【追悼】松下圭一氏を悼む

松下先生と共に仕事をしたころ

加藤 宣幸


 政治学者松下圭一先生が5月6日に亡くなられた。10年前にイラク戦争の不条理に反対する市民の声を上げようと創刊した「メールマガジン・オルタ」は手づくりの市民WEBメディアだが、先生はパソコンをやられなかったので直接の指導を受けてはいない。しかしオルタの関係者には先生と交誼があったものが多い。創刊期から数年前までプリントしたものを毎月お送りしていて、オルタは広い意味で先生の影響を受け、先生も市民メディアの成長に期待を持っていただいた関係にある。

 オルタが「市民」メディアを自称するのも先生の影響である。私が先生と初めてお会いしたのは1958年の秋ごろで、まだICUの学生で後に国際労働運動に携わり、姫路獨協大学でも長く教鞭をとられ、オルタの創刊期から毎号執筆されている初岡昌一郎氏に誘われて先生を下宿にお訪ねしたときである(別掲「追想の松下圭一先生」初岡昌一郎)。先生は、まだ29歳で俊秀の助教授だったが、すでに「大衆社会論」などで論壇に旋風を起こされていた。当時は「市民」というだけでも伝統的マルクス主義者から異端視され激しく論難された時代であった。

 先生の人柄などは、久保・初岡・浜谷・山田氏らがこの号で追想されているので私は先生と共に仕事をしたことに触れたい。55年に左右両社会党が統一した日本社会党は60年安保の前後から党の組織体質近代化を急いだが、その頃から党外の知識人と接点を持つようになった。それらの方々の多くは、党のメディアへの寄稿、政策の提言、時に応援演説をするなどであったが、先生の党へのコミットは新進政治学徒としての矜持なのか現実的な政党政治活動には踏み込まず、一貫して党の地域組織活動や機関紙誌強化への実務的な指導・協力にとどめられたように思う。

 党組織部にいた私が先生と最初にした仕事は愛知県における「党員の実態調査」で、これは後に労組党員が勤労者協議会などを通じて地域でどのように活動すべきかを探る基礎資料となった。ついで私が中央政治学校の担当になった時には、自ら講師になるだけでなく、学校の運営にも細部にわたって助言をいただいた。

 先生と本格的に取り組んだ仕事は1962年に創刊した「国民政治年鑑」およびその姉妹版として1963年に発刊された「国民自治年鑑」の編集発行事業である。先生がこの二種類の年鑑編集の実務責任を全面的に担われたのである。パソコンがない時代に四六判・三段組みでそれぞれ約1000ページの書籍を制作するのには膨大な資料の収集からその編集・整理まで気の遠くなるような作業の連続だが、先生は若い編集部員を指導しながら連日格闘された。私はその経営面の全責任を引き受けたが、当時、1冊3500円という高額な書籍を数千冊販売するということは、私たちにとって大事業であり、冒険であったが先生とともに清水の舞台から飛び下りたのである。

 この年鑑の発行責任者は社会党機関紙局であったが編集主体は「国民政治(自治)年鑑編集委員会」として党から独立した組織とし、編集の客観性だけでなく、政治年鑑発刊の趣意に書かれた『生きた資料を中心に編集し中央情勢だけでなく運動末端の資料を集め、革新運動の位置と方向を明らかにすることを主眼にする。これまで、日本の革新運動は政党、大衆組織を問わず、諸資料を整理することが少なく、その結果、日本の革新運動はとかく観念的、教条的に指導される傾向にあった。この年鑑はこうした革新指導の欠陥克服に役立つとともに今後の革新政治理論さらに社会科学の前進にとって重要な礎石となりうるだろう』と高らかに宣言しているような意図を持っていた。

 これを読めば、年鑑編集作業と後年松下先生が一貫して展開された地域民主主義政治論との密接な関係が理解できると思う。50年も前のことになるのだが先生の政治理論構築作業の一端を担ったことになる私の思い出は、先生の政治学における業績が高く評価されるほど内心ではささやかな誇りが増すのである。

 他に先生との思い出で印象が深いのは、1964年に約1ヵ月かけて上住実君を加えた3人で東西欧州諸国社会主義政党のメディア活動を視察したこと、江田三郎氏のブレーンに加わっていただき「構造改革論」にお知恵をお借りしたことなどだが、私が1968年に社会党書記局を辞めるまで数々のご指導をいただいたのである。
 長年ご交誼をいただいことに深く感謝しお別れの辞といたします。
 本当に有難うございました。

 (メールマガジン・オルタ代表)


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