明治150年(2) 民権運動家桜井静の変節と田中正造

【沖縄・砂川・三里塚通信】

明治150年(2) 民権運動家桜井静の変節と田中正造

仲井 富

◆はしがき

 以下の論稿は畏友加瀬勉の著作集『加瀬勉 闘いに生きる』下巻における、民権運動家桜井静の変質と田中正造の闘いを描いた「民権家桜井静と三里塚闘争」からの抜粋である。加瀬勉氏は三里塚闘争をいまなお闘い続けているが、明治における自由民権運動変節と戦後左翼の民衆運動への背信や切り捨てを同質のものとして一貫して批判している。以下はその抜粋である。

 ――私が生まれた多古町牛尾部落は、「多胡由来記」「多古町史」によれば戸数93戸、水田面積121町4畝9歩、畑の面積巧町4反5畝22歩、石高1293冊(寛永12年〔1672〕年)多古藩調)となっている。地形は九十九里平野の西端に位置して九十九里浜に注ぐ、栗山川と高谷川の合流地点に広い三角州の水田が広がっている。九十九里浜から栗山川を30石船が遡ってきて多古米を集積して江戸に運んだ。江戸前寿司の米の主産地である。私の家の裏山には下総国と上総国の境を示す獣道の古道が今も残っている。平安貴族を謹憾させた平将門の乱のとき、将門追討のために平貞盛が軍勢を率いて通った道である。この道を北に向かって行くと、下総、上総の国境の神「境宮」がある。平貞盛が必勝祈願した境宮がある。この国境の道を挟んで西側が空港反対闘争を行なっている芝山町である。私の家の真上を飛行機が2分間に1機飛来している。

◆私の家と吉川静の関係

 「多古町史」下総国牛尾村の関係文書のなかに牛尾村役人名が記載されている。豪農で名主の吉川為右衛門(明和6〔1769〕年)の二男として吉川静(安政4〔1857〕年)は出生する。弘化3(1846)年に加瀬五左衛門が名主を勤めている。その子加瀬和平が、吉川家の差配、第一番頭を務めている。この和平が私の父の男親である。私の父は、吉川家の子供たちの着物、洋服、学校に行く鞄など頂いて使っていた。こんな関係で、現在も吉川家とは冠婚葬祭などお付き合いをさせて頂いている。

 池田栄亮(芝山町飯植)は豪農であり、千葉県会議長で改進党に所属して活躍していた。教育熱心で池田学校を創設し、子弟の教育にあたっていた。吉川静はこの池田学校で漢語、英語、数学を学び秀才ぶりを発揮する。その非凡な才能に目をつけた池田は素封家桜井吉蔵(芝山町小池)の婿養子にする。吉川静は婿養子になり吉蔵の長女千可子と結婚し桜井静となった。静19歳のときである。吉川姓から桜井姓に変わった静は、池田の推薦で、木更津県、印旛県、千葉県庁の官吏となった。
 桜井静は1人の人物と巡り会う。夷隅地方で民権家を育ててきた儒学者出身の嶺田楓江である。桜井は民権運動の師として嶺田の思想を強く受けることとなった。民権思想に目覚めた桜井静は、県庁官吏を辞し(1874)東京に遊学、帰郷して郷里小池村の第一回村会議員に当選、政治活動を始めることとなった。

◆国会開設懇請協議会案を朝野新聞に掲載一気に全国へ

 明治12(1879)年、桜井静は全国新聞である朝野新聞に「国会開設懇請協議会案」を掲載。自ら民権思想を問う事になった。桜井22歳の時である。彼の名は一気に全国に知れ渡る事になった。彼の論旨は次のようなものであった。「一国の人民たるものは、その国の政治に参加する権利がある。その権利を実用に供するためには国会を開設しなければならない」という内容のものであった。続いて桜井は全国府県会議員に対して次のような提案を行なった。
 一、全国の県会議員よ、親和連合しよう。
 二、東京に一大会議を開き、国会設立法案を決議しよう。
 三、政府に懇請し国会開設の認可を得よう。

 この提案は1万部印刷されて全国に配布された。全国的に大きな反響を呼び起こし300人から賛成の回答が寄せられた。土佐立志社、愛国社、河野広中、片岡健吉、岩手県議会、愛知県議会議長、茨城県議会議員知人、岡山県議会等が賛意を表した。
 明治13(1880)年、桜井は国会開設のために地方連合組織を結成すべきだと呼びかけた。「国会開設懇請協議会ノ為メ出会規則及ビ大日本国会法認可ノ為メ懇請意見編纂ノ草案」を発表して全国に配布。続いて明治13年1月に「大日本国会法草案」を発表した。この国会法は、上下二院制を基礎としていた。立法権の所庄については皇帝と両院の3者が共有するものとなっている。この考え方は立憲改進党(大隈重信・河野敏鎌・小野梓・沼間守一)に近く、主権住民の思想の薄いものであった。

 明治13年2月に政府は東京で地方官会議を開催する事となった。桜井はこの機会を逃さず各議員宿舎を飛び回り、大同団結を説いて回った。その結果、明治13年2月第一回の大連合協議会が開催され、続いて地方連合会が結成された。事の重大さに気が付いた政府は府県会議員の相互の連絡、通信の交換を禁止した。桜井はこの禁止条例に違反して禁固6カ月の刑を受けることとなった。(中略)

◆民権家桜井静の変質 北海道の軍馬生産で軍部と繋がる

 明治17(1884)年、桜井静は武射郡(現山武郡)から県会議員に立候補当選する。ところが桜井はほどんと出席していない。議会の沈滞に失望し、特に恩師県会議長池田栄亮の千葉県公費の不正預け入れ問題で辞任。それに中央政党の争いに失望して、県会議員を辞任。明治13(1887)年、単身でアメリカ、カナダの視察に出発した。桜井はカナダで住民会社を設立、またホテル経営に乗り出し、事業に失敗したが、新興国アメリカの植民地政策、国権意識のフロンテァ精神に触れる事となった。

 明治21(1888)年に桜井は帰国し、盟友河野広中が新たに結成した第二次愛国党のメンバーで活躍。地方では中正党幹部としての地位で活動した。明治23年(1890)年7月に山武、長生郡から衆議院議員選挙に立候補し、民権家板倉中と争って、桜井は十数票の差で次点で落選した。

 明治26(1893)年、桜井は大自然の開拓を目指して北海道に渡った。富国強兵、屯田兵政策の政府の方針に沿って北海道に渡ったのである。ロシアの極東膨張政策に対して「政府は北の守り」として北海道開拓事業を遂行したのである。明治26(1885)年に9,500人の移住者は1895年には32万8,000人に拡大していった。
 桜井は同行した青年数人と北海道忍路郡塩谷村(現小樽市)に入植して官地の払い下げを受けて桜井農場を拓いた。桜井農場、桜井村2,300戸が作られていった。桜井農場の経営は当初は困難であったが、日清戦争が始まり、桜井農場は飼育馬を軍馬として政府に売り渡し、牧草を軍馬の飼料に売り渡し、軍需産業として大きな利益を得ることとなった。民権家桜井が政府、軍部と結びついて牧場経営を成功させたことは極めて重大なことであった。

◆桜井静、中央政界に復帰 足尾鉱毒問題で質問

 明治35(1902)年8月に第七回総選挙が行なわれた。今回の選挙は小選挙区制ではなく、千葉県全県1区の選挙区であった。桜井は、成功し軌道に乗った北海道桜井農場を売り払い、その資金で立候補したのである。桜井40歳のときであり、中央政界を去って7年の歳月が過ぎていた。この選挙は日露開戦前であり「ロシア撃つべし」の圧倒的な世論のなかでの選挙であった。(後略)

◆桜井静、足尾鉱毒問題で政府を質す

 足尾鉱毒問題で戦っているかつての盟友、田中正造からの依頼で国会で鉱毒問題で政府を質している。

 桜井静君(三百三十番)「諸君、私は二十四、五年前の友人田中正造君に、此頃邂逅致しました。二十三年目でございます。其間絶へて会えませんでございましたが、鉱毒の実況につきまして、同君より委細説明を受けまして、同情の念慮より此の壇へ登りまして諸君に紹介を致します。で質問の趣意書は、既に議長の手許へ差し出してございます。どうか諸君も同情の意を以って御迎えあらむことを、希望いたします。(後略)

◆桜井静新天地を求めて満州へ 軍部に協力後ピストル自殺

 桜州静は2年間の内に3回も選挙を経験したが、明治36(1903)年、議長河野広中の勅語奉答文案事件が発生、翌日には衆議院は解散、明治37(1904)年の選挙には対露強行、主戦論を桜井は熱烈に展開、戦費増税に賛成。主戦論一色の世論に支持されるはずが落選。

 明治38(1905)年、日露戦争は奉天大会戦を迎えた。桜井は、新しい目的を持って満州(現中国東北部)に渉ったのである。直ちに、占領下を桜井は視察して回り、「牧草栽培土地貸与乾草御買上命令御願」なる願書を遼東守備軍司令官男爵、西寛二郎中将に提出。元国会議員、熱烈な主戦論者の桜井に即座に許可を与えて、遼東付近の土地500町歩を貸し与えた。
 また桜井は、大連居留民の会の設立に着手。講和交渉目前の提案であり、軍部も居留民の安全、軍部に対する物資の輸送、商業、衛生、占領地の諜報活動の関係から桜井の提案を歓迎。桜井は設立された居留民会の常任幹事に就任した。軍部から提供された豪華な新居で日本人相手のホテル経営にも乗り出した。アメリカ滞在、北海道桜井農場の成功とこの経験を軍部の政策と直接結びつける事によって桜井は長年の夢を実現したのであった。その前途は洋々たるものであった。

 ところが明治38年8月15日早朝、大連群成長官舎の一室でピストル自殺したのである。享年49歳。満州に亘って一年余りのことである。軍部と権益を巡って対立、500町の農場取り上げが原因とされているが、真意は不明、遺書として「天命知49」の色紙のみが残されている。(後略)

 (公害問題研究会代表・『オルタ広場』編集委員)

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