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有閑随感録

矢口 英佑

 2018年3月、私は定年退職した。数年前から早く辞めたいと思うような職場だったが、そうかと言って、定年退職後の自分の姿などおぼろげに見ているわけでもなかった。ただ、毎月手にしてきた給料というものがなくなるという事実には直面しなければならず、年金だけの生活というものに未体験の不安はつきまとっていた。

 そんな私を見越してか、一足先に年金生活者となっていた友人2人から「年金生活がどういうものか知らないだろうから教えてやる」とわざわざ新宿まで呼び出された。
 この2人とは40年近くの飲み友だちでもあり、当然、飲み屋に入ることになった。そのとき、私は2人の行動から年金生活者になるとはどういうことかを、早くも教えられていた。
 ある店の前に立つと、1人がメニューの値段をじっくり見てからこう言ったのだった。「この店は高いからやめよう」。そしてもう1人が「うん、そうしよう」と。
 給与生活者だった頃には、おそらく言わなかっただろう2人の科白に一瞬、驚くと同時に、「年金生活者になるとはこういうことなんだ」と一抹の寂しさを覚えながら2人の変わり様を見つめていた。

 そのあと諄々と言われたのは、「長年、染みついた給与生活者の意識や生き方を完全に変えないと生活が立ちゆかなくなる」というものだった。「それじゃ、晩酌も無しか?」という私の問いに、2人は口を揃えて言ったものである。「当然さ」。「お前は今は交通費が支給されて定期を持っているだろうが、4月からは交通費がいかに高いかわかるはず。だから俺なんかできるだけ遠出をしないようにしている」と1人が言えば、もう1人が「孫からさ、お爺ちゃんはお金がないんだよねって、しょっちゅう言われているよ」
 新たな就職口があるわけではない私は年金で生活するしかない。我が家のこれからは、先ずは2人の忠告に従って大きな意識改革が必要なことを思い知らされたのだった。

 こうして私の〝毎日が日曜日〟生活が始まった。長年の習癖は一気に変えられるはずもなく、朝になると出かける準備をしない自分にふと不安を覚えることさえあった。一方、夫は〝毎日元気で外がいい〟と間違いなく思っている女房からは「お昼、家で食べるなら朝、言ってね。私はずっとお昼はお茶ぐらいにしてきているから」と言われる始末。要するに基本的には〝昼ご飯無し通告〟をされたわけである。
 定年後、夫が一日中、家にいることを世の中の奥さんたちは煩わしく感じている、とよく耳にしていたが、我が身にもそれが現実となってしまったわけで、私も「まあ、そんなところだろう」と、あまり腹も立たなかった。
 〝金なし、仕事なし、時間あり〟は、まったなしに私に意識改革を迫った。その意味では2人の友人の杞憂はいともあっさりと吹き飛んだと言えるだろう。

 こうして私はかつての出社時間より1時間ほど遅く家を出るようになった。ただし自分に強制することはせず、いたって気ままで、天候次第とも言えるだろう。家を出た私はひたすら歩くのである。以前から歩くのは嫌いではなく、時間に余裕がなくて歩きたくても歩けなかっただけに、今や私にはありがたい状況が生まれたとも言える。
 勤め人でいた頃には考えられなかったが、時には電車の5、6駅間の距離も歩くようになった。2、3駅間はごく日常的で、行きと帰りで歩くコースを変えるようにすると、見えるものがちがうし、時間帯によっても異なる様相が現れる。
 歩くコースはその時の気分次第なので、自分でも考えていなかった「ここはどこだ」と迷い人になってしまったような場所を歩いているということも珍しくない。
 そして目に映るその時々、その場所によって、あくまでも私の住んでいる地域のことだが、今の日本という姿、形が見えることにも気がつくようになった。

 たとえばあったはずの家が土地だけになっている場所が最近、増えてきている。そうした家はおしなべて比較的大きく、土地も比較的広かったところが多いようである。また広い駐車場が建て売り住宅に、そして狭い土地にコンパクトなすべて機械が管理する駐車場が、といった具合である。さらに2世帯住宅と呼ばれる家を建てる人が減ってきているようである。こらはすべて連動していると見ているのだが、こうした日本の姿については、いずれ触れる機会があるだろう。

 とにもかくにも〝金なし、仕事なし、時間あり〟の生活を始めて半年がたった。自由に使える資金がないのは辛いが、時間をもてあますということもない。何よりも良いのは、ぎゅうぎゅう詰めの通勤電車とやたらに多い会議から解放されたことである。
 とはいえ年金生活者としての自分探しに決着がついたわけではない。この先どのような自分を見いだすことができるのか、楽しみながら歩を進めていく、とでも今度2人の友人に会ったときには伝えるつもりでいる。

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