≪連載≫中国単信(10)

映画「藁の楯」から思ったこと

趙 慶春 

 日本の「好きなテレビ番組は?」
 こう外国人に聞くと、その回答は十人十色と思いきや、比較的一定の傾向があるように見える。

 まず、来日して日が浅い外国人は「天気予報」「スポーツ」「音楽」番組を好むようである。理由は簡単で、言葉の壁があるため、見ていればおよそ理解できるからである。
 来日数年者は言葉の壁からかなり解放されて、見る番組も多岐にわたるが、バラエティー番組はあまり好まないようである。お笑いか、司会者とゲストの雑談が多く、しかも個人的な話題もあって「話が見えない」からである。さらにはあまり中身がないこともバラエティー敬遠の理由のようである。
 ところが、来日十数年以上の外国人になると、逆にバラエティー番組大好きという傾向が強まるようである。仕事で疲れて、あまり頭を使わず気軽に笑って楽しめる方がよいということらしい。

 ただこれはアンケート調査をしたわけではないので、広汎性となるとあまり自信はないが、それぞれの理由は「なるほど」と頷ける。そして興味深いのは、滞日期間の長短に関わらず、多くの外国人が日本のドラマや映画をあまり好まないことである。

 日本のアニメは世界的に大きな関心が持たれ、世界をリードしている観がある。また筆者が知る限りだが、いくつかのテレビのバラエティー番組の中国版があるし、AKB48の中国バージョンもすでに数年前から活動している。けれども日本のテレビドラマや映画はあまり海外進出できていない。一部の親日地域には日本ドラマファンがいるようだが、少なくとも日本での「韓流ブーム」のような状況は生まれていない。日本の映画も似た状況で、海外ではなかなか大ヒットとはならない。
 その理由は?

 そこで、2013年のゴールデンウィークに公開されたアクション映画「藁の楯」を例として考えてみたい。
 この映画は日本ではまあまあの評判を取ったが、カンヌ国際映画祭に出品されたものの、上映後はブーイングが起きるほどさんざんだった。

 9歳の孫娘がレイプ、殺害された政財界の大物が、新聞に「犯人を殺せば10億円支払う」という広告を大々的に出した。金銭欲に駆られた多くの日本人が犯人の命をつけ狙うなか、自首してきた犯人の移送を遂行する警察組織と不特定多数の暗殺者たちとの攻防が描かれる。
 この映画は正義と職務、感情と理性、人性と法律が衝突するアクション映画のはずだが、映画全編に浮かび上がってくるのはアクションではなく、日本人の意識構造や日本の経済社会、特に組織の冷酷さなどのように思える。

 映画で警察上層部は「護送任務は犯人の命を守るだけでなく、警察の名誉もかかっている」と檄を飛ばす。そのため日本警察界きっての選りすぐりのSP警官が任務に当たることになる。アクション映画として観客の期待が膨らむのは当然だろう。だが緊張感と期待感に包まれた観客の期待はみごとに裏切られていく。なぜなら最優秀SP警官の見せ場がほとんどないからである。おまけに女性SP警官は犯人の闇討ちの「犠牲」になり、無駄死にしてしまう。アクション映画として見ている観客からすると、女性SP警官の死がこの映画にとって必要なら、もっとかっこよく死なせてあげればいいのにと思うのは筆者だけだろうか。繰り返すが、これはアクション映画なのだから。

 監督が変われば、まったく異なる映画になったと思うが、日本に長く住む筆者ですら、日本人は突出した個人英雄を好まず、組織の力を重視するらしいと見てしまう。
 観客の単純明快なアクション映画への期待に反してでも、組織力を重視する日本の警察を描こうとしたなら、それ自体は間違っていない。しかし、過度に組織力に頼るとどうなるのかを、この映画は皮肉にも教えているように思う。
 組織重視はルール重視につながり、個人の感情や思いは徹底して排除される。結果的にはSP警官の個人的な行動と判断を束縛せざるを得なくなっていく。優秀なSP警官の優秀さが十二分に発揮できなくなっていくのである。

 過度の組織重視は優秀な人材を萎縮させてしまいかねない。一般企業で、社員の本給以外の「増収」となると、残業ぐらいしかない。優秀な発案や創意工夫で臨時賞与や報奨金が与えられ「増収」することなどあまりない。当然の結果だが、優秀な人材はより待遇の良いところへ、となる。日本の半導体業界を半壊滅状態に陥らせたのは韓国などの台頭であり、その台頭の原動力は海外に流出した優秀な日本の技術者にあったことは多くの日本人が知っている。

 映画では数名の幼女をレイプ、殺害した犯人に警官は個人的に鉄槌を加えることもできず、度重なる犯人の挑発にも手も足も出せない。優秀であるがゆえに組織と個人の思いに悩み葛藤し、揺れ動く姿はむしろ痛々しい。
 組織に身を置くがために「個」を消し去らなければならない警官に対して、この映画でもっとも人間らしいのは10億円で日本中を振り回した政財界の大物だろう。自分の孫娘の復讐のために、最後は短剣を握りしめて犯人に迫って行く。間違いなく「自分の意思」で行動しているのだ。一方、最後まで自分の職務を全うした主人公のSP警官はどうか。日本には「滅私奉公」という言葉があるのを知っているが、筆者はあまり好きではない。なぜなら〝おまえは機械になれ〟と言われているように思えるからである。

 自己判断を放擲しても組織のルールに従わなければならないことは、人間が不特定多数の人びとと社会生活を営む限りあり得るし、自分の思いとは異なる行動を取らざるを得ないことも大いにあり得る。
 しかし、映画「藁の楯」はあくまでもアクション映画なのだ。観客は映画を見終わったあとのスカッとした気分を満喫したかったにちがいない。少なくとも筆者はそうだ。それにもかかわらず、外国人にとって理解しにくい日本の精神構造とも言うべき問題が前面に出てきていて、日本人にとっても肩の張る映画となってしまったように思う。この映画が国外で不評だったのは当然だろう。

 かりに外国人に歓迎される映画やドラマ作りを目指すならば、自国の文化とその根源を発信しながらも、ジャンルに合せて国際的に受容される表現方法を見いださなければ、彼の地で映画やドラマでの「日流」ブームが起きることは難しい。

 (筆者は大妻女子大学教員)


最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧