【コラム】中国単信(49)

普天之下,莫非王土

趙 慶春


 中国の中・高校の歴史教科書では自国の歴史を「奴隷社会、封建社会、半封建半植民地社会、資本主義社会、社会主義社会・・・(将来共産主義社会)」と大枠で括っている。これによると紀元前221年に秦の始皇帝が中国史上初めての統一国家を作ってから、ラストエンペラーとして日本にも関わりのあった清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が退位するまでの時期を「封建社会」と呼んでいる。あるいは1840年のアヘン戦争以降、欧米列強が中国を侵略し、植民地を作った歴史時期を「半封建半植民地社会」と呼ぶ場合もある。

 筆者が学んだ頃からそれは現在まで変わっていない。こうした歴史の括り方に学生時代は少しも疑問を持たなかった。しかし歴史を学び直して「封建」を「分封建国」という視点で捉えてみると、中国の上記のような「歴史の括り方」に大きな違和感を覚えざるを得ない。

 初めての統一国家・秦誕生の一代前の周王朝は典型的な「封建制」を敷いていた。周王朝はその前の商王朝を倒し、政権を握ったが、周王は親族や商王朝打倒の功労者を各地に「分封し」、「建国」させた。「分封」された者は「忠誠、貢納、軍事出兵」が課せられる一方、国管理の自治権が与えられた。周王である「天子」は治める土地を「天領」としたが、しかしその土地は広大というわけではなかった。そのため後世になると、一部の「封建国」が強大となり、「天子」を凌駕し始め、やがて「封建国」が新しい盟主となろうとして覇を争い「春秋戦国時代」(BC770~BC221)を迎えることになるのである。

 こうして一つの「封建国」に過ぎなかった秦が次々に他の「国」を平定し、統一国家を建国したのだが、秦は一部を除いて、国家統一の政治制度として「郡県制」を取り入れ、国土を36の郡(のちに48郡)に分割し、各郡の下にさらに「県」を置き、国の統治を諸侯(封建国)に任せず、皇帝(中央政府)が任命した官吏に託した。紛れもない「中央集権」制度を敷いたのである。

 短命に終わった秦王朝に取って代わったのが漢王朝だった。漢も基本的に秦の制度を踏襲し、中央集権制度を敷いた。その後、皇帝親族たちの反乱などが起き(「呉楚七国の乱」BC154)、その反省から「武帝」(漢王朝第7代目の皇帝)は中央集権制をより強化することになった。

 その後の歴代中国王朝はほぼこの形を踏襲し、たとえ一部に「封建」制度が残されても、「封建」を受けた「王」や「侯」など「諸侯」は財政権や人事権、自前の軍隊を持つどころか、領地さえ与えられなかったり、「封建国」に行くこともできず、都に釘付けにされた者さえいた。反乱への警戒が厳しかったことがわかる。このように見ると、中国の「封建制度」は形ばかりで、歴史的には長年にわたって正真正銘の「中央集権」国家体制が維持されてきたのである。

 中国の「中央集権」制度をよく表す言葉がある。
 「普天之下,莫非王土,率土之滨,莫非王臣。」(普天の下、王土にあらざるはなく、率土の浜、王臣にあらざるはなし)。『小雅・北山』にあるこの言葉、「すべての土地は皇帝のもの、すべての人民も皇帝のもの」と言っているのである。絶対の所有、絶対の臣従を表すこの言葉を中国の歴代王朝、官僚、知識人を含めて誰も疑う者はいなかった。

 もう一つの言葉がある――「天無二日、民無二主」(天に二太陽なし。人民に二主なし)。『礼記・曾子問』に見えるこの言葉は権力の一極集中を言っている。「太陽は一つ、人間社会に君主は一人」。これはもはや「契約」関係などではなく、君主に対する絶対の服従を強制する「教え」にほかならなかった。つまり中国式中央集権制は「服従を強制する側」と「服従を強制させられる側」の構図を強固に孕んで生まれたと言っていいだろう。

 中国では、秦の全国統一から清までの統一国家を「大一統」と表現する場合がある。「大一統」とは単なる「統一」の意だけでなく、「権力の集中」「集権の誇示」という意味合いも含まれている。一方「中央集権」に対して「地方自治」があり得るが、中国では歴史的に地方政権林立状態を「分裂」「乱」「乱華」(中華を乱す)という言葉で表現し、歓迎しない事象として歴史書にはしばしばこれらの言葉が登場する。

 この統治制度は中国という共同体の文化意識に次第に浸透していった。司馬遷の『史記』を初め、正統な歴史書と位置づけられている歴代王朝の歴史を記録した「二十四史」の歴史観にも強い影響を与えた。この正史の歴史観「統一とは中央集権制」は、国を治める本道と認識され、民衆も受け入れていくことになった。

 例えば、五代後晋(936~946)の初代皇帝である石敬塘(せきけいとう)は契丹(きったん 本来はキタイ)族の力を借りるために、燕雲十六州(「燕」は現在の北京周辺、「雲」は現在の大同周辺。現在の中国の河北省と山西省にまたがる地域)を契丹に割譲した。この一件で中国歴代皇帝の中で、「大・小」「全国統一・未統一」「有能・無能」「賢帝・愚帝」に関係なく、唯一の「売国奴」と呼ばれる皇帝となった。中国歴史上、連盟政権や連邦政権が基本的に見当たらないのも、正史に顕れるこの「正統論」が根強かったからだと言えるだろう。

 中国歴代の「大一統」を遂げた強大な王朝は周辺の国々や民族を傘下に取り込もうと「朝貢」体制を築いた。「朝貢」の形は一様ではなかったが、基本的には中国への「朝貢」を許すことで「盟主」と認めさせ、一方で相手を「保護」することを約束した。面白いのは、中国は朝貢品より数十倍もの返礼品を相手に贈っていたことである。これは「大一統」政権を「支持」した見返りであり、中国がいかに「統一中央集権」に拘っていたかが伺える。

 中国式中央集権制では都に中央政府(朝廷)が置かれ、全国を管理・統治した。地方政府の地方官は基本的に朝廷が任命・派遣した。そのため人物登用試験の科挙合格者、地方から推薦された「賢良者」たちも、たとえ地方への任官であろうとも一旦中央に集約された。地方官の考課、異動、免職などもすべて中央に一本化、管理される結果、権力は極端に中央に集中することになった。

 この中央集権体制は高級官僚から下級地方官まで「官」であるがゆえに彼らに権力者の一員、権力の執行者、さらには権力の代表者という意識を強く持たせた。こうして「官と民」の間に「統治者対被統治者」という「対立」構図が生まれた。ここで言う「対立」とは「衝突」「対抗」の意味ではなく、「立場の隔たり」と言ったほうが適切かもしれない。「官と民」に連帯感や一体感が欠ける大きな要因となった。

 「官」は成功者で「民」に対して優越感を抱きがちになる。「官」は特権階級であり、「官」になることこそ「一大事業」だったのである。「官」から見ると「民」は弱小であり、異を唱えたり、反抗できない者たちだった。こうして中国の「官界」に腐敗の温床になりやすい体質が生まれた。

 一方「民」は「官」の行為が抑圧的であり、闇に閉ざされている部分が多いため不信感をぬぐい去ることができない。この不信感は当然「官」の頂点にある中央政府に向けられていく。
 そして、不満、不信、不公平感が増大していくと『水滸伝』のように「反政府」行動に出るか、そこまでの行動が取れない場合は、「個」の関係を重んじて「義」で結ばれようとした。

 「官と民」の対立は中国という国に避けがたく存在する特徴の一つと言ってよく、その傾向は現在もなお消えていないのである。

 (女子大学・教員)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧