■【横丁茶話】

旧制高校同窓会―アナクロニズムかエキゾチシズムか?    西村 徹

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●新年の同窓会
   2月4日、高校の同窓会があった。新年と夏の2、関西に住む同窓が集まる。
東京はさっさと解散してしまったから、それはない。全共闘運動のときも東大は
逃げ足がいちばん速かった。安田講堂攻防のときも城内に東大生はいなくなって
いた(そうだ)。それと相似形をなすことかもしれない。

 なぜか関西がいまだに頑張っているのだそうである。私は30歳過ぎに1、2
度出たきり、その後はごぶさたしていた。今度は、これが最後と、必ずしも思っ
たわけでもないが、思わなかったわけでもなくて、ただなんとなく曖昧な気分に
まかせて出席した。半世紀ぶりということになるが、まるでそんな気はしなかっ
た。つくづく人生は短い。

 旧制の生き残りだから80歳以上しかいない。しめて出席者は64人。最高齢
は90歳だった。しかも2人いた。そのうちの1人は「まだゴルフやっとります」
と言っていた。ゴルフをやらない私には、先端に箆のついたステッキを振り回す
のがどれほど健康の足しになるのか、あるいは目安になるのか知らないが、とに
かく達者そうな人だった。

 ただし近頃これくらいは珍しくない。今は8掛けしてちょうど昔の年齢になる
という説がある。つまり90歳は昔の72歳。なら、いまは壮年だ。いずれセン
テナリアンも珍しくなくなるだろう。「兵士の証言」などにも健康そうな90歳
が出てくる。去年6月、被災間もない岩手県大槌、宮城県女川、そして福島を訪
れた野見山暁治氏は90歳だった。

●赤い陣羽織と太鼓と白線帽子

 ともあれ、これだけの老人が集まったところを若いものが見れば、お化け大会
のようで、驚きよりは戦慄を覚えるのではないか。私自身老人でありながら老人
ばかりの席に出ると一瞬たじろぐ。しかし今やこういう情景もまた、さほど珍し
くはないだろう。老人はろくに食わないからホテルも採算がとれるので歓迎では
ないか。

下手に量でサービスしたら「こんなに食わせて殺す気か」と、老人は怒り出す
かもしれない。それでも老人ばかりをしばらく見ていると、そんなに老人ばかり
に見えなくなってくるから、これまたおかしなものだ。

 受付に赤い陣羽織を着て白線帽子を被っている人がいる。驚いた。しかし度肝
を抜かれるというほどではなかった。驚いたけれども分らない気もしないでない
気分だった。こういう熱心家がいるからこそ関西の会は頑張っているのだろうと
納得した。関西風の暑苦しさでもあるが関西風の温もりでもある気がした。

帽子も陣羽織も特別に誂えて作らせるらしい。こういう人は、いったい、何時
ごろの卒業だろうと思って消息通に聞くと、いちばん終わりの、昭和24年の、
しかも卒業でなくて修了の人たちだという。

 24年修了とはいったいぜんたい何であるか。23年に入学して丁度1年経っ
たところで、「これで終わり」といわれて、有無を言わせず追い出されて新制大
学に入学し直しをさせられた人たちだそうだ。しかも彼らが追い出された後に、
彼らより1年先に入った2年生だけは、ちゃっかりそのまま3年生として残って、
翌年の昭和25年に旧制高校最後の卒業生として、めでたく最後の旧制大学に進
んだのだそうだ。

 端境期には避けようのない運不運とはいえ、なんともやりきれない、それは不
運だった。おなじ電車の2両目に乗ったはずが、途中の駅で、気がついたら前の
車輌はそのまま直進して、後ろ車輌は切り離されて支線に乗り換えをさせられた
ようなものだ。

●旧制高校と新制大学

 いまから思えば可笑しいようなものだが、あわやというところで旧制高校に間
に合わなかった新制世代から、新ダイヤ初乗りを喜ぶどころか旧ダイヤに乗り遅
れた遺恨のような話を、その後ずいぶん耳にしたように思う。いちから新制だっ
た人でさえその種のルサンチマンがあったのだから、24修の人たちには遺恨ど
ころでない、それは堪えがたい、侮辱されたに近い感じだったろうと想像できる。

 たしかに当時、新制というと駅弁大学などと言われて、旧制より安っぽくて格
落ちするように感じられたものだ。卒業したはずの中学校が高校に看板が塗り変
えられて、その中学のような高校の卒業生といっしょに、旧制の高校も専門学校
も仲間入りした新制大学の入試を、もう1度受け直しさせられたのだから容易に
は腑に落ちなかったことだろう。

 だから、この人たちにとって旧制高校は決して終わってはいなくて、今もその
まま断固として続いているべきものなのだ。幕が開いたと思ったら閉まったのだ
から、やっと手に入れた貴重なモラトリアムの3年を1年で反故にされたのだか
ら、それはいつまでも整理のつかない不条理だったろう。

 スクリーンに集合写真が映し出される。24修が1年生で入寮したときの写真
だ。ときの3年生で全寮委員長だった24卒の人物が、新撰組のような紋付羽織
を着て真ん中に陣取り、まわりを全寮生が囲んでいる写真だった。

 その写真の前で、その写真の元全寮委員長が、60余年後の今日ただいまアイ
ンス・ツヴァイ・ドライと音頭をとって、いっせいに寮歌を歌う。その後すぐで
あったか間があっての後か忘れたが、スクリーンには寮歌の歌詞が映し出され、
舞台に太鼓が置いてあって、たいへん福相の赤陣羽織、白線帽子がそれを打ち鳴
らして、そして延々と寮歌を歌う。

 そして歌われる寮歌の文句は皆そろってなんともアンチークだが、内容は皆そ
れぞれに時代を反映している。大正(4年)の寮歌は手放しの自由讃歌だ。昭和
(11年)の寮歌は過ぎ去りし自由の挽歌だ。

 自由のために死するてふ
  主義を愛して死するてふ
  男の児の意気地今も尚
  石(いわ)に砕きて砕き得じ

 などと、やたら威勢よく、ハ長調で歌った直後に

 「自由」も「主義」も君問はゞ
  「帰らぬ夢」と我答ふ
  時代(とき)の思潮(うしお)の逝くがごと
  星移り行き人は去り
  花うつろへど露散れど

 などと嫋々たるロ短調の歌を歌うのだ。こんなに意味も調子も月とスッポンほ
ど違う歌を、よくぞ平気で、相次いで歌えるものだ。そのように私は思っていた。
(なお前者は http://www.youtube.com/watch?v=YsM-1MEgClk で加藤登紀子の歌
唱を聴くことができる。)

 ところがそれは問題ではないらしい。経文は音声が大事で響きがよければ文句
の意味などどうでもいいようなものだ。つまり24修のひとたちは毎年の春と秋、
あの掛け替えのない、しかし失われた時を身体的に再現することによって、再び
回復しようとしているのである。この祝祭を容易に嗤うわけにはいかない。そん
な気にさせる小半日であった。

●1943年と1948年

 私が入学した昭和18年(1943年)の旧制高校には、自由とか自治とか、
そんなものは名のみというより影も形もなくて、無いものを有るかのように念力
で幻想するしかなかった。狗肉を食わされてなお羊頭を信じようとしていた。当
時の精神風景の一端を示すものとして、この年の第2寮歌を揚げることができる。
何ゆえの第2寮歌なのか、おそらく1年生でありながら学徒として出陣すること
になった作者へのはなむけの意味もあったのでないかと憶測する。こういうもの
だ。

 ふみはしも  君にたのむぞ  すめぐにの
  興亡たゞに  かかるといはずや

 歌の評価は措く。ともかくも、建前はここまで煮詰まってしまっていたという
ことである。純粋といえば純粋。ミネラルの気も残らぬほどに蒸留されつくして
いたということである。
  しかし、もう1度見直してみよう。単調な愛国歌のようでいて、1枚皮を剥い
で、よくよく見ると、実は学問への未練があるからこその、装われた潔さにすぎ
ないことが隠されているようにも見える。「君にたのむぞ」にそれは窺がえる。
後段は勇ましいというより、むしろ切迫した危機感のほうが強いもののように思
えてくる。たぶん遺書を書くような気で書いたのであろう。

 24修の入学した昭和23年(1948年)は様相がまるで正反対だった。行
く手にもはや兵役はなかった。軍事教練も武道も、道義という当局による恣意的
人物査定のための授業もなくなった。食糧事情も敗戦直後の惨状を抜け出してい
た。片山内閣は倒れたが芦田内閣に社会党は引き続き入閣していた。文相は森戸
辰男だった。

 民芸が「破戒」を公演した。教育委員会法が公布された。戦犯の処刑があった。
全学連が結成された。軍国主義の除染は着々と進むかに見え、逆コースが始まる
前夜の、かりそめながら、いっとき戦後平和の多幸感に包まれた年ではなかった
ろうか。暗黒の戦争末期に較べればアルカディアと呼んでもいいほどに夢のよう
な時代だったはずだ。

 それがたった1年で奪われた。悔やんでも悔やみきれないのは当然だろう。夢
を奪われたという、裏切られたという無念の想いは戦中末期派もまた共有できる
ところだ。稀有な1年を、毎年2度ずつ蘇らせるのはアナクロニズムにはちがい
ない。しかし、祭りはみんなアナクロニズムだ。そして同時にエキゾチシズムだ。
酔うべし歌うべし、太鼓打ち鳴らして。
(2012/03/08)

    (筆者は堺市在住・大阪女子大学名誉教授)

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