【国民は何を選んでいるのか】
国政選挙から読み解く日本人の意識構造(9)

有権者の投票結果とかけ離れた「連立政権」
―政党側のご都合主義で良いのか―

宇治 敏彦


 「内閣総理大臣は国政選挙で議席の過半数を獲得した政党から選出される」のが一般的だ。衆参両院の指名が異なった人物を選出した場合には憲法第67条によって衆院での議決が優先される。

 だが現実には、こうした一般論と異なるケースがしばしば発生する。つまり総選挙で議席の半数を獲得する政党がなかった場合には比較多数を確保した政党が軸になって連立政権を組織するのが一般的によく見かけられるパターンである。比較第一党としては当然のことながら「安定した連立政権」「思想信条が似通った政党との連立」を模索する。

 しかし有権者は、連立政権の作り方については一切口を挟むことが出来ない。選良の議員たちの動きを傍観しているしかない。だから国民の権利である「一票」の枠を超えたところで現実政治が動き出す。ここが都道府県知事選挙や外国の大統領選挙など直接民主主義の制度とは、根本的に違う間接民主主義の一つの特徴だ。

 第2次世界大戦での日本敗北に伴う連合国軍総司令部(GHQ)の占領統治が続く中で、「GHQ解散」といわれた総司令部の指示による総選挙が2回あった(1回目は幣原喜重郎内閣当時の1945年12月18日の解散、2回目は第1次吉田茂内閣当時の1947年3月31日の解散)。その第2次GHQ解散(投票は1947年4月25日)に伴う第23回衆院選挙では日本社会党が143議席を獲得して第1党になった。

 しかし定数466の中の143だから過半数はおろか、3分の1すれすれの比較第一党であり、当時社会党の実権を握っていた西尾末広書記長が「えらいこっちゃ」と嘆いたのも本音だったろう。

 吉田茂総裁の日本自由党は131、芦田均総裁(選挙当時は幹事長)の民主党は124、三木武夫書記長の国民協同党は31(ほかに日本共産党4、諸派20、無所属13)で、連立政権の選択肢としては、①政策協定による革新プラス保守複数党による連立政権、②共産党を除外した保革連立、③保守連合政権、などが想定された。他方、当時の日本統治責任者だったマッカーサー元帥は、総選挙結果を評して「日本国民は共産主義的指導を断固として排し、圧倒的に中庸の道、すなわち個人の自由を確保し、個人の権威を高めるため、極右・極左でない中道の道を選んだ」とのメッセージを発表し、共産党排除で日本側に圧力をかけた。

 比較第一党の社会党はマッカーサーの意向も忖度して共産党を除く「救国挙国政治体制」の確立を掲げて自由、民主、国民協同3党との連立政権づくりの交渉に入った。代表者会議のメンバーは社会党が片山哲委員長、西尾末広書記長、自由党が吉田茂総裁、大野伴睦幹事長、民主党が斉藤隆夫最高委員、芦田均幹事長、国協党が岡田勢一常任委議長、三木武夫書記長といった錚々たる顔ぶれである。ここでは片山からの提案を受けて、①首相は社会党から出し閣僚は社会、自由、民主3党が各5人、国協は1人とする、②「経済危機突破のため総合的な計画に基づき必要な国家統制を行う」など9項目の政策を遂行する―ことで一致した。

 ここまでを見ると、選挙結果はいくつもの政党に分散したが、4党合意に伴って民意を反映した新政府が組織されるかの印象を受ける。ところが、である。具体的な組閣に入ろうという時点で吉田自由党総裁が、片山委員長に加藤勘十、鈴木茂三郎両氏ら社会党左派の排除を連立の条件として持ち出してきた。自由党の大野幹事長も「閣議の内容がすぐモスクワに流れるような顔ぶれでは協力できない」と社会党左派の切り捨てを要求してきた。

 「自由党の吉田の計算は狡猾で、したたかである。政権担当の準備もなく、脆弱な基盤しかもたない社会党に、一時的に政権を担当させても短命に終わるに違いないと読んだことは間違いない。吉田の対社会党作戦がまんまとあたったことは、のちの政治史が、いやというほど立証してみせる」

 飯塚繁太郎氏(故人。読売新聞解説部長、日大講師などを歴任)は『結党四十年・日本社会党』(飯塚・宇治敏彦・羽原清雅/共著、1985年、行政問題研究所)の中で、このように書いている。やむなく社会党は自由党との連立は断念したが、今度は民主党が「極右、極左主義に反対すること」など3条件を突きつけ、社会党はのまざるを得なかった。

 こうして1947年6月1日に3党連立の片山内閣が誕生した。閣僚の割り振りは結局、社会7、民主7、国協2、緑風会1となった。有権者が選挙で社会党に第一党の座を与えたものの、過半数は取らせなかったことから、こうした革新・保守・中道勢力が混在する政権になったともいえるだろう。だが片山首相が首相官邸に初登庁した際は記者団もカメラマンも拍手をもって出迎えたというから、一般世論の空気としては吉田ワンマンに代わる片山革新政権を歓迎するムードだったといえよう。

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 以上の例よりもっと極端に選挙結果と政権の構成に開きが出た例を私たちは1993年から94年にかけての政局に見ることができる。

 1991年11月に発足した宮澤喜一内閣は、海部俊樹前政権がやり残した国連平和維持活動(PKO)協力法案の成立に努めるかたわら政治改革の具体的成果を挙げることを迫られていた。それというのも宮澤氏の首相就任直後に宮澤派の事務総長を務めていた阿部文男衆院議員が鉄骨メーカー「共和」からの収賄容疑で逮捕され、92年8月には金丸信自民党副総裁に東京佐川急便の渡辺元社長から5億円が渡っていた疑惑がマスコミで報じられるなど、自民党の金権腐敗体質が世論の総攻撃を受けていたからだ。
 竹下派幹部だった小沢一郎、羽田孜両氏らが政治改革を掲げて「フォーラム21」を結成、93年6月には自民党から離党して、羽田氏を党首とする新生党(自民党議員44人で構成)を立ち上げた。機を見るに敏だった自民党の武村正義氏(元滋賀県知事)も宮澤内閣不信任決議案には反対票を投じながらも「新党さきがけ」を立ち上げて、新政権づくりに動きだした。

 その結果、1993年(平成5年)7月18日に投票が行われた第40回衆院選挙は細川護煕氏(元熊本県知事)の「日本新党」も加えて、まれにみる「新党ブーム下の総選挙」となり、自民、社会両党ら、いわゆる「1955年体制下の既成政党」が新党ブームの陰で陥没していった。

 この時の投票率は67.26%とそれまでの総選挙では最低だった。宮澤喜一首相の自民党は223議席、山花貞夫委員長の社会党は70議席と、ともに大敗で1955年体制が崩壊した。それ以外の党の当選者数は新生55、公明51、日本新党35、民社15、共産15、さきがけ13、社民連4(ほかに無所属30)。

 従来的な政治家感覚でいえば自民党は追加公認の5人を含めると228議席だから武村正義氏の新党さきがけなどと連立政権を模索することも十分可能だった。ところが宮澤首相(自民党総裁)も梶山同党幹事長も茫然自失の様相で、保守連立あるいは新党を含めての保革連立に真剣に動き出す姿勢をみせなかった。特にインテリ宰相の宮澤首相は、大政奉還した徳川幕府の第15代将軍・徳川慶喜になぞらえてさっさと店仕舞いするかのような態度で、政権維持にはとことん執着しなかった。逆に新党さきがけの武村氏は、自民党との連立も含めて裏工作を始めていた。

 武村氏は、その風貌からして「ムーミンパパ」などといった愛称で親しまれた半面、政界では「策謀家」ともみられていた。平野貞夫氏(前尾繁三郎衆院議長秘書などを経て参院議員)は著書『平成政治20年史』(2008年、幻冬舎新書)に次のような細川首相のボヤキを披露している。

 「細川連立政権の最大の課題は、政治改革関連法案の成立である。その内容は、衆院の選挙制度を中選挙区から小選挙区比例代表並立制に改革すること。政党への公的助成制度を新設すること。政治資金制度の透明化、選挙違反の取締りの強化などであった。
 細川首相がその首を賭けて挑んだ政治改革の第一歩であったが、最初から政権崩壊を予感させる火種がくすぶっていた。
 その火種とは、新党さきがけの代表で内閣官房長官であった武村正義であった。細川首相が総辞職直後、私に『武村さんは、私が総理になると同時に倒閣運動を始めていたんですよ』と悔しそうに語ったことを記憶している」(原文のまま)

 当時、筆者は外部から政局講演を頼まれると「細川内閣は首相を軸にして右に小沢一郎、左に武村正義の両氏がぶら下がっている弥次郎兵衛政権で、いつバランスが崩れるか分からない」と評していた。

 こうした不安定な非自民・非共産の日本新党など8党会派の連立政権が、果たして国民が求めた選択だったのだろうか。実態は、選挙後に小沢一郎氏らの辣腕で実現した「細川人気」「新党ブーム」に頼る合従連衡、同床異夢の連立政権であった。しかし、マスコミは従来の政治家スタイルとは違ったパフォーマンス(政務以外で議員バッジを外したり、記者会見ではペンで質問者を指名するなど)を発揮する細川氏に同調し、世論も永田町の空気を一変させた細川氏を歓迎し始めた。93年8月の終戦記念日を前に細川首相が先の戦争を「侵略戦争」と明言(10日)し、所信表明演説で「侵略行為や植民地支配」への「反省とお詫び」を表明(23日)したことも、中国、韓国などから好感をもって迎えられた。

 また総選挙の争点であった政治改革に関しても同9月に「衆院に小選挙区比例代表並立制を導入」「個人あて企業献金の禁止」「政党への公的助成を柱とする公選法関連4法案」の国会提出を実現し、翌94年1月にはこの4法案を修正成立させることで野党の河野洋平自民党総裁とも合意に達した。

 ここまでは政界に「細川旋風」が吹きまくった。
 ところが同年2月になると強烈な逆風が政権を襲い、4月には細川首相が退陣に追い込まれた。逆風は2つあった。一つは2月3日未明の記者会見で細川首相が突然発表した「国民福祉税」構想。小沢一郎新生党代表幹事、市川雄一公明党書記長の「一・一ライン」が斉藤次郎大蔵事務次官と組んで立案されたというが、3年後の1997年には消費税を廃止して代わりに税率7%の「国民福祉税」を創設するという増税案だ。与党の社会党などは猛反発し、翌日には白紙撤回となった。

 もう一つの逆風は、細川首相自身にかかわるスキャンダル。佐川急便から1億円借り入れて、義父名義でNTT株を取得したことを追及され、首相は窮地にたち、4月8日辞任を表明した。細川首相本人は、従来型の政治家のように権力の座に執着しない「潔さ」を見せたつもりだったかもしれないが、この2つの逆風で「政治が変わるかもしれない」と期待感を抱いていた国民は、逆に政治不信を深めていった。

 しかも、この後の政治状況は、ますます悪化していく。
 「ポスト細川」の後継候補に選ばれたのは羽田孜新生党代表幹事だった。「人柄の良さ」では文句のつけようがない「善意の政治家」だが、金丸信氏が名言をはいたように「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山(静六)」で、与野党入り乱れての連立時代には最も不適格なリーダーとの見方も強かった。背後では小沢氏がコントロールし、悪く言えば「着せ替え人形」の側面をぬぐえなかった。

 首相に指名された日に連立与党は統一会派「改新」を国会事務局に届け出たが、社会党への根回しが不十分だったこともあり、社会党は連立を離脱。結局、新生党、日本新党、民社党、自由党など5党派が連立を組んだ。衆院では与党205議席に対し野党は304議席、参院では与党64議席に対し野党188議席と、羽田内閣は39年ぶりの少数与党政権となった。組閣直後には永野茂門法相が「南京大虐殺はでっちあげ」などと毎日新聞のインタビューに答えて、法相更迭が羽田首相の初仕事になった。在任64日は戦後最短命内閣という不名誉な記録だった。

 次が自民、社会、さきがけ3党連立による村山富市政権(社会党)である。この選択にも有権者は、直接かかわっていない。宮澤政権後、野党に転落して「陳情客は来ない」「官僚たちも寄り付かなくなった」「地元民の目が冷たくなった」など政治家としての悲哀をさんざんに思い知らされた自民党議員たちが「どうしても与党の座にもう一度戻りたい」と仕組みに仕組んだのが「自社さ」政権という“化け物”だった。戦後38年間、「1955年体制」「政財官の癒着構造」の中で甘い汁を吸い続けてきた自民党としては「社会党委員長を最高指導者の総理大臣につけても与党カムバックを果たす」のが念願だったのだ。

 竹下登元首相が当時、「ゆ党」という面白い表現を当時使っていたのを思い出す。「アイウエオのヤ行を想起してほしい。ヤ行には野党(ヤ)もあれば与党(ヨ)もある。今の自民党は野党でも与党でもない、いわばヤ行の真ん中にある『ゆ(ユ)党』のような存在だ」。

 自民、社会両党が真っ向からイデオロギーや政策で対立していた1955年体制時代ではない、連立政権の時代が定着してきたことを言いたかったのだろう。

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 このように政党政治の戦後史を解剖してみると、間接民主義制度は直接、民意が選挙後の国会運営や政策運営に反映される仕組み(勿論、その場合もあるが)というよりは、選挙結果を受けた政治家たちが知恵(時には悪知恵)を出し合って多数派を形成し(時には少数与党として)政権を運営していくのが現実の姿といえる。

 別に、それは日本だけの問題ではない。ドイツでは2017年9月の総選挙で、メルケル首相が率いるキリスト教民主・社会同盟(同盟)が246議席(議席総数は709)で過半数を取れなかったので、第2党の社会民主党(SPD)との間でいまだに新政権の枠組みや難民問題の解決策など重要政策の決定が棚ざらしになったままだ。3月に行われるイタリア総選挙でも民主党、中道右派、ポピュリズム政党が三すくみになって、ドイツと同様に組閣や連立政策が難航する事態が予想される。

 黒か白かの結論が出やすい直接民主主義に比べて、民意が多極・分散傾向になりがちな間接民主主義の運用をいかに考えたら良いのか。日本だけに限らず、世界がその問題に直面しているように思えてならない。

 (東京新聞・中日新聞相談役、元論説主幹)

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