【沖縄の地鳴り】

新元号「令和」に当たって~「九州年号」

平良 知二


 「平成」から「令和」に改元された。天皇の継承儀礼など皇室行事が国民の関心を集め、10連休もあって新時代ムードが高まったが、それもやや落ち着いてきた昨今である。その間、改元に関して多くの情報(新聞等)を知ることになった。男系継承だと天皇制の将来はどうなるのかなど、いろいろな論に触れる機会となった。

 ところが以前、『オルタ』162号(2017.6.20)【日本の歴史・思想・風土】「元号に思う」(http://www.alter-magazine.jp/index.php?go=KewcNp)で筆者が紹介した「九州年号」についての情報は全く表に出てこなかった。九州年号を論ずることは大和朝廷以来の近畿天皇家の歴史(『古事記』『日本書紀』の歴史)に“横やり”を入れることになるため、表面化が避けられたのかも知れない。
 701年の「大宝」元年が天皇家の連続した元号の始まりとされているが(その前に「大化」など3つの年号が飛び飛びにある)、この大宝年号に先立って「九州王朝」(倭国)が発布した九州年号が32個もあったというのが歴史の真相である。大宝以前の大化、白雉、朱鳥の飛び飛びの3年号も九州年号に含まれている。在野の多くの研究者が九州王朝と九州年号(倭国年号)の発掘を続けている。

 令和は国書の『万葉集』から採られた。太宰府での、梅の花を詠む宴会。そこでの歌が万葉集に採録され、令和はその序文にあった。太宰府長官の大伴旅人が主催した歌の会といわれ、天平2(730)年のことという。いま“令和発祥の地”となった太宰府跡は人気になっている。

 その太宰府である。いつからあるのかなど、その由来は『古事記』『日本書紀』でははっきりしない。大和朝廷が設置した官庁かどうか、疑問があるとされている。
 実は太宰府とは中央政庁のことを言う。発祥は中国(南朝劉宋か)である。天子がいる政権の中枢、天子を支える政治・行政のトップ官庁が太宰府である。日本でいえば天皇、あるいは大王のおひざ元の官庁となる。
 それが近畿(奈良)になくて九州・筑紫にある。この意味するところは大きい。そこはかつて天皇あるいは大王がいた場所ということになるからだ。太宰府政庁跡の周辺には「内裏跡」「紫宸殿」などの王朝中枢にちなむ小字(こあざ)が残っているという。
 大伴旅人が宴を催した時は近畿天皇家の権力範囲に入っていたが、もともとは九州王朝の本拠だったことになる。

 もう一つ、九州という地名である。その由来もはっきりしていない。筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の9つに分かれているから、というのが大方の見方のようだ。しかし筑紫や豊、火(肥)の国をなぜわざわざ2つ(前後)に分けたのか、と問われると「?」である。要するに9つに分けたかったのだということになる。
 9は中国では尊い数字とされる。その9を使った九州の呼称は、中国の古い時代から王朝の統治圏を意味した。中国の伝説的な天子の一人、禹(う)が天下を「九州に分かつ」として以来、九州は天下を意味する政治的用語になった。つまり「天子の下の直接統治領域」を指すようになった。

 その九州の呼称が近畿ではなく九州に残っているという事実は重い。近畿天皇家が有史以来、倭の国全体の中心権力であったなら、近畿一帯が九州と呼ばれてもおかしくなかったはずだが、九州こそが九州と呼ばれている。つまり九州の地は一つの王朝の統治領域だったのである。いわゆる九州王朝だ。その中心が太宰府であった。

 「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや」という有名な国書。隋の天子に聖徳太子が送った国書とされているが、これも九州王朝の王によるものであった。ここで自らを「天子」と名乗っている。中国王朝に朝貢してきた九州王朝(倭国)が主従の関係から脱し、中国と対等になった証(あかし)とされる。7世紀前半だ。「九州」「太宰府」はそのころ九州王朝自身が命名、設置したものではないか。

 九州王朝、九州年号を唱えたのは在野の研究者・古田武彦氏(2015年没)で、その業績を継ぐ民間の研究者たちが古代日本(倭国)の実相解明に取り組んでいる。九州王朝と近畿天皇家(大和朝廷)の関係など、新しい展開もあるようだ。筆者もこれらの論に強く惹かれている。
 今回の改元に当たって九州王朝論が多くの人の注目を引けば、と願っている。

 (元沖縄タイムス記者)

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