■宗教・民族から見た同時代世界 荒木 重雄   

東南アジアの無国籍少数民族ロヒンギャの悲劇

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 民主化の流れがようやく国際社会で認められはじめたミャンマーで新たな火種
が燃え上がった。ベンガル湾に臨む西部ラカイン州でのイスラム教徒ロヒンギャ
族と仏教徒アラカン族(ラカイン族)との民族対立である。

 ロヒンギャ族とみられる若者にアラカン族の少女が暴行された報復として、ア
ラカン族がロヒンギャ族が乗ったバスを襲撃して10人を殺害。この事件を発端
に6月から7月にかけて民族暴動が燃え盛り、6月末時点で100人以上が死亡、
3千棟以上の住宅が焼き打ちで破壊され、9万人以上が難民となった。

 襲撃の多くは治安当局に守られた仏教徒アラカン族によるもので、被害者のほ
とんどはイスラム教徒のロヒンギャ族である。

 ボートでバングラデシュ側に逃れたロヒンギャ族も多いが、バングラデシュ政
府は受け入れを拒み、700人余りの難民が乗ってきた20隻以上の船をミャン
マー側に追い返した。

 ミャンマー政府は外国人記者の入域を禁じるなど徹底した報道管制を敷いてい
て、その後の状況は詳らかでない。

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◇◇ 避難の行方も阻まれて
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 ロヒンギャ族の受難は、だが、今回に限らない。1970年代と90年代、軍
事政権による強制労働や暴行、財産没収、移動制限による教育や商業活動の妨害
などの迫害を受け、バングラデシュに数十万人が逃れ出ている。その後も難民の
流出は絶えないが、2009年には次のような事件が国際社会の注目をひいた。

 ミャンマーからバングラデシュに逃れたロヒンギャ族難民の約千人が数隻の小
船でマレーシアを目指したが、途中でタイ海軍に拿捕され、乗っていた難民は近
くの島に連行されて棒で殴られるなどの暴行を受けたうえ、エンジンを取り外し
た小船に載せられて公海上に放置された。

 暴風雨の中で船は離ればなれになったが、数日後、そのうちの446人が乗っ
た4隻の小船がインド沿岸警備隊によって保護され、190人が乗った1隻の小
船はインドネシア海軍によって救助された。しかし数百人は行方不明のままとな
った。

 タイ政府は、事実を否定しながらも国際的な非難を浴びたが、南部で分離独立
を主張するイスラム系反政府勢力と戦っているタイとしては(本誌101号、拙稿
参照)、イスラム移民の流入に神経を尖らせる事情もあった。

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◇◇ 国籍のない追われる民
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 このような迫害を受けつづけるロヒンギャ族とはいったい何者であろうか。

 バングラデシュ国境近くのラカイン州の一部に暮らすイスラム教徒の少数民族
で、70万から150万人いるとされる。

 多民族国家のミャンマーだが、政府はロヒンギャ族を国内の少数民族として認
定せず、バングラデシュから移動してきたベンガル系の「不法移民」として扱い、
国民として認知しないため、無国籍状態に置かれている。主要民族のビルマ族を
はじめ仏教徒が9割を占める国民の多くも、政府と見解を共有し、イスラム教徒
ロヒンギャ族への差別意識は強い。

 一方、その出自とされるバングラデシュでは、流入の絶えないロヒンギャ族を
一部、難民と認定して、国連運営キャンプの設営を認めながらも、周囲の仮設キ
ャンプに暮らす20万人ほどについては「不法移民」としてミャンマー政府に引
き取りを求め、収監や強制送還をくりかえしている。

 どちらの国から存在を拒否されるなんとも不安定な立場の人びとだが、その背
景には複雑な歴史がある。

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◇◇ 不条理には歴史あり
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 かつてロヒンギャ族は東インドのベンガル地方(現在のバングラデシュ)に住
んでいたが、15世紀から18世紀にかけてビルマ西海岸に栄えたアラカン王国
に傭兵や商人として移ってきた。イスラム教徒のロヒンギャ族と仏教徒のアラカ
ン族は平和に共存し、王朝はベンガル湾のイスラム諸王国との貿易推進のため、
イスラム教徒の名前を騙ることさえあった。

 19世紀前半にはインドから侵入した英国の植民地政策によって、仏教徒地主
が継承してきた農地がイスラム教徒の労働移民にあてがわれた。このことによっ
て仏教徒対イスラム教徒の対立構造が顕著になる。

 第2次大戦で進軍した日本と英国は、日本側が仏教徒、英国がキリスト教徒や
イスラム教徒と、宗教別に構成された軍を創って戦わせたことから、両者の対立
はもはやぬきさしならぬものとなった。

 ビルマ族やアラカン族など仏教徒が主導権を握った独立後、ロヒンギャ族は窮
地に立たされるが、それでも、1950年代のウー・ヌ政権下では市民権を与え
られて特別行政区を安住の地とするが、62年に軍事クーデターで政権を奪った
ネウィン将軍施政下の82年に制定された国籍法によって国籍が剥奪され、無権
利状態に置かれることとなった。

 さらに、88年の民主化運動や90年の選挙で、ロヒンギャ族がアウンサンス
ーチー氏らの民主化運動を支持したことから、軍事政権による財産没収や強制労
働などの弾圧がいっそう厳しくなり、現在に至っている。

 ロヒンギャ族を含め非仏教徒系の少数民族からも期待の高いアウンサンスーチ
ー氏だが、しかし、政治家として自由を得て初の外遊となったタイや欧州での発
言では、むしろ軍を擁護するニュアンスが色濃く、少数民族側の失望を買った。

 民主化をすすめるにはいまも実権を握りつづける軍の協力が不可欠だと彼女は
考えているだろうし、まして、大多数が仏教徒である国民の多くがバングラデシ
ュからの不法移民とみなすロヒンギャ族の肩をもつことは、国民の自分への支持
を傷つけかねないとの計算もあったことだろう。
 ここに、人権という視点だけでは捉えきれない、宗教・民族問題の複雑さがあ
る。

 最後にひとつのエピソードを加えたい。
 東インド(ベンガル地方)の一部は47年のインド・パキスタン分離独立でパ
キスタンの領土となるが、71年に独立してバングラデシュになる。そのさい、
多くの仏教徒アラカン族がミャンマー(当時はビルマ)側に移り住んだが、コッ
クスバザール周辺には少数派となった仏教徒アラカン族がいまだに住んでいる。
ミャンマー側のアラカン族に迫害されてバングラデシュに逃れてきたロヒンギャ
難民たちを支援しているのが、じつはこれらの残留アラカン族なのである。「同
じ少数民族として困っている人を見過ごしにはできない」というのが彼らの心情
である。
 (筆者は社会環境学会代表)

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