大原雄の『流儀』

映画批評
河瀬直美監督作品「2つ目の窓」Still the water

大原 雄


 7月26日から全国でロードショー公開された映画を取り上げてみた。2014年度第67回カンヌ国際映画祭コンペティション部門正式出品。河瀬直美監督作品「2つ目の窓」というタイトルは、どういう意味だろうか。さらに、邦題と全く違う英語タイトルの''''「Still the water」とは? いずれも、簡単には答えにくい。それの答えを探すような映画批評にしたい。

 舞台は、奄美大島。主役は男女の高校生。界人(かいと)と杏子(きょうこ)。マングローブ、ガジュマル、アダンが生い茂り、周りはサンゴ礁の海。冒頭のシーンは、大波が逆巻く台風の海。旧暦の8月、中秋の名月にあわせて満月の晩に島を挙げて踊り(ハチグアチウドウイ。昔は女性司祭だけの神事だったという。今は、老若男女、住民参加の祭り)が繰り広げられる。

 その最中、海に浮かぶ男の溺死体が見つかる。翌朝、刺青を背負った男の遺体を見た界人は、それが母親の付き合っている男だと知り衝撃を受け、逃げ去る。界人の不審な行動を見ていた杏子は、界人を問い質すが答えがない。界人には何かわだかまりがあるようだ。

 ユタ(託宣、卜占、祈願、治療などをする民間信仰の巫女役)が祭祀を司り、島民たちは自然との一体感、神への畏敬の念を抱きながら、暮らしている。神々は草木や石にも、水にも宿るという奄美大島。穢れなき神の島。

 若い高校生の楽しみは、仲間の男女交際。界人と杏子は、放課後、ふたりで自転車に乗り、走り回ることが楽しみだ。杏子の母親イサはユタとして尊敬されているが、不治の病にかかり、終末期を過ごすために病院から自宅へ戻ってきた。母親が死んでも、母親の温もりは娘の心に残ると言う。母から娘へ、さらに、娘の産む子供へ。命と温もりは伝わって行く。死ぬことはちっとも怖くない。生と死をあるがままに受け止めるユタのイサ。命は繋がれてゆくもの。命への思いから、杏子は、セックスに開眼したようだ。

 「いきゆんにゃかなー わきゃくとうわすれて いきゅんにゃかなー うったちや うったちゃが いきぐるしゃ スーラいきぐるしゃー」

 (あなたは逝ってしまうのね。私を忘れて。逝ってしまうのね。あなたが
 逝ってしまったら私はどうすればいいの。逝ってしまう方も辛いのよ)

 人は生まれ、死んで行く。太陽は上り、沈んで行く。月は満ち干を繰り返す。波は寄せては、返す。自然は繰り返しながら、生きとし生けるものを育んで行く。杏子の母親ユタのイサが愛した樹木が重機で掴み取られ倒されて行くシーンがある。「神殺し」のシーンだという。作品の根底に潜められたテーマ。河瀬直美監督は、人間は起点ではなく、自然の巡りの一部に過ぎないと言う。自然、神々。

 一方、界人の方は、父親と離婚した後も、絶えず男の影のある母親の女の部分を嫌悪している。自分の中に芽生え始めた性欲を持て余している。幼い頃、離婚し、現在東京にいる父親を訪ねに行く。母親との出会いを運命だと言う父親に「ならば、なぜ離婚したのか」と問い詰める。運命ならば、離婚するなよ、生涯一緒にいるのが運命なのではないか、と怒る。一緒に銭湯に行く父と息子。背中を流す父親の背中には刺青が掘り込まれている。溺死した男の背中に彫り込まれていた刺青。別れた父親にもあった刺青。これは、河瀬直美監督からの明確なメッセージのひとつだろう。男たちの刺青。母親・岬は刺青フェチの女性なのだろうか。

 界人と杏子はそれぞれの胸の内を知るようになり、相思相愛の仲となるが、今はただ寄り添うだけ。杏子が大胆な告白をする。「セックスしよう」と界人に求める。しかし、それに応じることができず、戸惑う界人。むしろ、母親の女の部分に繋がる杏子にもいらだつ。界人は父親の男の部分と母親の女の部分との双方に嫌悪していることになる。嵐の晩、母親に怒りをぶつける界人をみて、なじる杏子。息子に怒りをぶつけられて家を出てしまう母親。強い風雨にもめげず、行方不明の母親を探し求める界人。居なくなって初めて母親の存在感に気づいたのだろう。嵐の中、母親を探し回る界人は、母を恋い慕う幼子に戻ったようだ。

 嵐は過ぎ去った。セックスの嫌悪感にも区切りをつけたのか、界人は、亜熱帯の海辺、ビラ海岸の林の中で杏子とセックスをしている。若いふたりの性交場面をカメラはゆっくりと見守る。さらに、場面はサンゴ礁の海の中へ。全裸で泳ぎ回る若いふたり。海中をゆるりと漂うふたり。神々の舞のようなシーンが続く。

 冒頭の台風がもたらす荒々しい大波のシーン。青い透き通ったサンゴ礁の海中シーン。ふたつの表情を見せる海のシーンが、なぜ、冒頭と巻末に置かれたのか。

 そろそろ、タイトルの「2つ目の窓」とはなにか。「Still the water」とは、なにか。という問題用紙に私なりに解答を書いてみようか。

 「2つ目の窓」は、第二性徴だろう。若い男女の性欲への目覚め。自我の目覚め。青春の目覚め、ということではないか。母親から娘へ、生まれて来る子どもへ、という人間の命への思いは、女性なら容易にセックスを連想するだろうし、早く体験して見たいという思いに駆られるだろう。自我の目覚めは男より女の方がはやいだろう。女性は2つ目の窓を開けたがっている。男は、母親の性欲を見せつけられ、刺青フェチを見せつけられれば、セックスに嫌悪感を抱いても仕方が無いだろう。自我の目覚めも奥手だろう。窓を開けるのは、まだ、怖い。

 少女の母の死。少年の母の性欲。少年少女の初恋とセックス。女体(司祭としての女性という身体)をベースにした死と再生。命は繋がって行く。

 界人は幼児性欲まで遡らないと母親の女の部分に対する嫌悪感を拭い去ることができなかった。改めて、まっさらで清潔なもうひとりの母親として、杏子の女の部分を受け入れる儀式として、海辺の林の中のセックス場面があり、幻想的とも言える透き通った青い海中での全裸舞踊のような遊泳シーンが必要になったのだろう。

 海と森は、命の源流。自然の中でこそ、豊かに育まれる命。永遠の命。背後にあるのは、ユタに象徴されるように、東洋的な死生観。そういう意味では、「2つ目の窓」というタイトルの映画は奄美大島の圧倒的な自然を背景に描きだされていて、非常にメッセージ性の明確な作品だ。

 では、「Still the water」というタイトルの映画は、どうだろうか。編集にフランス人が加わったという。冒頭の荒々しい灰色の大波逆巻くシーン。透き通った青いサンゴ礁の海中シーン。ふたつのシーンをむすびつけるもの。the water =海、still =静まれ、という編集センスからのメッセージではなかったのか。「水(海)よ、鎮まれ」は、カンヌ国際映画祭向けの英語のメッセージ、という解釈をすれば、これもまた、非常に明確なメッセージだったのではないのか。ヴィジュアルな編集意図を素直にタイトルにした。後で、タイトルは、編集マンのフランス人がつけたと聞いた。やはり、共同編集の結果だろう。

●出演した俳優たちへの寸評。

 常田富士男は、男のユタのような役回り。俳優としてよりもアニメの映画やテレビでの声優として知られている。

 杏子の母親役であり、ユタを演じた松田美由紀は、個性俳優だった、今は亡き松田優作の連れ合いだった。生まれ変わるために、死にゆく母親像を静かに演じていた。

 界人の父親役を演じた村上淳と界人を演じた村上虹郎は、本当の親子。村上虹郎は17歳。

 主演の吉永淳は、21歳(大学3年生)とは思えない、初々しい高校生役杏子を演じた。

 杉本哲太は、杏子の父親役。

 渡辺真起子は、界人の母親役で、男の影をちらつかせる。刺青フェチの女。

 コンペティション部門では、残念ながら受賞を逸した。

 この映画は、7月26日から、全国でロードショー公開された。

 (筆者は元NHK政治部記者・元ペンクラブ理事)


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