■【追悼】

河上民雄先生、次のお話は何を話されますか       楊 晶

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  一冊の本が日本から届いた。『河上民雄―20世紀の回想』。京子夫人のメッ
セージによると「今年の河上の誕生日記念として刊行され……河上民雄の最後の
メッセージとして受け取るように」、とのことでした。

 丁度仕事で南京に向かう日に4時間の汽車の旅で読み上げた。車輪が刻む軌跡
のように、河上先生の政治家としての足跡が、20世紀という時代と共にくっき
り刻まれた一冊でした。インタビュー形式の語り口が先生の声そのままに耳元に
よみがえり、幡ヶ谷のお宅にホームステイでお世話になった1987年から88
年の1年間、接した先生の暖かいお人柄が偲ばれてならない。

●出会い

  河上先生ご夫妻との出会いは、先生が政治家として忘れられないことに挙げた
「中国共産党と日本社会党との正式の党と党の関係樹立を中連部長の喬石氏と合
意した」時の通訳としてだった。その直前までの社会党国際局長だった先生は、
メデイア各紙を賑わす論客でもあるので、空港に出迎えたとき夫人と党本部書記
の瀬尾さんを従えての先生をひと目で分かった。

 本書では党内抗争にざっくりと触れただけですが、左右社会党の軋轢を「怨
念」と表現したところがその熾烈さを思わせるものがある。日本社会党が50年
代に毛沢東が奇怪だと感じたように、左派右派やセクトの離合集散を繰り返して
いた。それにあわせたかのように、中国側もまだ左よりの路線下、好みがハッキ
リしていて、大所高所から両国関係を考える河上先生のような方よりも、中国一
辺倒人物が大事にされた。

 そういう背景のもと、初めての中国訪問の先生のお話は説得力に富みバランス
感覚が優れたことに、通訳の思考回路を換えさせるほど新鮮な驚きを覚えた記憶
があった。この本で「社会の現実を無視してイデオロギーを機械的に実現しよう
として悲惨な結果を生んできたのが20世紀のわれわれの歴史」というご指摘を
いまさらかみ締めるところです。

 私の日本留学はこうした両党関係ができた3年後のことでした。その頃の日本
はバブル景気真っ最中で、時恰も国会で300議席獲得に沸いた社会党の勢い
は、あの鴨長明の言った句を図に書いたようなことになろうとは、誰が予期した
でしょう。

 そんな時代の河上邸での思い出の一つに、1987年9月、中曽根内閣期に社
会党の消費税引き上げ反対の奇策「牛歩戦術」があった。エイッと思ってTV画
面を唖然と見つめていたら、ようするに投票はするが出来るだけ進まないで時間
を稼ぐ戦術だったらしい。おかげで先生は翌朝4時ごろ足元が覚束ないくらいフ
ラフラと家に戻ってきた姿がいまだ瞼に浮かぶようだ。

 そして翌年12月、帰国後に中国青年代表団の通訳で訪日し、国会見学に行っ
たとき、奇しくも竹下内閣に代わって消費税引き上げ法案強行採決の日にぶつか
った。長い廊下をキョロキョロ見物するわれわれをよそに、向こうから当の竹下
首相が上気した面持ちで、ぶら下りその他大勢引き連れて一陣の風のように通り
すぎていった後ろ姿を、呆然と見送ったことを思い出した。

●ホワイトハウスの思い出

  先生の次女の牧子さんがアメリカに留学していた時、ホームステイさせてもら
った、あのおしゃれな3階建ての家を、ホワイトハウスと勝手に呼んでいた。来
た当初、枯れたが窓辺に置かれた胡蝶蘭が時々気になっていた。すると、それは
中曽根さんから物価委員長になった時にお祝いに贈られたもの、としばらく経っ
てからやっと教えてもらった。

 この物価委員長のためでしょうか、ある日、いつもより早く帰宅された先生は
当時の原議長と一緒に天皇陛下に挨拶に行った帰りということで、そのシルシに
サンドイッチのお弁当と5本いりのタバコを持ち帰っていた。お土産話も凝っ
て、「歳を取ると疲れるね」という、原議長と同じ年の陛下が発したお言葉でした。

 政治家という仕事は「金帰火来」という言葉に象徴されるように滅私奉公、河
上ご夫妻の姿を見る限り、そんな印象でした。選挙区の神戸と東京の間をご一緒
か夫人が地元を守るような慌しい生活ぶりを目の当たりにし緊迫感があった。先
生は華奢なお体つきのわりには、概して元気で政治家の仕事、大学教授の仕事、
その他もろもろ何足も草鞋を履いた忙しさ。

 一度だけ、熱を出したと言って外から戻られたことがある。「金帰」で地元に
いる夫人に早速、処置方指示を仰ぐべく電話で連絡した。「近くの薬局でしょう
のうをかってくるように」ということでしたので、薬局に走り「しょうのう」と
頼んだら「氷嚢」を貰ってきた。なるほど氷嚢なんだ、と妙に日本語を納得した
ことがある。氷嚢を樟脳に聞こえたのはこちらの耳が悪いせいです。

 その八面六臂のお仕事の一つに、意外と相撲協会の理事という肩書きがありま
した。2、3回かもっとだったかもしれないが、次の場所の取組の番付をお土産
に頂戴したことがあり、升席にお呼ばれして、目の前で東西陣営の激しいぶつか
り合いが展開される土俵を観戦したこともあった。相撲がみんなから愛された良
き時代でした。

 先生は甘党。遅いご帰宅の時でも、まだ大江戸線などがなかった頃、新宿で京
王新線乗換えにあの長いアーケードの廊下を歩かなければならないが、途中でい
つもシュークリームなどお菓子を買って帰る優しい先生でした。

 熱いお茶を入れて、先生のお話をツマミに頂く。それは例えば、社会党のアメ
リカ訪問の舞台裏、北朝鮮訪問談、韓国で死刑判決が下された金大中救出のため
社会主義インターに強く働きかけた話、韓国詩人金芝河の話、紅粉船長の話、な
どなど、いずれも先生の政治家生涯で特筆すべき出来事でした。

 今回の本で記憶を蘇らせたものに、ボルゲーゼ女史の話がありました。私の無
学で世界憲法と聞いてもチンプンカンプンでしたが、トーマス・マンの親戚とい
うふうに覚えていた。末娘だった。『魔の山』は読んだので、文豪の方は分かっ
ていたがその娘さんが「海洋を人類共有の財産と捉え」、「各国が主権を世界連
邦共和国に委譲」するような、世界憲法に関わったことは、本書で改めて興味深
く拝読した。

 思えば、卓越した知性に富む、滋味ある先生のお話は、日本近代政治史をかじ
る私にとって掛け替えのない個人レッスンでした。もったいないことです。次の
お話は何を話されるか、いつも待ち遠しい時間でした。

 日本語を勉強して通訳となり、そして留学で近代政治史を勉強したその知識
を、通訳と翻訳の仕事でお世話になった方々のご恩に報いたい。どちらも夫・李
建華との共訳ですが、帰国後の翻訳の仕事で京極純一先生の『日本の政治』があ
りました。早速河上先生に進呈し報告したら、翻訳は血が滲むような努力をする
仕事、日本の優秀な作品を翻訳したことに感謝すると激励のお手紙を戴いた。先
生はソレンセン著『ホワイトハウスの政策決定の過程』などの訳者であるから、
知音だったことが嬉しかったです。

 そして後に團伊玖磨の『パイプのけむり』の翻訳・出版を報告すると、進呈は
受け付けず代金を払って5冊注文された。それを貰ったという中国人から読書の
感想を聞かされたり、訳者から貰ったほか河上先生から贈られた1冊を入れて3
冊持っているという日本の方も居た。何かと私たち夫婦の仕事を気にかけ、見守
ってくださったのだと、ただただ深く感謝するばかりです。

 先生の本をそばに置いて、今後ともお話をお聞きしていきたい。

 (中国北京在住・通訳)

注 この原稿は雑誌「6月の風」に載せたものを著者に加筆して戴いたもので
す。  関係者の御好意に感謝します。

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