<日中・日韓連帯拡大のために>

朴槿恵政権の歴史的使命と韓日関係

—「1965年体制」からの脱却—

徐 正根


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 はじめに
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 2015年1月12日、朴槿恵大統領は年頭の記者会見において、韓日首脳会談を実現するのであれば、「一歩でも前に進むことができる首脳会談にしなければならない。そのためには日本側の姿勢転換・変化が重要である。…… 従軍慰安婦問題は早期に解決策が示されなければならない。そうしないと日本にとって歴史の重荷になる」と語った。これに対して菅官房長官は13日「隣国の首脳が会うのに前提をつけるべきじゃない」と応酬した。額面どおりに受け止めると、李明博政権から極度に悪化した両国関係は国交正常化50周年という節目の年を迎えても改善の兆しが見えてこない。

 通常、外交問題は双方の妥協によって解決するものであるが、今のところ、朴槿恵大統領は歴史認識・従軍慰安婦問題に関する従来の原則論を繰り返している。その頑な政治スタイルを貫く限り、韓国側が折れことを期待するのは難しい。

 一方、北京におけるAPEC首脳会議で安倍・習日中首脳会談が実現してから、韓国政府の姿勢が微妙に変化してきているという見方もある。2014年12月には朴槿恵大統領が日本経団連会長を接見し、「来年は韓日国交正常化50周年を迎える意義深い年であり、両国が過去の歴史の傷を癒し、新たな未来に向かって共に旅立つ元年にし得るよう、企業家の皆さんの格別な関心と努力を乞い願う」と述べている。

 政経分離は方便としてよく用いられ、政治的に対立している状況でも貿易や投資は政治問題とは切り離して行われる。ただ、韓日の財界会議は2007年に開催されてから6年間中断していた。会議が再開された背景には、韓国に大規模な投資を積極的に展開している東レの榊原会長が、経団連の会長に就任したことが影響したのかもしれない(注1)。

 また、1月15日には、大韓民国民団の新年会出席を名目に来日した韓国の与党最高委員をはじめとする韓日議員連盟所属の議員8人が安倍総理と会談し、首脳会談の実現に向けて努力していくことが確認された。日韓議員連盟の額賀会長は6月までに何とか漕ぎ着きたいと述べ、両国議員間の囲碁大会やサッカーの試合を開催することなどが決められたという。韓国のマスコミからは、こうした交流を通じて何らかの突破口が見出せるのではないかという声が聞こえてくる。

 いずれにしろ、韓日関係の現状を憂慮している人はたくさんいる。そして、水面下では改善に向けての動きがあり、多くの提言も示されている。本稿では、そうした言動を援用しつつ、国内外の構造変化の中で、韓日間に横たわる問題の本質が何であるのかを明らかにしてみたい。

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1.「1965年体制
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 朴槿恵政権発足以来、争点になっているのは従軍慰安婦問題である。大統領はこれを「正しい歴史認識」と抱き合わせて外交問題にしてしまった。一方、政治・外交問題にすべきでないというのが日本政府の立場であり、1965年の日韓条約締結で解決済みであるとの姿勢をいささかも崩していない。

 関係悪化の根底には歴史認識問題があって、韓国では教科書、靖国神社参拝、独島(竹島)、従軍慰安婦が「反日4点セット」になっている。今の状態にまで関係を悪化させた直接の原因は、李明博前大統領が独島(竹島)に上陸し、かつ天皇に対して、日本側からみれば「不敬」な発言をしたためである。それをさらにあおる形で、現政権は従軍慰安婦を争点化し、抜き差しならない状況に至っている。

 もし、仮に従軍慰安婦問題が解決されるなら、両国関係は良くなるのであろうか。いろいろ手を尽くして一端は改善されるにしても、それが普遍化しないことは過去の歴史が証明している。根本的な解決につながらないのは、問題の原点が韓日条約にあり、淵源は植民地支配にあるからだ。

 韓日条約締結はいわばボタンの掛け違いであった。着ている服がどこか不揃いで不格好なのに、寒さをしのぐために着続けて、50年もの歳月が流れた。時折、おかしいことを思い出して悩むのだが、せっかく着ているのだからそのままでいよう、かけ直すのは面倒だ、端から見て特に目立たないから取り繕えば大丈夫みたいな感覚で今日に至っている。しかし、ここにきてやはり自分の好みではないという意識が強くなり、スタイリストに激しく自己主張をしているように見える。

 韓日条約締結時、韓国では国民の猛烈な反対があり、日本でも激しい反対運動が展開された(注2)。それにも関わらず韓日両政府は戦後20年近く平行線をたどった問題を妥協に導いた。1905年の乙巳保護条約や1910年の韓国併合時とは異なり、1965年は日本に強制されることなく条約が締結されたのである。つまり、韓国政府は自ら進んで「1965年体制」の片棒を担いだのだ。その張本人が現大統領の父親である朴正煕元大統領に他ならない。

 朴正煕は1961年にクーデターで権力を握った後、反共体制の再整備、腐敗と旧悪の一掃、経済再建などを公約にした。そして前政権から企図されていた第1次経済開発計画を実施したものの、韓国の経済状況は貧しいままであった。国内の貯蓄率が低い上にアメリカの援助は減少していく。どのように経済を発展させるかという難題を解決するために日本との関係を正常化し、多額の資金を開発に充当する必要があったのである。無償3億ドル、有償2億ドルの政府借款と3億ドルの民間借款によって日本の資本財が大量に輸入され、日本の技術・システムに依存して工業化が推し進められた。

 韓日条約締結を機に経済成長のための基礎条件を整えた韓国は、日本をモデルにして、日本に追いつけと言わんばかりに国が経済開発を主導した。そして、その過程で跛行的な拡張路線を追求したが故の慢性的なインフレや多額の対外債務累積など深刻な歪みが生じた。政治的には独裁体制を敷いて政敵や国民の不満を封じ込め、労働者の権利は保障されず、労働運動も弾圧された。1979年に、18年にわたる朴正煕政権が大統領暗殺という悲惨な形で終焉を迎えても、その遺伝子が受け継がれるかのごとく、1993年まで軍出身者による政権が二代続いた。

 このような体制を生み、支えたのは周知のとおり東西冷戦であった。北朝鮮と対峙する韓国はまさに対共産主義の最前線として位置づけられた。そして、アメリカの軍事的プレゼンス、日本の経済的プレゼンスに支えられた韓国は、独裁体制を敷いているにもかかわらず、国際的に自由主義陣営の一員とみなされた。ただし、この極東における韓日米のトライアングルは常に安定していたわけではない。

 ニクソンドクトリンや後のカーター政権の誕生などで、在韓米軍の縮小が取沙汰されると、韓国の政権は大きく動揺した。その代替策とまではいかないにしても、1969年11月の佐藤・ニクソン共同声明ではいわゆる「韓国条項」(注3)が盛り込まれ、日本も朝鮮半島の有事の際には協力すると表明するに至った。こうした韓日米の結束を牽制する形で1970年に中国は周4原則を日本に突きつけた(注4)。

 先鋭化する東西対立の中で、自陣の不都合を目こぼしせざるを得ないアメリカは、自由主義の騎手を標榜しながらダブルスタンダードで韓国の独裁体制を容認した(注5)。そして、日本政府は韓国の主張に添うかのごとく北朝鮮との国交を棚上げにしてきた。

 本稿ではこのような冷戦構造下における韓日米のトライアングルをベースにした強権的な韓国の政治・経済体制を「1965年体制」とする(注6)。

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2.韓国の民主化と摩擦の表面化
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 三代続いた「軍事独裁政権」下においても韓日間に摩擦はあった。それが現在のように先鋭化しなかったのは、韓日米のトライアングルが機能していたことと、韓日の経済的・政治的格差が大きかったためである。

 その典型例は全斗煥政権時の安保経協である。これまたクーデターで政権を掌握した全斗煥は政治的混乱と社会不安を収束させるために経済再建を最重要課題とした。そして第5次経済社会開発5カ年計画を策定・実行していく過程で、必要とされる資金を日本に要求したのである。当初は100億ドルを算定したのだが、60億ドルの要求になり、最終的には40億ドルの借款で決着を見ることになった。

 1981年、資金協力の理由付けとして掲げられたのが反共防波堤論である。日本の安全は、韓国が体を張っているが故に保っていられるのであり、応分の負担をしてもらいたいという理屈であった。当然のことながら日本国内では猛烈な反発が起こった。そして韓日両政権が対立する中で教科書問題が発生した。

 韓国内で反日の気運が高まる中、1982年11月に中曽根政権が誕生し、レーガン政権共々タカ派の反共トライアングルが形成された。中曽根総理は総理就任直後の1983年1月に韓国を訪問し、40億ドル借款が電撃的に決定された。当時、中曽根総理は日本を、太平洋を守る「不沈空母」と称し、それが十分に機能するためには韓国の経済成長と日韓協力が必要であると説いた。

 こうしたパフォーマンスが功を奏したことに加えて、全斗煥大統領は「自国が植民地になったことに対して日本の帝国主義を責めるよりも国力の弱さなど当時の我々自身の責任を厳しく問う姿勢が必要である」と国民に訴えており、さらに日本よりも豊かで強い国をつくらんとする「克日」を強調していたことなどが相乗効果を生み、反日の空気は一変したのである(注7)。

 「1965年体制」の基盤とも言える韓日米トライアングルに変化の兆しが見え始めたのは1987年である。韓国では民主化宣言がなされ、1971年以来16年ぶりに民主的な大統領選挙が実施された。また、国際社会は社会主義崩壊への道のりを歩みはじめて、内外でかつてない大きな転機を迎えつつあった。

 民主的な選挙で選ばれた盧泰愚政権は社会主義諸国との「北方外交」を積極的に展開し、1990年にソビエト、1992年には中国とも国交正常化を実現した。そして、1994年には金泳三が33年ぶりの「文民」大統領となる。この時代、すでに冷戦体制は崩壊しており、韓国は1996年にOECD加盟を果たす。その後、金大中、盧武鉉といわゆる進歩派の政権が10年間続いた。両大統領は対北朝鮮政策で融和的な太陽政策を推進して南北首脳会談を実現する。

 この間、1995年に北朝鮮を「主敵」と規定した概念が大きな揺ぎをみせた。盧武鉉政権下においては国防白書2004年版で主敵の文字が削除され、さらに2007年2月には駐韓米軍司令官が有する戦時作戦統制権を、2012年4月17日をもって韓国軍へ還収することに合意した(注8)。

 こうして韓国は冷戦体制の崩壊過程で政治的民主主義を達成した。経済的にも発展を遂げ、もはや開発資金を日本に依存するようなレベルではない。北との対峙に変化はないため、駐韓米軍は依然として存在するが、安全保障面でも戦時作戦統制権の還収を求めるようになった。さらに改革開放後の中国の台頭とそれに伴う対中貿易依存度の高まりは、中国抜きで韓国経済を論じられない状況をもたらし、韓国の国是であった反共を空洞化させている。反共はかつてのイデオロギーとしての意味を失い、北朝鮮が社会主義国家であるがゆえの、反北朝鮮の代名詞になっているにすぎない。

 このように形の上では「1965年体制」はすでに溶解しているとみなすことができる。そこで浮上してくるのが日本との解決されていない問題なのである。

 前述した反日4点セットの中には独島(竹島)問題がある。これが争点化したのは金泳三政権の時で、ピークに達したのは盧武鉉政権時代である。李明博元大統領の上陸はこの延長線上にあると言える。

 そもそもの問題点は韓日条約の中で独島(竹島)の領有権を棚上げしたところにある。韓日条約は両国間の「基本関係に関する条約」、「漁業に関する協定」及び付属文書、「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する協定」及び付属文書、「日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する協定」及び付属文書、「文化財及び文化協力に関する協定」及び付属書、「両国間の紛争の平和的処理に関する交換公文」から成り立っている。

 独島(竹島)については最後の交換公文で規定してあると解釈されているが、本文は「両国間の紛争は、別段の合意なき限り、まず外交上の経路を通じて解決するものとし、これによって解決することができなかった場合は、調停によって解決を図るものとする」とあり、独島(竹島)の文字は記入されていない。
 そして、これを担保するために「密約」が交わされた(注9)。
 当時、条約締結に際し経済協力と共に韓国政府が絶対に譲れなかったのが大韓民国を「朝鮮半島で唯一の合法政府」であると日本政府に認めさせことであった。その代わりに妥協したのが独島(竹島)問題と「賠償の放棄」、李承晩ラインの撤廃である。日本は、朝鮮(韓国)とは宗主国・植民地の関係であったのであり交戦したわけではない。したがって敗戦国として賠償する義務はないが、準賠償の性格を帯びた請求権資金という名目で経済協力を行うとしたのである。

 さらに韓国が妥協したのは条文に植民地支配という文言が記されていないことである。その結果、韓国と日本双方の植民地支配に関する解釈は未だに対立している。韓日基本条約の第二条は「千九百十年八月二十二日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は,もはや無効であることが確認される。」と記されている。ここにある「もはや無効」、英語表記では「already mull and void」を韓国は1910年の旧条約(併合条約)まで遡ると解釈するのに対して、日本は当時の締結は合法的で第二次大戦の敗戦によってそれが無効になったと主張している。

 一般的に体面にこだわる韓国(人)がこの時ばかりは実を取り、日本が名分を立てている。これら条約締結時の妥協が、今日の対立に大きな影響を及ぼしているのである。

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3.反日への転換
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 韓国では政権が変わるたびに繰り返されていることがある。そのひとつが対日関係の改善である。新大統領は決まって「未来志向の韓日関係」を口にしてきた。それがレイムダック化するとポピュリズムに走るかのごとく反日を掲げる。ただし、火のないところに煙は立たないわけで、ほとんどは「妄言」など日本側の言動がきっかけになっている。

 独島(竹島)に密約破りの施設を建設した金泳三元大統領は、従軍慰安婦問題で日本政府による保障を要求せず、「もはや過去の問題は終わった」と明言して韓日両国の未来志向的関係の構築を表明した。それが任期半ばの1995年に一変する。「終戦」50周年を迎えるにあたり、日本の国会では多くの保守系議員が欠席するなかで不戦決議を議決した。その約半年後、江藤総務庁長官が日韓併合は強制的なものでなく、植民地統治では悪いことも良いこともしたという趣旨の発言をした。それが韓国に伝わり、大統領をして「悪い癖を直してやる」と言わしめたのである。それ自体が引き金になったのかは定かでないが、金泳三政権は独島(竹島)の施設建設に踏み切った。

 金大中政権時は1997年のアジア通貨危機で韓国経済が混乱に陥っている中、日本が支援をしたことやサッカーワールドカップの共催、韓国における日本文化の開放など良好な状態が続き、漁業協定を巡ってもめたこと以外に大きな対立はなかった。

 金大中政権下で海洋水産部長官を務め、太陽政策継承を政権運営の要のひとつにした盧武鉉大統領は、好転した対日関係を引継いだ。2003年6月に国賓として日本を訪問した際には、小泉首相と共同声明「平和と繁栄の北東アジア時代に向けた韓日協力基盤の構築」を発表した。声明では朝鮮半島に関する両国の基本スタンスを確認し、北朝鮮の核問題、両国の経済問題、未来に向けた両国間の協力について具体的に言及し、ワールドカップ共同開催の成功と「韓日国民交流年」を通じて醸成された友好親善の気運を維持しながら「信頼と友情を絶え間なく進化させ、両国関係を一層高いレベルに発展させていくとの決意を共にした」のである。

 それが2005年に島根県が「竹島の日を定める条例」を制定したことから韓国政府は対日政策の転換を発表し、盧武鉉大統領は「厳しい外交戦争もあり得る」「国粋主義者たちの侵略的意図を決して容認してはならない」と過激な表現を用いながら自らのスタンスを内外に発信した。さらに、翌2006年4月には「韓日関係についての大統領特別談話文」発表し、青瓦台のホームページに日本語でアップした。

 李明博元大統領にしてもご多分に漏れず、2008年の就任当初は日本と成熟したパートナー関係を築いていくことを表明した。就任の翌月には早々とアメリカ、日本を訪問し、関係改善の意欲を示した。3.1独立運動記念日には「過去の歴史を直視しながらも、過去にとらわれない新たな未来を開く」と語り、4月の日本訪問時は「過去に傷ついたことだけを取り上げても未来を生きることはできない。過去を忘れることはできないが、過去のことだけを考えれば今を生きられないし、未来はもっと生きづらくなるのではないか。それで私は未来に向かって日本と手をつないで行こうと提案した」「私の今回の訪問が韓日両国の未来に向けた新たな協力の時代、韓日新時代を開く契機にしたいと思う」「歴代政権が述べてきたことだが、(巨額の対日貿易赤字は)改善されてはいない。私は取って付けたように、日本に対して常に謝罪しろとは言わない。謝罪は心の底から自ら進んですべきもので、無理矢理謝らせるのは謝罪ではないと思う」と語っている。

 8月15日には光復節の記念式典で「今から63年前、我々は日帝の抑圧から独立を勝ち取った。我々が国を奪われたのは何よりも我々自身に自らを守る力がなかったからだ。こうした悲劇の歴史を繰り返さないためには、自ら進んで強い国をつくらなければならない。そうすれば我が領土に食指を動かすことも無くなるはずだ」「日本も歴史を直視し、不幸な過去を今現在によみがえらせる愚を犯してはならない」と語っている。

 4月に訪日した時と8月の演説ではトーンが少し違っている。その理由は、この間に文科省が「竹島」を「わが国の領土」と明記した中学校社会科教科書の新学習指導要領解説書を公表したからである。これを受けて韓国政府は駐日大使を一時帰国させるなどいくつかの対抗措置を取ったが、この時は深刻な段階にまでは至っていない。

 こうして歴代の大統領が同じことを繰り返すのは、学習効果がないからなのかといぶかしく思う向きもあるが、何とか良くしたいという思いは共通している部分だと推察できる。また、先人たちとは違い自分ならできるという確信や自信があったのかもしれない。良くも悪くも最初は日本に好意的なスタンスを示したのに対して、異彩を放っているのが現在の朴槿恵大統領である。

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4.韓日摩擦の根底にあるもの
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 就任してすぐに韓日シャトル外交を再開した李前大統領とは対照的に、朴槿恵大統領は二年弱の間、対日関係で未来志向という言葉は表明しているものの、首脳会談には一度も応じていない。ある意味、先人たちと同じ轍を踏んでいないと言える。首尾一貫してこれからも同じ姿勢を通すのであれば、一政治家として、それはそれで評価されるかもしれない。しかし、立場は大統領であり、その言動は国益に直結する。それが韓国にとって、韓国民にとって最善であればよいのだが、はたしてそうなのだろうか。

 2014年3月にオランダ・ハーグで朴・安倍・オバマの韓日米首脳が揃って会見を開いた時の様子を考えてみる。後の安倍・習首脳会談のときも似通ったシチュエーションを目の当たりにした。ソフトな安倍総理に対してこわばった、憮然とした表情の朴大統領と習近平主席。なぜ、外交の場であのような態度をとったのか。日本では自国民向けのポーズだと受け止められている。

 そうであるならば、なぜ、国内向けに険しい表情をつくらなければならないのか。それは弱腰のリーダーは支持されないからである。そして国民が自尊心を傷つけられ、国が軽んじられ国益が毀損されるのをよしとしないからである。

 では、国益とは何で、国民の自尊心とは何なのか。こう考えていくと簡単な問題ではなくなってくる。すると、国民はこの難しい問題を深く考え、それに基づいて判断し行動しているのだろうか。

 IT化が高度に進んだ現代社会において、人々の思考はますます情緒的でステレオタイプ的になっている。情報量が多すぎることや豊かな社会になり欲望が多様化していることなどが影響しているものと思われる。デジタル化の浸透は、知識は広く浅く習得し、深く考えずに条件反射的にコミュニケーションをとる傾向に人々を、そして社会を向かわせているように見える。ネット上で広がる情報は感情的かつ感覚的なものが圧倒的に多い。

 グローバル化した情報化社会で、ステレオタイプ的で感情的な人々が世論を形成し、それに依拠する形で政治家が利害関係を調整する時代を我々は生きているのである。20世紀の後半に大衆民主主義が広まりはじめた頃から今日の様子は予想できたかもしれない。現代民主主義の機能不全は元々ビルトインされていたとも考えられる。このような考え方をベースに韓日関係のあり様を見てみる。

 朴正煕、全斗煥時代は独裁体制であったため当然ポピュリズムとは無縁であった。盧泰愚の時代は民主化されてソフト路線に転換したとはいえ、前政権の名残が消えたわけではなかった。それが「文民」大統領の時代に入ってから大衆迎合的な要素が目立つようになり、3人の大統領は極端な対日パフォーマンスを示したのである。その理由は、反日が国民統合のもっとも有効な手段であったからだ。もとより大統領自身がそれに同調するマインドを有していたのは言うまでもない。

 韓国は建国以来長い間、反共と反日を国是としてきた。内外の情勢は大きく変化したにもかかわらず、今もなお国家保安法が厳然と存在する。日本とは1965年に妥協して以来、民主化するまでは大統領が率先して反日を叫ぶことはなかった。しかし、もとをたどれば南北分断の原因が植民地支配にあると認識されているため、北の体制が変化するなり崩壊して統一が実現しない限り、この国是は変わらないだろう。

 歴代大統領が同じパターンを繰り返すのもここに理由を見出せる。盧泰愚政権までは反共が自明だった。それに、日本に何らかの要求を突きつける以外、国民統合の手段としても政権側は率先して反日を用いる必要がなかったのである。金泳三は元々野党議員で独裁政権下では反体制派であった。大統領になるために独裁政権を支えた保守派と手を組んだが、韓国民は彼のことをごりごりの保守だとは思っていない。したがって反日パフォーマンスは国是に忠実であることを示す手段になった(注10)。

 盧武鉉は進歩派の人権弁護士だったため大統領就任後も保守派の抵抗にあった。対北朝鮮送金問題に関連した法案の処理で与党と袂を分かち、国会による大統領弾劾訴追という事態を招いた。憲法裁判所がそれを棄却したため大統領職をまっとうすることになったが、こうした流れの中で、盧武鉉にとっては反日が国民統合の有力な手段足り得たと考えられる。

 李明博は大韓民国CEOを自認し、経済大統領として職務を遂行すると宣言していた。国際的にはトップセールスに力を注ぎ、国内では大規模な公共事業を行う計画を立てた。しかしながらリーマンショックという予想し得なかった事態に直面して良好な経済的パフォーマンスを達成できず、実兄が逮捕されるなど逆風にさらされ、政権末期の支持率は25%台にまで低下する羽目になった。その渦中で独島(竹島)上陸を実行したのである。その直後の世論調査では支持率が9%上昇した。国民の多くが反日を支持していることがこうした結果からも読み取れる。

 韓国民は何ゆえ頑に反日を唱えるのだろうか。反日はナショナリズムの裏返しである。それが徹底した歴史教育に起因するということはすでに広く知られている。では、その教育がいつ、どういう経緯で始まったのか、概略を述べるとする。

 植民地支配から解放された韓国では1949年に李承晩大統領が提示した一民主義に基づいた民主主義的民族教育を推進した(注11)。独立後の民族の自尊心、国民的統合意識を高めるために教科書の記述から漢字を排して国語の純化を図り、愛国・愛族思想を鼓舞する道徳教育に力を傾注したのである。これは、植民地時代の教育に対する反動でもあった。

 1905年以降、韓国における公教育は日本の主導下で行われるようになる。それによって学校が建てられ、生徒数も増えたのだが、民族主義的な内容の歴史教育は厳しく規制された。韓国の現状を痛論し自主独立を説く内容、国家論を掲げて憤慨する言辞を用いる内容、偏狭な愛国心を説き日本と他の外国に対する敵愾心を鼓舞する内容、韓国固有の言語・風俗・慣習の維持を唱える内容などの教授が禁止されたのである。そして1910年以降は日中戦争を機に徹底的に皇国臣民化教育を推進した。

 解放後、南北が分断されて朝鮮戦争を経験することによって、反動としてのナショナリズム教育は排他性をますます帯びるようになった。そして、この教育をさらに強固に制度化したのが朴正煕政権である。

 1968年12月に「国民教育憲章」を公布し、その理念を具現するために教育課程を全面改定した。それで、国家体制への順応と適応、民族中興の使命感、国民的連帯、民族文化の理解と継承、反共の信念などが強調された。さらに道徳(国民倫理)を首位教科に据えて、国史を独立教科とし、「政府と大統領に感謝する気持ちと態度を持つ」ことが教え込まれた。そして「すべての学校は民族・国家意識を高め、個人の発展の基盤である国家の発展に貢献できる人材を育成しなければならない」とされた(注12)。

 このような教育理念と体制の中で韓国民は歴史を学び、反共意識を培われてきたのである。この教えに忠実な国民が保守派に他ならない。一方、独裁体制下では学問の自由も保障されていなかったため、多くの大学生たちはそれに反発して民主化を求める激しい運動を展開した。そうした人々の中から進歩派が形成されてきたのである(注13)。

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5.「1965年体制」からの脱却
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 前述したように「1965年体制」は形の上では溶解したように見える。しかし、それはあくまでも形の上でということにすぎない。なぜなら、目に見えないエートスが依然として活きているからである。

 近年、韓国では保守(派)対進歩(派)の対立が選挙や政策立案、市民団体の運動や行動などに大きな影響を及ぼしている。この構図は韓国の独特な政治事情を内包していて日本でイメージされる保守と革新のそれとは大分違う。もちろん今の日本の状況を見ても革新政党があるのかと問われれば、答えに窮するはずだ。韓国では元々進歩的な政党などないという考え方もあり、複雑な様相を呈している(注14)。いずれにしろ保守対進歩の構図を単純に説明すると、物差しは北朝鮮に対する考え方である。厳しく相対する保守派、融和的に相対するのが進歩派(親北)、保守派はこれを北朝鮮に付従う勢力だとして「従北」という言葉を使っている。さらに、当然のことながら、この他にも大きな政府と小さな政府、平等主義と自由主義、左翼と右翼、反米と親米など一般的に知られている要素でも両派は対立することが多い。

 ただし、この保守も進歩もナショナリズム教育が土台になっているため、愛国心や日本に関連する言動では共通のプラットフォームに乗っていると言ってよい。したがって、反日・愛国についての基本的な部分で両者が対立することはまずないのである。たとえば、反日4点セットで日本の立場を肯定しようものなら双方から親日派、非国民扱いされる危険性がある。

 さらにもうひとつ付け加えるなら、親北勢力がみな共産主義を支持しているわけではないということも理解しておく必要がある。金大中、盧武鉉両大統領は太陽政策を推進して北朝鮮を訪問しているため、保守の側から左派のレッテルを貼られているが、国際社会では共産主義者とみなされることは決してない。

 このように国是のひとつ反共に関しては溶解が徐々に進んでいるにもかかわらず、反日は依然として韓国民の脳裏に焼き付いたままである。朴槿恵大統領は無所属の議員であった2002年にヨーロッパ・コリア財団理事の身分で北朝鮮を訪問し、金正日国防委員長の歓待を受けた。この時、保守派がそれに反対して問題になったことはない。彼女に左派のレッテルを貼ったこともない。しかし、もし、朴槿恵大統領が親日的な言動を示したとするならば、それみたことかと進歩派からバッシングされるに違いない。

 進歩派は朴正煕を親日派と規定し、断罪すべきであると主張している。一方の保守派は、過去の植民地時代に色々あったのは事実だが、朴正煕元大統領のリーダーシップで韓国がここまで発展できた。その卓越した指導力は文句のつけようがないし、不正蓄財をすることなくカネにもきれいだった。歴代大統領の業績や不正を見れば一目瞭然であると擁護する。そうした支持層があるからこそ彼女は国会議員になれたし大統領にもなれたのである。保守派にとっては唯一の欠点とも言える「親日」の部分で、つけ込まれたくないという思いがあるのは確かであろう。それゆえに、朴槿恵大統領は頑な対日姿勢をとっているのだという見方がある。

 この保守対進歩の対立から見えてくるのは、反北対親北に加えて親朴正煕対反朴正煕という二律背反的な構図である。そして両方とも韓国の国是に関連しているのである。しかし、わからないのは、南北が統一して、日本が韓国の要求どおりに非を認めたとしたら、韓国の国是は何になるのだろうか。日本に過去の清算を求めるのと同じ論理で、韓国政府が自ら過去の政府の過ちを断罪し、それこそ明るい未来を見出せるようなグラウンドデザイン、国家100年の体系を描く必要があると思えてならない。

 内政、外交共々激しい変化に付いていけなくなる前に、反共・反日を止揚して新たなアイデンティティを模索すべき時期である。朴正煕時代の正と負の遺産に真正面から取り組むことができるのは朴槿恵大統領をおいて他にない。朴正煕の批判をして保守派の反発を抑えられるのは彼女だけなのである。

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6.制度疲労を起こしている韓国と日本の社会
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 最後に、膠着した韓日関係を解す方向性について考えてみたい。その前に、韓国と日本の社会が置かれている現状について触れておく。

 両国ともかつてないスピードで少子高齢化が進んでいる。グローバル化の進展の中で日本はデフレに見舞われ、20年あまり経済の低迷を経験してきた。韓国でも経済成長率が低下してデフレの危険性を指摘されている。両国とも非正規労働者が増加して、ワーキングプアが社会問題になっている。大企業と中小企業の格差は広がる一方で、地方のコミュニティーは消滅の危機にさらされるという予測もある。

 日本の社会保障制度は今のままでは破綻すると考えられており、韓国はそれ以前の段階で苦しんでいる。その影響もあってか自殺者の数が両国共に多く、韓国では2013年に10万にあたり28.5人、日本では同じく21.4人となっている。いずれもOECDの平均値をはるかに上回っている。韓国では10代から30代の死亡原因の1位が自殺で、50代から60代では2位である。

 社会の閉塞感がそうさせているのか、日本ではヘイトスピーチが広がりを見せ、韓国・朝鮮(人)がやり玉に上がっている。それが影響して韓国では反日の気運が高まっていく。インターネット上の双方のバッシングは目を覆いたくなるものばかりである。そうした悪循環は断ち切らねばならないし、人々が不満を発散させるために互いをスケープゴートに仕立てるようなことは避けなければならない。

 そのために、まず最初に抑えておくべきことは、月並みだが、互いを理解するということだ。分かっているようで分かっていないのが人間であり、ましてや言葉も違うし考え方も違う。ゆえにポイントを抑えておくことが重要である。

 李元徳は韓日歴史認識を巡る摩擦のメカニズムを次のように説明している。日本は歴史問題が持つ意味を韓国側がどう感じているのか、その重要性や敏感性に対して非常に無関心、無神経であり、その爆発性に対しても過小評価をしている。そして韓国側がこの問題に拍車をかけているのは過剰反応の構造と大衆迎合主義である。政治権力とマスコミと世論で構成されるトライアングルは対日超強硬論を生み出し、韓国政府はそれなりの自律性と柔軟性を発揮することが容易でない(注15)。

 逆に韓国から日本を見た場合、異口同音に日本の右傾化を指摘する。安倍総理の高い支持率自体がその証拠である。憲法を改正して、軍隊を整備して予算を増額するのはどこの国でも行っていて、日本はごく普通のことをしているだけだと言う。道徳を教科として教え、愛国心を植え付けるのが右傾化だというなら韓国でしていることと何が違うのか。同じことをすれば、それこそ友邦であると解釈できないのか、と。「竹島」を自国の領土であると主張したのは昨日今日にはじまったことではない。なぜ今になって目くじらを立てるのか。当の日本人が右に傾いていると思っていないのに外国が言うのはおかしいであろう。

 こうした印象を与えるのは日本で左翼が退潮し保守対革新という構図が失せたことが一因である。もちろん、日本国内で安倍政権が「暴走している」と批判する勢力は存在する。しかし、国会の議席数を見るまでもなく、結果的には自民党が圧倒的な支持を得ているというのが実情である。

 韓日両国が互いを理解した上で両国の関係をどう改善していくべきか。木宮は、現状を変更しない範囲で相互の主張を展開することを許容し、外交問題化はできるだけ回避すべく、「腫れ物に触るように」大事に「管理」していかなければいけないし、互いにパブリック・ディプロマシーという問題意識を持つべきだと考える(注16)。

 李は、加害者である日本は謙虚であるべきで、被害者である韓国は歴史の和解のために寛容が求められるとしながら、韓日新時代の課題を4つ挙げている。

 まず、歴史に対する深い省察から出発して未来を設計し、次いで両国は東アジア国家間の関係をネットワーク的な世界政治の視角から見る。そして、二国間関係中心の思考から脱して韓半島、東アジア地域、グローバル領域にかけた協力を重視する。最後に政治→安保→経済話題中心の過去のパラダイムを超えて、文化、環境、情報知識、科学分野の協力をより積極的に推進していく(注17)。

 韓日間の問題は、何度も指摘しているように相手をしっかり理解し、誤解をなくした上で尊重し合い、互いの利益につながるグローカルな視点に立って、東アジアという枠組みで考えることが必要なのである。

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 おわりに
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 2014年4月、韓国でセウォル号沈没という未曾有の大事故が起きて多くの犠牲者を出した。この事故を通じて、原因の特定、事故対応、責任の追及に至るまで、あらゆる面で韓国社会と韓国人の歪みが露呈した(注18)。これも韓国社会の制度疲労の表れだと考えられる。

 今の韓国には朴槿恵大統領がリーダーシップを発揮して解決しなければならない問題が山ほどある。その中からいくつかピックアッブして本稿を締めくくりたい。

 まず、韓国社会がどこに向かおうとしているのか心配になった事件がふたつある。産經新聞の記者が逮捕されて裁判になっている事件と、統合進歩党の解体である。どちらも韓国が先進国、民主主義国であるのか問われる事件である。2015年の年頭記者会見で言論の自由について質問された大統領は「国によって事情が異なる」と答弁した。この会見で日本人記者の質問は許されず、産経新聞の記者は出席すら拒否されたという。

 統合進歩党の解体の発端は「イ・ソクキ内乱陰謀事件」で、国家情院がイ議員を起訴し、2013年11月5日に統合進歩党に対する解散審判を政府が憲法裁判所に請求した。そして2014年12月19日その決定が8対1で下され、中央選挙管理委員会によって政党登録が抹消され、そして所属議員5人は議員資格を喪失した。先祖返りを彷彿とさせられたが「この親にしてこの子あり」という流れになるのかが心配される。

 最後に触れておきたいのは朴正煕元大統領の負の遺産をどう処理するかである。従軍慰安婦問題と経済民主化のふたつについて述べる。

 前述したとおり韓日間の対立の要因は韓日条約の締結そのものにある。近年、法曹界では個人請求権の有無について解釈の余地があると議論されている。ただし、韓日両国で同じ判断が下される保証はない。従軍慰安婦問題も個人請求権の問題として取り扱いが可能だとされるが、韓国政府が求めているのはその次元のことではない。

 そもそも韓日条約締結時は、韓国において個人の権利など尊重される時代ではなかったはずだ。条約締結で個人が保障を受けることなどまずあり得ない話で、ましてや元慰安婦が名乗り出ようものなら、その地域から排除されかねない、そういう時代だった。ゆえに長い間その存在が社会的に認知されなかったのであろう。それで現在の韓国社会が元慰安婦を哀れみ、尊ぶのであれば、韓国政府による保障が先決ではなかろうか。

 この問題を巡っては元慰安婦本人の意向や利益よりもその他の思惑が勝っているきらいがある。社会問題であり、人権問題であり、普遍的な問題であるのは重々承知するが、彼女たちをカードに外交交渉をしているのであれば、今日の民主主義社会ではまさに本末転倒である。今現在の姿は、どう考えても国家の威信をかけた戦いにしか見えない。

 どこが、どちらが正しくて、何が正しくないのかは言及しない。双方の立場からは己が正しいと思うはずだ。少なくても名目は個人の権利保障で、当事者が利を得なければおかしい話である。国家の体面を考えるのであれば、その体面を毀損した先代を批判すべきではないだろうか。

 本稿で「1965年体制」からの脱却としているのもそこにエッセンスがある。そして反共と反日を国是にした韓国にこびり付いている重要な要素がもうひとつある。それは朝鮮時代から脈々と続いている権威主義だ。産經新聞の記者がなぜ逮捕されたのかもこの観点から見れば理解が可能になる。反共と反日を韓国社会の隅々まで浸透させたレールの役割を、この権威主義が果たしたのである。

 権威主義と反共と反日、これが「1965年体制」のエートスにほかならない。これと決別することが「1965年体制」からの脱却であり、そうしない限り新しい韓国の未来はやってこないだろう。朴正煕政権の負の部分を清算することが、朴槿恵大統領に課せられた歴史的使命だと思われる。

 大統領選挙では経済の民主化を政権公約として掲げ当選した。元来の所信とは正反対のことをやると約束したのである。韓国で財閥がここまで大きくなったのは朴正煕の時代に政権と癒着して土台を築いたからである。かつてと比べて政治と財閥の関係は主客転倒している。時すでに遅しの感は否めないが、取り組むべき課題であるのは間違いない。

 (筆者は山梨県立大学教授)

(注)
1)日覺社長は淡々とこう語っている。「『親韓』とか『嫌韓』とか関係あらへん。韓国で作るのが東レにとって最善の選択やったから、そこに決めただけ。誰に文句を言われる筋合いもない」。林英樹「『親韓とか嫌韓なんて関係あらへん』東レ・日覺社長の『超現実主義』」。日経ビジネス電子版。2014年10月28日。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20141027/273067/?author

2)李明博は当時学生運動の組織、救国闘争委員会の執行部に属し韓日条約締結に反対して逮捕、投獄されている。

3)「韓国条項」とは1969年11月21日、日米首脳会談後に発表された佐藤・ニクソン共同声明の第4項に盛り込まれた「総理大臣は朝鮮半島の平和維持のための国際連合の努力を高く評価し、韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要である」とした部分を指す。これにより日本は、朝鮮半島有事の際に積極的に協力すると解釈された。

4)周4原則とは、中国は次の4つにあてはまる企業とは取引をしないと周恩来首相が宣言したものを指す。1.中華民国および韓国を援助する企業。2.中華民国および韓国に投資をおこなっている企業。3.アメリカのベトナム戦争政策を援助する目的で兵器・弾薬などの軍事物資を供給している企業。4.アメリカ企業の子会社および合弁会社。

5)当然のことながら日本政府も同様の見解を表明している。1983年1月12日中曽根総理の訪韓時に発表された共同声明の3項にはこうある。「総理大臣と大統領は,日韓両国が自由と民主主義という共通の理念を追求する隣邦として相互に緊密な協力関係を維持発展させていくことが両国民の利益になるというこ
とにつき意見を共にした」。http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1983/s58-shiryou-409.htm

6)1998年に韓国の国会議員ソン・セイルは「1965年体制」を「韓日関係が一般国民から乖離したまま、主に政権間の癒着、パワーエリート間の交流・協力関係で展開された、冷戦の論理に立脚した体制」と定義している。そして、それと対比させる形で金大中政権下においては「2002年体制」への移行を目指すべきだと主張した。「2002年体制」とは韓日関係が成熟した市民社会間の「協力と競争」の関係になることを指す。ソン・セイル「金大中政府の誕生と望ましい韓日関係−1965年体制から2002年体制へ−」議政時評1998年

7)このケースでも注意しなければいけないのは、日本政府は安保経協を公式に認めていない。あくまでも純粋に経済的な対応であり、安全保障とは無関係であるとの姿勢は崩していないのである。日本の国会では1984年の全斗煥大統領訪日を前にして「韓国の防衛努力が日本の安全に寄与するのか」という質問がなされ「半島の平和と安定の維持は、日本を含む東アジアの平和と安定にとっても緊要であると認識している」、韓国が主張した防波堤論については「政府は、韓国政府からいわゆる『防波堤』論について説明をうけたことはないが、いずれにせよ、政府としてはかかる考え方はとっていない」と答弁している。そして「韓国に対する経済協力は、あくまでも韓国の経済社会開発プロジェクトに対し、被援助国の経済社会開発、民生の安定、福祉の向上に寄与するとのわが国の経済協力の基本方針に基づいて実施しているものであり、いかなる意味においても軍事力強化に寄与する性格のものではない」と答えている。答弁書第45号内閣参室101第45号昭和59年8月21日内閣総理大臣中曽根康弘。

8)1994年3月に板門店で開かれた第8次南北実務者協議の席で北側から「戦争が起きたらソウルは火の海になる」という発言がなされたことをきっかけに、その翌年、国防白書で「主敵は北朝鮮」と規定した。2004年の国防白書で削除されたものの2010年の天安艦撃沈事件を機に復活が示唆され、2012年の国防白書から再び記されるようになった。なお、李明博政権下、2010年の韓米首脳会談時に戦時作戦統制権の還収は2015年に先送りされ、さらに2012年10月の韓米定例安保協議の場で、期限を定めずに条件が整えば還収することが合意された。

9)密約の項目は四つある。(1)竹島=独島は今後、日韓両国ともに自国の領土とすることを認め、同時にこれに反論することに意義を提起しない。(2)将来、漁業区域を設定する場合、両国が竹島=独島を自国領土とする線を確定し、二線が重複する部分は共同水域とする。(3)韓国は現状を維持する。しかし、警備員を増強したり新しい施設の建築や増築はしない。(4)両国はこの合意を引継いでいく。ロー・ダニエル『竹島密約』草思社。2008年10月。

10)金泳三は権力欲と名誉欲が非常に強く、歴史に名を残せることであるならば何でもするというイメージがある。そして、実際に歴史的な治績はいくつもある。大統領在任中、金泳三は北朝鮮に対して強硬路線をとっていた。これについては、1994年、南北首脳会談を目前にして金日成が他界してしまったため、会談が水泡に帰し、その腹いせで行ったといううがった見方もある。

また、光州事件を近代法の原則に反する事後法で裁き、全斗煥、盧泰愚に死刑判決をもたらしたのも良い例である。さらに旧朝鮮総督府の建物も賛否両論ある中で彼が解体した。これらに関するエピソードを本人は次のように語っている「盧泰愚の秘密資金に関する調査内容を見てみるととんでもないものでした。私が判断する限り、この天文学的な額をくすねて貯めこんだ人間を、光州で民間人を殺害した人間を許してはいけないと考えました。それで早く捕まえろと指示しました」。

「中央庁舎(旧総督府)を壊すといったら、蜂の巣をつついたような騒ぎになりました。朝鮮日報が社説で反対意見を連続して掲載し、いろいろな理由を並べました。牧師、詩人、弁護士たちが中央日刊紙一面に意見広告を出しました。しかし、思う存分騒げ、私が壊してやる。私みたいに勇気がある人間でなければ壊せない。こんな気持ちで中央庁舎を壊しました」。建物を破壊した理由は「私が若かった頃、日本の九州鹿児島にいた政治家が私を招待してくれました。彼の家に行くと朝鮮総督府の写真が堂々と飾られていたのです。ものすごく冒涜されているような感じがしました。そのとき、彼の家に行ったことを内心後悔しました。野党の総裁時代にも一度、中央庁の前に行ってみたら、日本の修学旅行生たちがたくさん来ていて、朝鮮総督府の建物である中央庁を背景にし、誇らしげに写真を撮っているではないですか。腹立たしくてたまらなかったのです」。「対談金泳三元大統領:キム・イルヨン成均館大学教授」『季刊時代精神』2007冬号。

11)一民主義は大きく分けて二つの理念から成り立っている。ひとつは共産主義への対抗、もうひとつは単一民族である韓民族の統合である。李承晩はこれを統治のベースにして共産主義の排撃と民主主義の土台づくりを進めていった。
12)権五定「韓国におけるナショナリズム教育のルーツ」http://ksfj.jp/wp-content/uploads/5208f90fbc3bd1ef6831ce9ba8ce79af.pdf

13)盧武鉉の支持層の中心になったのは386世代である。この名称がつけられた当時30代で、1980年代に大学に通い、1960年代生まれの年齢層のことを指す。
14)韓国のイデオロギー対立については次の論文を参照されたし。朴貞憙「韓国における北朝鮮政策をめぐる市民団体間の対立構造─「天安艦沈没事件」を事例として ─」『立命館国際研究』 24-1,June 2011
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/Vol.24-1/09Paku.pdf#search=

15)李元徳「米中両強構図における韓日関係の将来」SGRAレポートNo.63第2回日韓アジアフォーラム『アジア太平洋時代における東アジア新秩序の模索』2014年2月。

16)木宮正史「日韓関係の構造変容、その過渡期としての現状、そして解法の模索」SGRAレポートNo.63同上。

17)李元徳、前掲。

18)ロー・ダニエルはセウォル号事件を韓国の高度経済成長の本質を示した事件であると言う。よく言えばリスクテイキングであるが、悪くとれば「当たって砕けろ」式である。この底流には韓国特有の「はやくはやく」「適当に・そこそこに」があり、この無責任さを「韓国文明の表裏のねじれ」であると断じている。ロー・ダニエル「欲望を積んで沈んだ船 —『セウォル号』事件に揺れ動く韓国」2014年4月30日。http://www.nippon.com/ja/column/g00167/


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