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未知との出会い(2)

久保孝雄さんの青春『詩歌日記で綴る人生の四季』

仲井 富

老いるとは未知との出会い桐一葉  富田 昌宏

◆久保さんの社会党町議時代と江田派の「現代社会主義」編集長

 久保さんは、佐藤昇さんなどの、いわゆる代々木構造改革派から社会党の江田派に来た方だと思い込んでいた。ところが大間違い。久保さんはすでに1964年、茨城県取手町会議員となり、請われて社会党茨城県連の政務調査部長をやっておられた。町議選出馬の苦悩を詠ったのが以下の数句である。そうだ、あのころの選挙はまだ自転車でハンンド・マイクくらいでやっていたのだ。

  半歳の固辞も空しく立候補 決意せし夜の流星一つ
  立候補決意せし夜にわが妻は 貯金通帳差しいだしけり
  北風も西風も衝きペダル踏む 利根のほとりで候補者となるわれ
  声もかれ足も棒なる一週間 革新初議席へ変わり果てしわれ
   (立候補33人、定数30議席中491票を得て8位で当選)

 その後1967年に佐藤昇さんらに口説かれて江田さんがスポンサーの現代社会主義研究協会の事務局長兼『現代社会主義』編集長になった。その時、貴島さんに連れられて江田さんに会ったのが初めてだった。久保さんは以下の様に語っている。

 「月50万で全て賄えということでした。市谷のマンションを借り、事務員一人雇い、印刷費を払うと私の給料分が少なくなり、佐藤、貴島さんが心配してみんなからカンパを募り、毎月2万5千円カンパしてくれました。定期カンパ者は佐藤さん、貴島さん、名和統一(大阪市大)・献三(関西の私大)の兄弟でした。この雑誌について若き日の中嶋嶺雄(元東京外大学長、元国際教養大学長・故人)が「日本で最高の理論水準の雑誌だ」と評価してくれたのが嬉しい思い出です。『現代社会主義』廃刊の報告に江田さんの所に行ったら、「まぁ座れ」といわれて、脚にお灸を据えられた事がありました。貴島さんはTVの無かった我が家に中古TVを持ってきてくれましたが映りませんでした」

◆久保さんの青春時代 1950年からの中国研究所

 この時代の危険な研修生生活を、後年中国研究所の『中国研究月報』2015年10月号で仔細に語っている。その青春時代の数首。そのなかで出会った中西功に対する尊敬の念は深いものだった。その中西と佐藤昇さんが、1949年に共同で当時の共産党指導部を批判した文書を出したことも初めて知った。

  温顔にてわれを雇える事務局長は 豊多摩刑務所の思想犯なりし人
  定期的に人民日報など届けきて そそくさと去る丈高き人
  毛沢東・劉少奇らの論文の 下訳命じられ雀躍するわれ
  群を抜く舌鋒鋭き理論家は ゾルゲ事件の死刑囚なりき
   (中西功、後の共産党参議院議員と初めて出会う)
  鵠沼の古びたる功の自宅にて 心血注ぎ書きあげし「意見書」
   (1949年,中西・佐藤さんの書いた共産党批判書)
  意見書に感動しつつ配りしに たちまち届く反党の烙印
   (これが遠因で共産を離れた)
  もの悲し夏の夜明けはすでにはや 裏の林に蜩なけり
   (三鷹下連雀にあった旧中島飛行場の古びた寮に住む)

 そして久保さんの青春時代の最大のハイライトともいうべき中国研究所の時代に入る。1949年からアルバイトで入り、50年就職後の危険な仕事『中国研究月報』2015年10月号「中研70年史 中国研究所時代の思い出 久保孝雄氏に聞く」を読ませてもらった。いわば戦後4~5年後の占領下の中国研究所のことを、初めて知ることの出来る秘話である。以下に要旨を紹介する。聞き手は中国研究所の大里編集長である。

大里:中国関係の資料はどこから入って居たのですか
 当時,中国関係の資料は香港経由で入ってきていたんですけど,基本的に船便でしたから,1,2カ月遅れで,研究者には不便だったんです。そこで最新資料を得るために,今で言うアングラ活動をやりました。某国大使館のルート,それから華僑系のルート,朝鮮総連系のルートがありました。

大里:「某国」というのはなんですか?
 後でわかります。で,私は中研の職員というだけでなく,古書店の身分も与えられていたんです。なんですかって聞いたら,まあそのうちわかるよ,とかなんとか言われてね。それで大使館ルートを担当させられたんです。

◆レジスタンス映画さながらの,非常に緊張感ある仕事をさせられた

 一部の状況を説明しますと,今でいう後楽園の裏だと思うんですけど,空襲でめちゃくちゃになっている瓦礫の中,人間の丈ぐらいある草がぼうぼうと生えているんです。そこに私ともう1人の同僚が,労務者風に変装して,身をやつしてリヤカーを曳いて潜んでいるわけです。そうすると,しばらくして夕闇が迫るころ,黒塗りじゃないんだな,濃紺の大型の乗用車が瓦礫をガタガタ言わせながら入ってくるんです。
 それである所に来てパシと止まると中から屈強な男が飛び出して,トランクを開けて,大きな南京袋を二つ,ボン,ボンと草むらに投げ込むんです。そしてまた音も無くなんて静かな話じゃない(笑)ガタガタ音を立てながら,その外交官ナンバーの車が去っていくわけです。車が見えなくなってから,私と同僚はやおら草むらからリヤカーを引っ張り出して,その南京袋を二つ積み,その上にカモフラージュとして古新聞,古雑誌,古本を載せるんです。そうして水道橋の駅から神保町へそれを曳いていくわけです。
 裏道を通りましたけど,もし検問されて何を積んでいるんだって聞かれたら,古本屋の名刺を出して,「私はこういう者です,古本の整理で大変なんです」とか言って逃れるということにしていたんです。

大里:そういう危ない目にあったことはありますか?
 実際には何もなかったですよ(笑)。それから某国大使館との間で合言葉の打ち合わせもあったようです。だけど実際は使わなかったです。彼らは無言のまま置いてパーッと行っちゃいますからね。私たちが出て行って,合言葉なんかやる暇もない(笑)。彼らも何かに怯えているようで。サーッと行っちゃう,私たちだって何が起こるかわからないし,車がいなくなったらサッと出て行って,バッと積み込むんです。南京袋って重いです。中に入っているものは本と資料ですからね。で,それを神保町のしもたや,表にはなんとか書店って書いてありました。要は古本屋だってことになっているんです。中に広い板の間がありましてね,そこに担ぎ込んで,ぶちまけるわけです。そうすると名前も知らない,顔も初めて見たような男たちが3,4人来ているんです。だからあれは中研だけのルートじゃなかったと思うんですね。

大里:その情報が必要なところから言いつかった。
 そう。今も真相はよくわかりません。だけどそこにはコミンフォルムの機関紙もあったんです。タプロイド版の英文の新聞です。でこれだけをさっと持っていく人がいるわけです。

大里:なるほど。そういう資料というのは中研のなかで活用されたのですか?
 そうです。私たちが危ない橋を渡って運んできたのを,偉い先生方が何食わぬ顔して「うん,いい資料だ」なんてやっているわけです(笑)。「某国」大使館というのは,もうおわかりだと思うんですけど,ソ連大使館です。私が面接を受けたときに,少しはロシア語がわかるのかと聞かれたのですが,少しはわかると答えたときに「ああ,それはいいな」なんて言っていたのも,これを予定していたんですね。

 次の話に行きますけれど,中研というのは今と違って,共産党の影響力が非常に強い研究所だったんです。主なスタッフ,関係者の多くは非転向の党員でした。獄中から出てきた人が多かったんです。尾崎庄太郎さんも,浅川謙次さんも,中西功さんもそうです。中西功さんはゾルケ事件の死刑囚でした。芝さんも出所組です。それから岩村さんとか米沢,野原,幼方さん,彼らは非党員ですけども,シンパだったんですね。50年春に採用された我々,本橋,佐藤,水谷,久保,これもほとんど党員だったと思います。党員しか採用しないという方針だったのかもしれませんね。

大里:1949年に団体等規制例が出てきたころの話しですね
 昭和24年に団体等規制例が出てきに,名簿を出せということになりました。で偉い先生方は「僕らの名前を出すわけにはいかない。若い者でやってくれないか」と言って,私たち若い者4人が,団体等規制令による提出名簿のなかに入ったわけです。そうしたら,まもなく田舎の父から連絡があって,警察が来て,お前が共産党に入って活動している。お宅の息子はまだ若いし将来性があるんだから,共産党なんて早く辞めるように,ちゃんと注意したほうがいいぞと言ってきた,どうなっているんだ,という連絡があったんです。ですから私の体験上,団体等規制令による名簿提出は,全部警察に筒抜けであったということです。

 それから当時の中研の定例研究会。私たちは正規の所員研究員じゃなかったので,毎回出たわけではないんですが,ときどき傍聴していると,中央官庁,経済官庁,外務省とか経済界の人も結構来ていましたね。ほかに中国を研究しているところがなかったからかもしれませんけれど,毎回そういう人たちが熱心に来ていました。そこで舌鋒鋭く議論をリードしたのは中西功だったと思います。彼は命がけで中国共産党と関わってきた人ですから,中国のことは非常によく知っていたわけで,当然だったと思います。しかも彼は満鉄調査部にいて,中国の経済やなんかを研究していましたからね。

 久保孝雄さんの『短歌日記で綴る人生の四季』の原点は少年時代にあった。短歌集冒頭の「敗戦」に私は涙した。以下に数句を紹介する。

  戦場に二児を送りしわが父は 玉音に佇ちつくす青桐のもと
   (その夜、庭に出て慟哭する父を見た)
  滅びたる国原てらす月冴えて 北支に戦士せる兄やさしかりき
   (次兄は戦車兵となり、戦闘中地雷を踏んで爆死したという)
  森に入り敗戦に哭くわれ尋めきたり 諭し給える英語の教師
   (S先生は灯火管制下,「敵性語」の英語を個人教授してくれた)
  帰りきし兄をば見ればさらばいて なお軍隊調の残るかなしき
   (行方不明の長兄は3年後ビルマ戦線から骨と皮で復員した)
  『中国の赤い星』読みて夜明くれば われの心は「中国」に定まる
  (兄たちは中国と戦ったが、弟の私は中国と仲良くする仕事がしたいと決心)

 (世論構造研究会代表・『オルタ広場』編集委員)

(2019.11.20)
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