【旅と人と】

母と息子のインド・ブータン「コア」な旅(12)

坪野 和子


◆「国境の町」ジャイガオンにて

 4月25日。ネパール・ポカラ〜カトマンドゥ地点を震源とする大地震がありました。私はその日、ネット上で私がキャッチできる範囲の言語で情報を流しました。というのは…被災地はネパールだけではなく、最東はバングラデシュ・チッタゴン、以下、東からビハール州、インド西ベンガル州、シッキム州、中国領チベット自治区キロン県、シガツェ県、そして弱い揺れを感じた地域はブータン全土。ネパールでの被害は日本でも伝えられていますが、チベット自治区での被害や死傷者についてあまり伝えられていないように感じています。

 被災後インド、パキスタンから早々にネパールへ水や食糧が送られました。インドのモディ首相が「ネパールの痛みはインドの痛み」と支援表明し、ダージリンやシッキムのネパール系民族の人たちは悲しみの涙だけでなく感動の涙も流しました。その後、各国から医療チームほか人的支援と支援物資をネパールに向けました。…しかし、悲しいことに、コイララ前大統領一族が政府宛ての募金を下部組織の赤字充填に使い、空港に溜まっていたと報道されていた水などが市場で2.5倍くらいの値段で売られていました。ネパールの中間搾取慣れした厳格でないカースト制度がこんな緊急事態でも見えてしまうのです。

 ネパール人…19世紀にグルカ兵として英国に命がけで雇用された人たちが母国に戻らずダージリンやシッキムに残ってしまった悲しさは過去のことではなく、連邦の現在、日本や韓国に留学し残留する人たち、ドバイなどへ肉体労働にいく人たち、歴史は過去ではない。だからこそ、釈尊=ゴータマ・シッタールダが救済のために宗教を興したのでしょうか。尚、釈迦はシャキャ、ネパールのネワール族の名字およびカースト名です。

 …ついでに中国に対しても物言いしたいのは、ネパールに対してどういう支援をしたのかということを表現するのに「何元出した、解放軍何人送った」だった。いいんだけれどぉ!! 自国の領土であるチベットでも過大な被災をしている現場に「人民解放軍の活躍」のみをメディアでアピールしていました。その後、キロン県の尼さんが涙ながら「心が病みそうです…仏に仕える身なので、衆生の心の病みと闇を救済しなくてはならないのですが、私自身のショックが消えていません、明日心が飛んでも(精神障害になっても)おかしくないので、私を救済してほしい気持ちです」と動画で語っていました。

 5月12日、余震というには強すぎる余震でネパールとチベット国境コダリ地区、チベット・キロン県、再び震災に遭いました。やはり犠牲者が多数出ました。

 さて…前回までの話し。扉が閉まらず、フロントガラスにひびが入った公共バス。国境の州西ベンガルの街道からインドの歴史と多民族多宗教が混在する州を楽しんだ。
 チベット仏教信者がオーナーと思われるドライブインでは、外国人慣れしていない従業員(見た目は普通のインド人で民族的にもアーリア系)の対応と辛いだけのアッサム料理風のカレーを食べて休憩。
 今回の母子の旅は、インド・コルカタからダージリン、今回こそは国境線の町ジャイガオンへ向かい、到着し、1泊した出来事を述べる予定だ。

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 ジャイガオンまでの街道沿い2 ---「国境の州」---
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 国道31A号線から国道31Cに道路を変更してバスはジャイガオンに向かう。国道31A号線はシッキム州とダージリン県セヴォケを結ぶ道路。31Cはアッサム州へ向かう道路。

 途中3つほど大きな町を通る。学校も病院も商店街もある。鉄道の駅と合流する地点にある町だ。4つ目の鉄道駅と合流する町にたどり着いたとき、ちょうど小学校の下校時間で、通りはスクールバスが何台か走っていた。ハシマーラという町だ。ここでなぜか後ろの席に座っていたブータン人たちが下車していった。この停留所で乗客が1/4くらい入れ替わった。ここから新しい乗客が増え、また短い距離で下車する人たちも少なくなかった。
 ハシマーラ鉄道駅はデリー方面、コルカタ方面、アッサム方面をつなぐ大きな駅である。ここからのお客が乗り換えてここから国道12Aに北上するとブータンとの国境線の町ジャイガオン方面へ向かうのである。ダージリンに寄る予定がなければこの町に泊まっていたことになっていたのだろう。それはそれで穏やかなインドらしさがある田舎町なので楽しかったかもしれない。でも、息子連れなのでたぶん映画館に行ったに違いない。

 「町」と書いたが、「町」といわれてもイメージが湧かない、または人それぞれにイメージがあるのだろうと思う。この街道で見た「町」は、世界中どこにでもありそうな「町」。村からバス(馬車)で30分くらいかけて1日に数本しかない列車を待つ、観光地ではないが名所旧跡はそこから出かけられる、高層ビルや現代的なビルはないが、それなりに栄えている、そんな「町」だ。過去にあったそんな「町」、しかし現代でもないことはない「町」。
 ただし、国土の広さと人口の多さで、日本の小さな町よりは活気があるように見え、そして、ほとんど緊張感がない空気。現代的な駅ビルやモールや駅前デパートとはまったく違う。今の日本では大き目の鉄道駅すべてに駅ビルがあり、どこも「観光地」の顔を持っている。日本だけでなく多くの国も「観光地」と化しているような気がする。

 ハシマーラを過ぎると、バス停すべて乗降者あり。中距離(長距離)バスがローカルバスにかわったような感じがする…ああ、もうすぐ終点だ。そして、バスはジャイガオンに。到着した終点停留所は一旦チベット文字…つまり、ブータン・ゾンカ語が書かれた入国管理局の近くをまわり、方向をインド側に戻してバス・ストップに着いた。…到着!!到着!!
 バスから降りると息子はヘタれていた。幼少から車酔いしやすい体質で、山道、扉が閉まらず、フロントガラスにひびが入った公共バスなんかに乗ったものだから、完全に車酔いだ。カンフー千葉県元チャンプも車酔いにはかなわなかったようだ。

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 ジャイガオン---「国境線の町」そして通訳ガイドさんとドライバーさん---
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 完全グロッキーの息子を連れて、ホテル探しをはじめる。降りてすぐのところに、HOTEL EVAN というのがあった。たぶん外国人が泊まれるライセンスがあるだろう。建物の管理がイマイチだったのと、バスで見かけた1階にショップが見えるホテルが良さそうだった。そこに向かってゆっくりゆっくりふたりで歩いた。道から…いい匂い…ではなく臭い…だけど懐かしい臭いがしてくる。舗装されていないが中途半端にいい道…決していい道ではないが…。そして通りにくい広い溝を渡る。ショップの兄ちゃんが「HOTEL?」と訊いてくれて階段を指さしてくれた。…ああ、大丈夫、泊まれそうだ。

 フロントまで上がっていく。息子、まだグロッキー。フロントで受け付けてもらう。ダブル(ツイン)600ルピー=1000円弱と今回の旅行ではじめて料金表を表示してもらう。オフシーズン、オンシーズンがなさそうだ。しかも安い。今までからみて安い。というか、私が日本を出る前に想定していた料金だった。部屋を案内してもらうと、今までより狭いが、とても快適ないい部屋だった。私たち親子は広さを求めない。なぜなら団地生活をしているので、寝泊りだけのために広さを必要としないからだ。テレビはなかった。これも1泊だから必要ではなかった。AC Roomもあったが、冬だから必要なかった。

 息子が言った。「やっと。おかんのカンが一発で当たるように働き出したな」…確かにインド最初で最後のド真ん中ストライク。部屋で一息ついた。息子も回復してきたようだ。若いなぁ。部屋の電話が鳴った。間違い電話だろうと思って出た。「はろぉ。ヒアル・イズ・ルーム・ナンバル・トリィ・ワヌ・フォル。アイ・ティンク・U・ゴット・ゥロング・ナンバル( Hello. Here is room number 314. I think you got wrong number )」と言ったとたん、「…」数秒後「もしもし…」…日本語だ。
 「もしもし」「もしもし、名村さんですか?」「はい、そうです」(私の本姓は名村・坪野は旧姓)「GNHトラベルからお迎えに参りました、今、フロントにいます」「わかりました、すぐに下に降ります」(フロントは2階)
 …予定では明朝入国管理局で出入国手続きを終わらせた後、国境を越えてから会うことになっていた。「彼ら」が商務で簡単に国境線を越えてインド側に出てくることはそんなに難しいことでないことは知っていた。しかし、クールなブータン人が前日に迎えに来る、意外にビジネスライクでない部分を感じた。もちろんビジネスだからだろうが。

 母子でフロントに降りて行った。ブータン人とわかる男性がふたり、ソファーに座って待っていた。「クッカムサンポ・ラー・シュ・ギ・イン」(ごきげんようを申し上げます。「こんにちは」のやや丁寧な言い方・日本のガイドブックは「クスサンボ」=「こんにちは」だが)で、続きはチベット語とゾンカ語をまぜたご挨拶をした。若い男性は退いていた。ガイドさんは関係なく日本語で話しをはじめた。
 自己紹介、そして若い男性は専属ドライバーということでご紹介いただいた。ガイドさんの名前はプルヴァ・ツェリンさん。ドライバーさんはタムディンさん、息子と同い年だが既婚者で赤ちゃんが生まれたばかりだという。そして、明日の打ち合わせ。お世辞というより、こういう日本人旅行者が珍しいようで「ガイドなしでここまで来たのですか」と言われた。と、いうより、はじめてだったようだ。

 その後、4人でインド側出国手続きが一体何時からはじまるのか、確認のため出入国管理事務所に行った。警備のおっちゃんがテキトーなことを言ったと感じたので怪しいから聴き直しに一緒に事務所の中で確認した。どうも警備のおっちゃんは、本人夕方警備で夜間警備、早朝警備の交代時間で判断したらしい。おっちゃんは9時と言った、しかし、7時からはんこをついてもらえることが判明した。…ということで、明朝7時前に再度迎えに来てもらえることとなった。ガイドさん、日本語もうまいけれど、ベンガル語もとてもきれいでした。

 ここで一旦お別れ。ドライバーのタムディンくんがせっかく国境線を越えてジャイガオンに来たので買い物をしたいらしい。ブータン人にとってはお洒落な街という感覚なのだろうというのはなんとなくわかる。タムディンくん、ウキウキしていた。そして、息子に国境線の向こうのブータン側の町プンツォリンが若者の町(大学や専門学校も多い)ということを話すと、言い得て妙なたとえを出した。
 「わぁ〜い。渋谷にお客様をお迎えして原宿宿泊だぁ〜ってカンジだね」

 …そして、母子の旅は、母の目的地ブータンへ。次回はジャイガオンからブータン・プンツォリンで。

 (筆者は高校・非常勤講師)


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