■書評 松下圭一著『市民・自治体・政治』

─肺腑をえぐる警世の書─         

       (公人の友社、1200円)                  
                    久保 孝雄
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■ 「荒野の剣士」


  この本は松下さんが講演記録に補筆されたもので、100頁足らずのパンフレッ
トのような体裁の本である。そこで私も気軽に読みはじめたが、ただちに「これ
はただならぬ本だ」と気がついた。まさに「日本の没落」、「社会の解体」(本書
より)の淵に立つ今日の日本の深刻な危機症状と、そこから脱出するための戦略
課題についての、読むものをたじろがせるほどラジカル(根源的)な思考が、ボ
ルテージの高い文章でつづられている。まさに「肺腑をえぐる警世の書」という
べきである。
 
私の思想上、政治上の恩師である佐藤昇さん(評論家、故人)は、少壮学者だ
ったころの松下さんを評して「荒野の剣士」といったことがあった。そのころ、
私は佐藤さんを日本の左翼から教条的マルクス主義を退治しようと孤独な戦い
を続ける「荒野の剣士」と考えていたので、面白い批評だと思いながらも、当時
の私の関心は余所にあったのでそれほど実感はなかった。

 しかし、そのご彼の論文や著書をいくつか読むにつれて、松下さんが日本の社
会科学の全体系をひっくり返すほどの大作業に取り組んでいるすごい戦士であ
ることが分かった。憲法理論、政治理論、行政理論、社会理論、自治体理論、教
育・文化論、ひいては広く社会科学全体にふかく染みこみ体質化している国家統
治型の、官治・集権型の思考様式、思想体系、価値体系の根本的変革にむけて、
すなわち自治・分権型社会をめざす市民自治、市民政治への道を切り拓くため、
荒野に道をもとめてはげしく剣をふるってきたのだと感じるようになった。
 
私は1975年、神奈川県知事に初当選した長洲知事に請われて県庁に入り、知
事の「補佐官」として16年間働いたが、もともと役人ぎらいで、役所勤めなど
夢にも考えたことがなかった私が、45歳で地方公務員になり、必要に迫られて
読みあさった本のなかで、もっとも強烈なインパクトを受けたのが松下さんの本
だった気がしている。役所ぎらいの私がいきなり県庁の中枢に足を踏み入れ、す
べてが初体験で、戸惑うばかりの現実をみごとに解明してくれる松下理論に、目
を見はる思いをなんども体験した。


■「国の出城」だった県庁に丹頂鶴が舞いおりた


  私が県庁に入ったとき(1975年)、県の副知事3人のうち2人は自治省(と
もに東大法)、予算、人事をにぎる総務部は部長、次長とも自治省(京大法と東
大法)、土木部長は建設省(東大工)、衛生部長は厚生省(京大医)、労働部でも
身分は国家公務員の地方事務官が多数いた。長洲知事の前任知事も自治省出身
(東大法)だったし、選挙の対抗馬だった人も元厚生次官(東大法)だった。東
京に隣接する「大県神奈川」の要職はすべて東大法出身者を中心とする国家官僚
に占められていたのだ。地方課、財政課などの主要課の課長も国家官僚(自治省)
のポストだった。文字通り県庁は自治体とはほどとおく、まして地方政府ではな
く、国の出先機関としての「地方公共団体」に過ぎない状態であった。
 
憲法、地方自治法施行28年にもなるこの時期の県庁の実態に驚いた私は、つ
ぎの松下理論に完全に同意した。
  「戦後民主主義は、行政体質の革新を素通りして、新憲法啓蒙として展開され
たかぎり、「憲法」は変われど政治の官治的「体質」は変わらず、だったとみな
ければならない。もちろん「憲法」に象徴される戦後改革の過程で画期的制度改
革が実現した(「地方自治法」の制定など)・・・しかし、この戦後の制度改革は、
明治以来の官僚機構の体質転換と直接むすびつかなかったばかりか、・・・当時
の日本国民の市民的未成熟とあいまって、この制度改革自体が官僚主導によって
推進されたかぎり、この制度改革において行政の官治体質は生きつづけ・・・今
日にいたった」(『市民自治の憲法理論』 岩波新書、1975年)。
 
これに対して、知事の長洲さんは一橋大の経済、私は東京外大の中国科、とも
に法律を専攻したことはない。長洲さんのメリットは、マルクス経済学から近代
経済学まで経済学を専攻し、横浜国大では経済学のほか社会思想史も講義するな
ど幅広い教養があったこと、日本経済の分析で業績を上げ、マスコミでも活躍し
ていたことなど、知的ヘゲモニーを持っていたことである。10歳年下の私はと
いえば、中国研究所、労働問題研究所など、国際問題、社会問題の無名の研究者
として20数年働いたほか、東京のベッドタウンで人口2万人足らずの小さな町
の議員を1期4年経験した(県庁に入ってこの経験が大きく生きたのだが)こと
くらいが取り柄の一市民であった。
 
ただし、2人とも、戦後一貫して革新の側に身をおき、日本の構造改革(小泉
元首相のそれではなく、社会党・江田三郎さんらが唱えた日本型社会民主主義路
線)をめざし、政治改革の要として自治体改革を重視し、支持してきていた。こ
の2人で、旧帝大で国家統治学としての法学、行政学を叩きこまれてきたキャリ
アの国家官僚たちに、理論面、政策面で太刀打ちできるのか、はじめはいささか
気弱にならざるをえないところがあった(県庁職員も競争率20倍近い難関を突
破してきた、法学部出身者を中心とする「優秀」な人たちで、私などハナから「門
外漢」扱いだった)。まさに、国家官僚たちが支配する「国の出城」、「官吏の館」
としての「地方公共団体」に丹頂鶴が舞いおりたようなものだった。


■「神奈川県政府」をめざして


  かつて首長をとることが主眼だった革新自治体を「泥田に丹頂鶴」と評し、泥
田を美田に変える自治体改革を説いたのは松下さんだったが、1975年の神奈
川県政は、泥田ならぬ「国の出城」に丹頂鶴が舞いおりた状態でスタートしたの
だ。そして、国家官僚たちが支配する、明治の匂いが漂う県庁にいかにして市民
社会の風を通すか、いかにして市民社会の日光で虫干しするか、さらに「国の出
城」をいかにして市民自治の砦(とりで)としての「地方政府」に変えるか、分
権改革の拠点に変えるかが、長洲県政の最大課題になっていった。
 
県庁の南門に「KANAGAWA PREFECTURAL GOVERNMENNT」という英文の門標がでて
いるが、長洲さんはこれを目ざとく見つけ、「正面玄関の表札も神奈川県政府
にしたらどうか」といったことがある。長洲さんの想いが端的に示されている
エピソードだ。長洲さんは「地方公共団体」としての神奈川県を、自立性を
もった「神奈川県政府」に作りかえるために、国や他の都道府県に先駆け
て情報公開(1982年)、環境アセス、民際外交、文化行政、産業政策、科学
技術政策、サイエンスパークやインキュベータ等の地域イノベーションシステム
構築などを大胆に進めたほか、「地方の時代」を唱えて(1978年)分権改革の先頭
に立って挑戦しつづけたが、この長洲県政については、小著『知事と補佐官―長
洲神奈川県政の20年』(敬文堂、06年)に詳述したので省略する。
 
ただ、この過程で感じたことは、当然のことながら行財政の実務に関しては国
家官僚(や県庁上級職)たちに敵わないところがあった(これが長洲県政の弱点
―政策展開は華麗だったが、実務面の改革がおくれたーにつながった)が、県政
の課題発見、課題設定、政策立案といった点ではまったく引け目を感じることは
なかった。もともと私たちは国家幻想をもっておらず、オカミ崇拝もなく、国と
地方は対等であるべきだと考えていたので、キャリア官僚たちを特別視する気持
ちもなかったが、実際、一緒に仕事をしてみてタイシタコトワナイことがわかっ
た。まして、政策づくりは国家官僚の「秘技」で、自治体職員は黙ってその執行
に当たればよいといった、当時まだ国や自治体を支配していた国と地方の主従関
係の考え方をチャンチャラオカシイと思った。だから、松下さんは最近の官僚の
「劣化」を問題にされるが、私はもともとコノテイドの集団だと思っている。


■「日本の没落」「社会の解体」の危機


 松下さんは、2000年代の日本は「農村型社会から都市型社会に移行し、この
都市型社会にふさわしい政治・行政・文化の構築にむかうという、転型期にあ
り・・・この転型は(明治いらいの)国家主導の官治・集権社会から、市民主導
の自治・分権社会への移行でもあるという、日本の文明史的転換といってよい」
と規定したうえで、「この官治・集権から自治・分権への転型という都市型社会
の課題にとりくめないかぎり、日本は中進国状況のまま没落するという予感
を・・・もはや否定できません」(5頁)と断じている。
 
さらに、現在、日本の財政が国、自治体を含めて「実質破綻」しているのはな
ぜかと問い、「国、自治体の政治家の未熟、官僚、行政職員の劣化、ジャーナリ
スト、理論家の批判なきその日ぐらしがそこにあります。基本には、私たち市民
の批判力、拮抗力の低下も考えてよいでしょう。いいかえれば、情報公開すらも
始まったばかりという、私たち市民の政治をめぐる品性・力量の中進国型欠落が
あります・・・私たち日本の市民は退化しているのではないか」(7頁)と述べ、
市民課題をきびしく問うている。
 
そして、「今日の日本でおきている事態は、自治・分権型の<市民社会>の成
立にはほどとおく、むしろ犯罪、偽造、事故、汚職の連続さらに行政の劣化によ
る、社会自体の解体というべきでしょう」(83頁)、「市民個々人の自治能力を
訓練しえない、国家統治型の官治・集権「政治」の崩壊は、市民自体の市民性の
未熟となって「社会の解体」を生みだしていくことになるのです。多様な市民運
動がつくる多元、重層性を持つ市民自治型の自治、分権「政治」をつくるとき、
初めて「現代」としての、開かれた「市民社会」の誕生となります」、「2000年
代、日本は後・中進国型の「進歩と発展」という発想を、先進国型の「成熟と洗
練」へときりかえるべき転型期に入るはずでした・・・にもかかわらず、政治の
未熟、幼稚化、行政の劣化、崩壊というかたちで、中進国のまま停滞するのでは
ないかという、「没落と焦燥」を予感させる時点に日本は立つことになります」
(17頁)とふかい危機感を表明している。
 
日本の現状に対する松下さんの認識に私も基本的に同感であり、ふかい危機感
も共有できる。しかし、私の読み方が不十分なのかもしれないが、この状況から
の脱出の経路と課題についていまひとつ具体的に述べて欲しかった気がする。た
とえば、官僚の劣化を防ぐため公務員の人事改革を提言されているが(57頁)、
国、自治体の幹部職員への政治任命制の導入とか、政治家の未熟、幼稚化を防ぐ
ため、2世、3世の立候補を制限(韓国のように選挙区を変えさせるなど)する
とか、すぐに手をつけるべきことがいくつもある気がする。また、今日の政治・
外交の未熟、幼稚化、右傾化によって「社会の解体」と「アジアの孤児」への危
機を生んできた小泉・安部政治と、それを囃し立て、政治を情動化し、嫌中、嫌
韓、憎北朝鮮の世論を誘導してきたメディアの劣化、さらに、これに乗って自民
党に衆議院の絶対多数まで与えた「市民の退化」についてメスを入れてほしかっ
た。


■ 農業社会―工業社会―脱工業社会


 もうひとつ気になったのは、農業社会から工業社会へ、農村型社会から都市型
社会への歴史的転型期の課題が明快に解明されているのだが、神奈川県、ついで
川崎市という首都圏の中枢、工業先進地域で30年近く働いてきた私の体験から
いうと、日本社会は80年代に工業社会への移行の完了と脱工業社会への移行の
開始という2つの過程が交錯していたのではないか、そして、90年代以降は社
会の脱工業化が大きく進展してきているのではないかと思っている。日本社会は
先進工業地域を先頭に、工業社会から脱工業社会への歴史的な移行期に入ってお
り、新たな転型への課題が生じてきているのではないか。そこには工業社会、都
市型社会への転型の範疇には収まりきれない新たな課題が出てきていないか、と
いうことである。
 
  80年代後半から90年代にかけて、京浜工業地帯では(国の「工場追い出し制
度=工業制限3法」もあって)工業の急速な衰退がおこった。95年までの10
年間で、事業所数、工業出荷額で4~5割の減少、従業員数では6割以上の減少
となった。空洞化による遊休地の拡大が進んで、京浜工業地帯の「消滅」さえ危
惧される状況が生まれた。
 
しかし、生き残りをかけた企業の徹底したリストラや、地域再生にむけた行政
の努力などが重ねられた結果、2003年ごろから再生への兆しが見えはじめてき
た。しかし、そこにはもはやかつての工業の姿はなかった。高機能、高付加価値
製品の生産に特化する研究開発型企業や、国内外に展開する事業所の頭脳センタ
ーとなる研究所などへのリニューアルや集積、情報、環境、バイオ、ナノテク関
連企業の集積などが進んだ結果、新たな活力が生まれているのだが、従業員中ブ
ルーカラーはごく少数になり、研究者、技術者など知識労働者が主体になってい
る。1万2000人が働く大手電機メーカーの某事業所は、70年代初頭まで8
5%がブルーカラーだったが、いまは87%を研究者・技術者が占めている。生
産されているのは「情報」で、「工業出荷額」はゼロである。こうした産業構造の
変化の結果、川崎市は就業人口に占める研究者・技術者の割合が全国トップクラ
スとなり、北部の住宅区では人口の3分の1が4年制大学卒以上という高い学
歴構成になっている。「労働者の街」といわれた川崎で、いまブルーカラー労働
者が消えつつある(他面、川崎はホームレスの多い街としても知られ、脱工業化
に対応できない人たちの問題が起きている)。こうした産業構造の変化にともな
う就業者構成、市民構成、地域構造、都市構造の大きな変貌は、川崎だけでなく
横浜、湘南、県央など神奈川県全域に広がっており、神奈川は「工業先進県」か
ら「知識経済先進県」に変貌をとげてきている。


■ 新しい社会運動の誕生、革新自治体の消滅


  そして、こうした脱工業化=知識経済、IT社会への移行につれて、80年代
以降、これらの地域を中心に40代から50代の女性たちを担い手とする新しい
社会運動がつぎつぎに誕生し、発展してきている。新しいタイプの生協運動の広
がり(班活動を基礎とする生活クラブ生協は組合員6万6000人、供給高21
0億円の実績を持つ)、これを基盤としたローカルパーティー(84年誕生の神
奈川ネットワーク運動、04年独立のネットワーク横浜など、県会、横浜、川崎
市会はじめ数十名の地方議員を持ち、市会では社民党をしのぐ勢力)の台頭、市
民事業、市民起業家の叢生(「神奈川ワーカーズ・コレクティブ」は223団体、
6200人のメンバーを擁し、福祉、介護、保育などのコミュニティービジネス
を展開し、事業高も60億円近くなっている)など注目すべき動きが広がってき
ている(これらの組織の会合に出るたびに、うまく定義できないが、新しい市民
的人間型の誕生を見る思いがして、感銘を受けている)。
 
他方、オールドエコノミーの衰退とともに労働組合運動が衰退したばかりでは
なく、社、共などの「革新勢力」も凋落してしまった。かつて県、横浜、川崎は
じめ藤沢、鎌倉などにも革新首長を実現し、「革新県神奈川」といわれた時代が
あったが、いま革新自治体はひとつもない。すべて保守系または右派系(松下政
経塾系など)の首長に取って代わられている。(東京都民はあの極右政治家を圧倒
的票数で3選している)。かつて県議会に30名を擁し、長洲与党第1党だった
社会党は、115議席中1議席(社民党)しかもっていない(4月の選挙で、自民が
減り、一部社会党系も合流し、連合が支持する民主党が伸びて37、共産党、ネ
ットはそれぞれ4と3から1へ退潮)。なぜこうなったのか、まだ誰も納得のい
く分析をしていない。そして、ニューエコノミーへの移行とともに台頭してきた
新しい社会運動も、政治的、政党的結集軸をまだ明確にはもっていない。

 脱工業化=経済と社会の知識化、情報化は、工業社会の一段階なのか、農業社
会、工業社会と並ぶもう一つの社会なのか、専門外の私には知識不足だが、経済
活動だけでなく、社会生活や文化の面にも、そして政治のあり方にも、工業社会
時代とは相貌を異にする変化が現れていることは否定できない。これがこれから
の「市民・自治体・政治」にどういうインパクトをもたらすのか、松下理論のい
っそうの深化を望みたい。
           (筆者は元神奈川県副知事・参加システム研究所代表)

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