリカの貧困率は福祉国家不在のために国際水準から見て高く、製造業の崩壊と大都市における失業増加によって悪化している。

 教育を受けた女性の多くがかつては教職についていたが、今日では選択肢が広がり、教員志望者が減少している。アメリカは教育の全般的なパーフォーマンスを高めることを望んでいるが、それを達成する手段を欠いている。教育の下降スパイラルを食い止め、基礎からより良いシステムを構築しなければならない。

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■アメリカ例外主義はもはや通用しない

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 アメリカ教育の問題点は、教職員の技能を系統的に発展させていないことにある。教師はたいてい経験を通じて学んでおり、受ける訓練が実践であまり役立たないと報告されている。教員免許試験は、司法、医学、会計などの専門職公的試験にある厳格さに欠けている。

 一部の教員は時と共に技能を習得しているが、訓練の多くはクラス管理法を教えているだけだ。ある調査によると、生徒に考えさせ、理由を調べ、問題を分析させるという、意欲的な学習に挑戦しているのは20%にすぎない。

 教え方のこのようなパターンが生徒の能力に反映するのは当たり前だ。生徒の3分の2が読解や情報収集の基礎的な技能を習得しているが、情報の応用や分析という上級の仕事ができる学生は3分の1にすぎない。

 国際教育ランキングの上位にある国を考察すると、いくつかの共通パターンが浮上する。それらの国は要員養成と教員能力の向上など、人材育成に注力している。テストを教員と学校の評価に利用する戦略を強調しているアメリカとは異なり、成功している国は掲げている目的のための投資と質的コントロールに重点をおいている。

 相関関係は単純化できず、さらなる調査研究が必要だが、これら成功的な諸国の共通したアプローチはアメリカが追求しているものと非常に異なっている。確かに、それらは小国であり、人種的に同質性が高い。しかし、成功しているアメリカのチャーター・スクールの経験とも共通しており、核心的な成功要因を示唆している。

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■良い教員を採用、定着させることが根本課題

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 アメリカの教育改革はより良い人材を吸引し、彼らを定着させ、その実践を発展させる努力から始めなければならない。国際比較研究から顕著なことは、最良の結果を出している学校制度は大学卒業生最優秀3分の1から教員を採用している。これがランキングの低い国では行われていない。

 最近の報告では、アメリカのほとんどの教員は、大学卒業成績の下位3分の2層から採用されており、貧困地域の教員は下位3分の1層出身である。フィンランドでは、15才の生徒にとって教師が最も人気のあるキャリアであり、教職訓練プログラムは10倍の志望者を呼ぶ狭き門である。同様にシンガポールでは、教職訓練プログラムに8倍の志望者が殺到している。

 アメリカにおける教職をより魅力のあるものにするためには、教員免許取得のハードルをいまよりも高くし、合わせて、教員の待遇を改善することである。程度の低い教員養成機関は閉鎖されるべきである。教員免許試験は、教科の知識にだけではなく、授業技能の実習や教育学上の適性に焦点をおくべきだ。

 教育者が学んだことを応用できる組織的なプロセスが存在しなければ、知識と訓練は役立たない。あるクラスでの成果は他のクラスに無関係で、反映する仕組みになっていない。このような孤立が一貫した改善にとっての障害である。

 教員が一緒に活動し、議論する場が必要である。機構的に見て、アメリカの教員は、ほとんどの時間を教室で過ごし、好成果を挙げている国に比較して、同僚と計画や研究を共に行なう時間が少ない。個々の教員が自分の個人的業績評価に気を取られるシステムよりも、専門的職業的協力を通じて成長する制度の方が文化的に優れている。

 アメリカの校長は、歴史的に行政官として機能しており、主として管理能力を問われている。しかし、最近、教育上の業績評価に焦点が置かれるようになり、教育上のリーダーシップが問われるようになったので、管理者のための準備プログラムが発足し、授業改善のために教員と共に活動する方法が取り上げられている。

 アメリカの学校は専門知識のレベルが異なる人材を包含する方法も講じなければならない。これまでの制度は教員平等の原則で長年運用されてきた。それは各教員が同じレベルの知識と技能を持っているとの想定に立っている。これは明らかに実態と反する。シンガポールでは先進的な教員が、アメリカで管理職に昇任した場合にはじめて与えられる上級給与体系に昇格する。

 教職において昇任と昇格のキャリア上の展望を拓くことで、より高い専門度と技能を有する教員に報いる必要がる。長期的に見たキャリア上の階段が、教職の訓練と実績を教職員の処遇に適切に反映させることに資する。新採教員が経験のある先任者による慎重な訓練を受けて配置され、学んだことを経験によって強化する道筋が必要だ。

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■政府行政機関の役割の見直し

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 現在のアメリカにおける教育の中心的な問題は、行政機関が遠隔操作で再編しようとしていることである。授業は厳しい仕事であり、上から変革することは困難である。そのようなやり方は教員を政策担当者と対させる。程度の高い授業、より良い採用方法と訓練、知識能力開発、学校組織改善を実現するプロセスにおいて、まず教員を他の専門職と同じように専門家として扱うべきである。

 州行政機関は自治体に対して、カリキュラムの作成を支援し、研究開発に資金をだし、専門的技術的援助を提供できる。給与、設備、給食などを担当する行政機能を高め、福祉国家として弱い側面をカバーできる。

 しかし、政府は上から教育にミクロ的指示を与えるべきではない。義務的条件、規則、達成目標、説明責任などを次々と出してゆくことは、学校を改善しようとする本来の目的に背反する。このような管理的アプローチは以前にも何回となく試行されたものの、「改革多くして、成果少なし」であった。

 アメリカの教育は歴史的起源の痕跡を未だにとどめている。アセンブリーラインの時代に創設された制度は、21世紀の社会が要求する複雑高度な知識と批判的な思考を育てるのに適合しなくなっている。これまで伝統的な構造を温存しながら、さまざまな期待を込めた制度を重層的に上乗せしてきたが、教職を現代的専門職へと根本的に再編するものではなかった。これは容易なことではない。しかし、社会が求め、生徒にとって相応しい成果を生み出し得る、新学校制度を作り始める時が到来している。

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◆◆ コメント ◆◆

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 初中等教育レベル向上の鍵が、教員の質にかかっており、そのために待遇の改善と教員同士のチームワーク促進が必要とという、本論の指摘は一般論としても首肯できるし、もちろん日本にも当てはまる。

 かつて評者が教えていた大学では、学生に警官志望者が多かったので、その理由を彼らに訪ねたことがあった。答えは、ほとんど異口同音に「仕事が楽で、待遇が良い」であった。警官とほとんど待遇で差のない教員にも志望者が多い。ところが、小中高教員は極めて多忙、管理主義の重圧の元で仕事しているので、挫折し、離職する人が増加している。

 日本の生徒の学力水準は、かつて国際比較の最上位にランクされていたが、近年は下降を続けており、ベストテンから姿を消して久しい。その理由は複合的かもしれないが、主因は教員の処遇、特に労働条件の悪化にあると思われる。見ていると、授業以外の仕事が増加し、とにか く忙しい。生徒の個別指導ができる余裕はないし、自己研鑽やチームワークが奨励されてもいない。部活動などは外部者任せとなる。そこに持ってきて、アメリカの経験を有難がる人たちが、校長や教頭を教育者としてよりも管理者として扱う学校改革を推進してきた。近年の日本の教育改革ぐらい逆進的なものはない。

 義務教育レベルの低迷とコントラストをなすのが、アメリカにおける高等教育の隆盛である。アメリカの一流大学と上級研究機間は全世界から優秀な頭脳を集めてきた。アメリカの高等教育と研究開発の高い水準は、多くの外国人の流入によって支えられてきた。これを手放しで賞賛できるものであろうか。

 アメリカにあつまる優秀な外国人学生の多くが開発途上国の出身であり、成功した学生の多くは報酬と環境に恵まれたアメリカにとどまる。この成功物語を他面からみると全く異なる評価となる。

 優秀な留学生は貧しい開発途上国がなけなしの金で育てたものである。半分出来上がった人材を引き抜くことは、アメリカにとって安上がりな人材調達法であるが、開発途上国の正常な発展を阻害している。このように世界から人材を容易に調達できるのであれば、自国で初中等教育にそれほど金をかける必要も感じられない。

 他方、途上国のエリートも自国の初中等教育に熱心でないことがおおい。それは、自分の子女を自国の学校に進学させず、早くから欧米に留学させるので、自国の教育に資源を割くことに関心が薄くなる。

 このような形でアメリカに世界の人材が集中することは、新しいグローバル「帝国主義」の台頭につながる。かつての帝国主義は領土の獲得に、20世紀では市場と資源の占有に目的をおいたが、知識社会におけるグローバル帝国主義が人材確保に焦点を絞るのは不思議ではない。日本の大学改革が、アメリカ型を志向するのは条件と状況を無視したものであり、無謀かつ無理なものだ。必要なことは、脚下照顧。

 (筆者はソシアルアジア研究会代表)
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