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斉藤代議士の演説について      今井 正敏

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 「オルタ」29号のトップに、昭和15年2月2日、第75帝国議会で行われ
た斉藤隆夫代議士のいわゆる「反軍演説」といわれている「支那事変処理に関す
る質問演説」の内容の全文が編集部の大変な尽力によって掲載されているが、こ
の演説で議会速記録から削除された部分の「いたずらに聖戦の美名にかくれ
て・・・・」以下の箇所は、よく知られているものの、演説の内容全体はどんな
ものであったかについて知らなかったので、今回その全文に目を通すことができ、
非常に勉強になった。
 
 冒頭の「注記」で述べられておられるように、この演説自体は、単に理不尽な
戦争政策と軍事行動に対する非難攻撃というだけではなく、出口なしの戦争には
まり込んでいく時代の日本の政治経済の矛盾、さらにはその時代の精神そのもの
の欺瞞性に対してまでも総体として批判する広がりと鋭い論理性を持ったもので
あったということは、この全文を読んでよく理解できたが、かなり長いこの演説
を斉藤代議士は草稿をまったく見ないで行ったと「注記」に書かれてあったので、
この点に関して驚きを禁じ得なかった。
 
 現在の代議士の質問演説は、ほとんどが原稿の棒読み、これに答える政府側も
同じく官僚の書いた原稿を朗読――――というかたち。このくりかえしでは、
「国民の胸を打ち」「後世まで語りつがれる」ような演説はとうてい生まれては
こないと思われる。
 この歴史的な斉藤演説に関して「付記」に「強く国民の胸を打って、さすがの
軍部も動揺したと言われている」と書かれている点と「『中国問題』が日本現代
史における最重要な課題の一つであるということを国民に認識させた」と述べら
れている点の二つについては、やや疑問があるので以下私見を記したい。
 
 第一の疑問点は斉藤演説が行われた時点では、国民は、この演説の内容がどん
なものであったかということを知らされていなかったのではないかということ。
 よく知られているように昭和15年当時の日本国民が支那事変の動きや国内外
の出来事を知る手がかりは新聞とNHK一局だけのラジオが主体で、そのメデイ
アが報道する内容も官僚や軍部の意に沿ったものが中心できわめて限定されたも
のであった。
 
 そこで、当時の朝日新聞がこの斉藤演説をどのように取り上げたか、というこ
とを見てみると斉藤演説が行われた翌2月3日の朝刊で五段抜き見だしのトップ
で大きく報道した。
その見出しは「斉藤氏質問中に失言 除名問題にまで発展か 陸軍各会派とも激
昂」この記事の内容は「演説後半中に聖戦の目的につき批判的意見を述べた部分
が今次事変の目的と理想とを侮辱したものであるとして陸軍をはじめ各派にも重
大な衝撃を与え(中略)不穏当と見做される後半の全部を速記録から削除するこ
とに決し(中略)斉藤氏の身分上の問題に関し処分を要求する空気が濃厚となり
除名問題に迄発展しそうな形勢にある。」というものであった。
 
 そして「国民の犠牲を忘れ 事変処理なし 斉藤氏首相に訊す」という三段抜
き見だしで演説前半部分の要旨を伝えているが(以下削除)という活字が出たと
ころで、この演説内容の記事は終わっている。
 このように、トップ記事で大きく報道されたのにもかかわらず「不穏当と看做
される」というその不穏当の内容とはいかなるものであったかについては、まっ
たく書かれていないのである。
 
 このことは、国民は斉藤演説が斉藤代議士の議員除名問題にまで発展しそうな
重大問題であったことを知らされただけで、この中身については全く知らされて
いなかったということになるのである。
 したがって「付記」に書かれてあるような「強く国民の胸を打って」とか「国
民に認めさせた」とかいう、その「国民」そのものは何も知らなかったわけなの
で、ここの部分に「国民」が登場してきていることに、いささか疑問に感じた次
第なのである。
 
 次に「さすがの軍部も動揺したといわれている」点だが中央公論社発行の『日
本の歴史』では「最初は米内首相は勿論畑陸相も『なかなかうまいことを言うも
んだな』と感心したくらいで、とくに問題にもならない様子だった。(中略)しか
し、武藤軍務局長が『こういう演説は聞き捨てならぬ。政府はどう始末する気か』
とねじ込んできた。こうした言動に油を注いで大きな政治問題にまで発展させた
のは、当時、議会の中でかなりの勢力をもっていた、いわゆる親軍代議士の連中
が軍部の意向を忖度して動いたためであった。と書かれてあり「軍部も動揺」と
いう見方とかなり違った見解にもとづいて記述が進められている。
 
 「軍部も動揺」ということと、主役は「武藤軍務局長と親軍代議士たち」とい
うことでは大きな相違があるので、疑問を感じたわけなのである。
 いづれにしても斉藤代議士の「反軍演説」の内容を国民が知った戦争が終わっ
た後だったわけで、特に斉藤代議士が昭和25年5月に成立した第一次吉田内閣
に入閣(21年10月に設置された行政管理調査の初代担当相に就任)したこと
により「反軍演説」の削除された部分を新聞各紙が大きく報じたので、多くの国
民がこの内容を知ることになった。
(「昭和史」の中には、戦後、この「反軍演説」を最初に取り上げたのは、毎日新
聞社会部長のっ森正蔵氏が書いた戦後始めてのベストセラーになったといわれて
いる昭和20年12月に発行された『旋風二十年』であると書いてあるものもあ
るが、これは間違いで同書はこの「反軍演説」をとりあげてはいない)
 
 斉藤代議士は、次の内閣の史上初めての社会党首班の片山内閣にも留任(吉田
内閣の大臣で片山内閣に留任したのは斉藤代議士と一松定吉氏の二人だけ)した
ので「時の人」として知名度も高まり、「反軍演説」ならびに昭和11年5月に
行った二・二六事件の責任を追及したいわゆる「粛軍演説」の内容は、広く知れ
わたるようになった。
 しかし、ここで触れておくと昭和史に関して数多くの発言を記述している松本
清張氏並びに司馬遼太郎氏も、この「反軍演説」については、私の調べた限りで
は、何も書いていない。特に松本氏には『昭和史発掘』という全十三巻に及ぶ著
作があるのにもかかわらず、この「反軍演説」のことは姿を見せていない。
 
 また、高等学校用の日本史教科書のページをめくってみても、山川出版社発行
の「日本史」以外の各社発行の教科書には「反軍演説」は全く書かれていない。
 このことは、少なくとも現在60歳以下の人たちは、この「反軍演説」のこと
を学校では学んではおらず、そして、数多くの松本清張、司馬遼太郎の著書を読
む人たちも、これらの著書の中では「反軍演説」のことを目にする機会歯見当た
らなくなっているといえると思うのである。
 
 こうした世の中の動きの中にあって若林前国分寺町長が、この「反軍演説」の
削除された箇所を「声を出してさけびたい、弁論の最高峰とあがめている」とま
で絶賛し、町の公の場所である遊歩道(「哲学の道」)に建てられてある東屋
(「夕顔亭」)に削除された部分の全文を堂々と掲げた―という若林前町長の慧
眼と卓見、そして強靭な実行力に、この小文をしたためながら改めて深い敬意を
表したいと思った次第なのである。
                   (筆者は元日青協本部役員)

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