【コラム】落穂拾記(48)

最近の教育の「明」と「暗」

羽原 清雅


 最近の公立小中校の特徴を5、60年前と比較すると、目立つのは「少数者」に対する目配りが細やかになったことがあげられよう。
 優秀な人材を生み出すこと、将来に安定的な生活を営めるための学歴確保、といった観点も教育の課題だが、平均的に生きる数多くの社会人、社会的ルールやマナーをわきまえる人びとの育成という点で、「少数者」への関心が重視されていることはいちおう評価できよう。
 これは、いわば教育の「明」だろう。公的教育の悠久の課題でもあるので、そのレベルアップを図ることが引き続き求められる。
 その一方で、大きな政策面として「子どもの貧困⇒将来の貧困階層の増大」という問題が横たわっている。

●<明> 最近の教育現場をのぞくことがある。
 目につくのは、経済的に苦しい家庭の子どもへの手当て、心身の健康などに配慮の必要な子どもへの対応、学力が追い付けない子どもへの配慮、食事などのアレルギーを抱える子どもへの目配り、外国籍家庭の児童に対する語学などの学習援助、親の就労などで放課後の居場所としての学童クラブの展開、など。これで十分、などと決して言うつもりはない。ひとり親家庭に対する実態調査や救済策など、まだまだ期待に沿えないことも多いのだが、むかしと比べると、教育の質的変化が認められる。

 教室内を見ると、先生個人のセンスや目配り、経験や工夫の蓄積などが大きく影響していることがわかるが、総体としてはレベルアップしているといえるだろう。教壇から「教える」タイプの先生もまだ少なくないが、上手に子どもたちの経験、気付きなどを誘い出して、教室内全体の会話を引き出すタイプの授業も増えている。

 教材や教具も変わった。学科によって、いろいろなグッズが個々人にあてがわれるし、工夫もそこここに見受けられる。プリントも各授業でいろいろ配られる。教科書に線を引かせ、文字を書き込ませる(これはビックリだったが)。教室ごとのICTや白板を使って、映像と書き込みによって学ぶ。もちろん、機械に弱い先生もいるし、不慣れや好まない先生もいるのだが。
 一食300円程度の給食は、健康管理、味覚、栄養価、偏食回避、アレルギー、食品知識などに配慮があり、これには隔世の感がある。栄養士の各校への配置、民間業者の熟達などの効用もある。 

 悪い面を言うなら、体力やスポーツ機能が低下している点だ。校庭の狭さ、学習塾優先、先生の多忙や指導者不足による放課後活動の限界、といった事情が影響するのだが、この影響は観戦にとどまらない実技的スポーツの振興、あるいは将来的な身体能力や健康の問題に関わるので、長期的に懸念される。

 まあ いちど、お孫さんたちの教室を見せてもらうと、古い教育を受けた年配者には「目からウロコ」だろう。各国と比べても、教育水準が落ちないだけの工夫が進められていることがわかる。
 明治維新のあと、文明開化・四民平等・殖産興業・富国強兵などの指針とともに、教育システムの充実が図られたが、この教育制度の遺産は大きく残されているし、当時の先見の明は日本の大きな試算でもあるだろう。戦時下には誤りもあったが、戦後に持ち込まれた欧米型教育はそれなりに日本的な展開を見せ、根付いていることもわかる。
 だが、教育はそれだけではすまされない。

●<暗> 長期的に見た教育の根本的な問題は、よく言われるように「子どもの貧困」である。教育は下流よりも、とかく上の方で見がちである。成績優秀、進学・就職比率の高い学校志向などが関心をそそる。それはそれで、ある意味当然だろう。
 ただ一方で、経済的に自己解決できない階層が多く、その部分が次第に増加していることも重視しなくてはなるまい。

 とくに、貧しさの悪循環が始まると悲劇的だ。
 公的な学校教育では満足しない→だが、経済的に学習塾、進学塾に行けない→あるいは大学教育を受ける資金がなく、学業と成績の不十分で資金の援助を受けにくい→いきおい、望ましい就職ができない→社会のシステムも非正規雇用を増大させ、落ちこぼれの再生産政策を企業の効率化に迎合するかたちで拡大する→そのため、非正規雇用にすがらざるを得ず、給与面やボーナスが低く、責任ある部署にも恵まれない→低収入と将来性の低さに結婚相手から避けられ、独身を強いられる→家庭や子どもに恵まれず、少子化社会を拡大する・・・といったコースに陥りかねない。それはまだいい方で、すでに表出しているような、社会からひとり逃避や孤立したり、欲求不満、ひがみやステバチから犯罪に走ったりする事例を増大する。

 しかも重要なのは、こうした格差を受けつつ貧困層に落ちていった人々の「高齢化破産」を増大させ、結果的に生活保護や高齢者の生活施設によって受け入れざるを得ないことになり、結果的にいえば財政を相当に圧迫する原因を、今まさに作りつつあるということにもなる。
 当面だけに生きる政策が、将来での禍根を作り出している——その視点が政治や行政に乏しいことが、後世の苦労を生み出すことをもっと悟るべきではないか。1000兆円の借金財政の赴くところは、極めて容易に想像がつくことだろう。
 そのような問題が、昨今の日常の各方面で、次第に顕在化して、しかも禍根のタネを今まさに蒔き散らかしていることは明白だ。

 この課題は、教育現場だけでは追いつけない。経済格差による教育の機会喪失、非正規雇用など、政治判断や制度的、長期的な機能の低下の問題が大きく横たわっている。個別的な教育願望と社会全体の教育機能との格差、とでも言えようか。
 とくに、教育の根幹には予算面での政策選択の問題がある。現政権が安保防衛政策を重視、肩入れすると同じように、教育の重要度をどのように位置づけるか、一面では社会福祉関連の多い教育面のバックアップをどのようにとらえるか、根幹を動かす政と官の意識の持ちようは、日本人全体のレベルに影響してくるだろう。

 この点ばかりは、今日の教育現場からだけでは打開しにくいことだ。

●<実相> ここにふたつの教育についての調査がある。
 ひとつは、公立と私立の学習費の比較である(2014年度・文部科学省による1140校、2万9060人対象)。幼小中高の15年間について、1年間に必要とした授業料、修学旅行費、通学費、図書費、学習塾費、その他学校外活動の月謝などの学年別平均を単純に合計した金額だという。朝日新聞の記事(2015年12月25日付)を補強しながら見てみよう。

         <すべて公立に通う> <すべて私立に通う>
15年間計 学習費    523万円       1770万円
   幼稚園       63万円        149万円
   小学校      192万円        922万円
   中学校      144万円        402万円
   高 校      123万円        297万円

 15年間の公立と私立では3.38倍の格差が出たことになる。
 私学には私学の良さと個性があり、進学のための試験を逃れて、なにかに打ち込むことができる。公立は、さまざまな階層の子弟が集まるので、貧富や生活の違いなどを含めて、ごく一般的な小社会を感じられる良さがある。
 各家庭の経済状態にもよるのだろうが、この3倍を超えるコストをどのように考えるか。学歴も含めた人生の先行投資か、優れた教育との遭遇への期待か。公立校にそのような魅力が乏しい、といった見方は正しいのか。

 文科省の統計から、学習塾依存の実態を、経費面から見てみる。
 小学校では、私立は年間約21万4000円に対して、公立は5万2000円で、4倍以上となる。中学では逆に私立の13万5000円に対して、公立は20万4000円だ。小学校では、最初から私立中学に入れようとする親がコストをかけ、中学では良い高校をめざすために資金を投入し、逆に私立は中高一貫的な学校が多く、塾費を要することが少なくなるのだろうか。高校では、私立の14万2000円に対して、公立は9万5000円と低めだ。普通の公立校では、十分な勉強ができない、との不安があるのだろうか。だが、公立校にもそれなりの工夫と努力はあるのだが、進学競争のムードにあおられているようだ。

 もうひとつの教育に関する調査がある(2015年版「図表で見る教育」・経済協力開発機構<OECD>加盟34ヵ国の2012年教育データ比較)。

・初等〜高等教育機関に対する公的支出の国内総生産(GDP)に占める割合は、OECD平均4.7%に対して、日本は3.5%。比較可能な加盟32ヵ国のうち最下位。就学前も含めていた統計を含めると、日本の最下位は6年連続。

・公的支出と私的負担を合わせた教育機関への支出総額がGDPに占める割合は、OECD平均5.3%に対して日本は5.0%。比較可能な32ヵ国のうち19位。

・公的支出と私的負担を合わせた初等〜高等教育までの、1人当たりの教育費は、OECD平均1万0220ドルに対して、日本は1万1671ドル。比較可能な31ヵ国で10位。

・教育機関への公的支出のGDPに占める割合が高かったのは、(1)ノルウェー6.5% (2)ベルギー、アイスランド5.9% (4)フィンランド5.7%……以下、アメリカ、韓国4.7%など。日本はスロバキアとともに最下位で3.5%。

・上記の統計を、教育段階別にみると、初等・中等教育はOECD平均3.5%に対して、日本は2.7%。比較可能な加盟国33ヵ国中29位。
 同じく高等教育では、OECD平均1.2%に対して、日本は0.5%。32カ国中で最下位に迫る31位。

・公的支出と私的負担を合わせた教育機関への支出総額が、どの程度GDPに占めるかを教育段階別に見ると、初等・中等教育ではOECD平均3.7%に対して、日本は2.9%で、33加盟国中の30位。高等教育では、日本1.5%で、加盟32ヵ国中15位。

・教育機関への公的支出と私的負担の割合は、日本の初等・中等教育では公的支出が92.9%で、OECD平均の90.6%を上回った。高等教育では、日本は34.3%で、OECD平均の69.7%の半分以下の低さである。しかも65.7%が私的負担で、全体の51.6%が家庭の負担、というのも際立っている。

 OECDは、日本の高等教育は公私立ともに、学生が高額の授業料を請求されている、と指摘しているという。平均年間授業料は国公立5152ドル、私立8263ドル、で、加盟国のなかでも「最も高額な国の一つ」という。

・1人当たりの教育費を教育段階別に比較すると、初等教育はOECD平均8247ドルに対して、日本は8595ドル。中等教育ではOECD平均9518ドルに対して、日本は1万0170ドル。高等教育では、OECD平均1万5028ドルに対して、日本は1万6872ドルで、いずれも日本の高額ぶりが示されている。

・初等段階の国公立校の平均学級規模(2013年) チリ29人、イスラエル28人、日本、イギリス各27人・・・・エストニア、ギリシャ17人、ルクセンブルク15人。OECD平均は21人で、比較可能な加盟29ヵ国中、日本は3番目に多い。
 前期中等教育段階での国公立校の平均学級規模(同) 韓国33人、日本32人・・・・ルクセンブルク、スロバキア各19人、エストニア15人。OECD平均は24人で、比較可能な加盟26ヵ国中、日本は2番目に多い。

・教員の1年間の法定勤務時間(2013年) 日本の国公立学校は初等、前後期中等とも1899時間。OECD平均は初等1600時間、前期中等1618時間、後期中等1603時間で、日本との差は300時間に及ぶ。

・年間授業時間 日本の国公立校の初等736時間(OECD平均772時間)、前期中等608時間(同694時間)、後期中等513時間(同643時間)で、いずれも日本の先生の授業時間の方がOECDに比べると短い。
 法定勤務時間に占める授業時間の割合は、日本の初等が39%(OECD平均49%)、前期中等が32%(同41%)、後期中等が27%(同40%)だった。
 法定勤務時間が長いのに、授業時間が短い、というのはどういうことか。
 これはかねて「先生は雑務が多く、子どもとの触れ合いの期間が取れない」と言われていることを数字的に示したもので、授業の準備や教職員会議、あるいは授業以外の仕事に多くの時間を取られ、子どもたちとの触れ合いの時間が確保しにくい、という教育現場の実情を物語っている。

 こうして見てくると、教育をめぐる社会環境は、目先では改善され、眼を見張るものがあるが、長期的に将来の社会を構成する人間作りという点に立つと、まだまだ問題は多い。
 教育現場での日々の改革は進んでいても、大きな目標を据えた計画に則った推進力は十分には働いていない。予算面では効率人間の育成に配慮があっても、社会人としての健全育成の方策はまだまだである。教育現場に目を向けると、教員の資質向上の手立てや、全人的教育の「幅と深さ」といったものへの配慮がもっともっと必要だと気付かされる。

 そうしたことが、海外の教育水準比較から読み取れる。また、国内の教育にかかる経費の負担を見ていくと、公立か、私学か、長期的にもういちど見直してみるだけの価値がある。
 個人としての教育の成果と、社会にとっての教育の所産と、どのように絡み合わせていくのか。難しい課題である。

 (筆者は元朝日新聞政治部長・オルタ編集委員)


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