【オルタのこだま】                     

教育基本法と日青協綱領         今井 正敏

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 今年の国会は、安倍首相が「教育改革国会」と呼んでいるので、教育問題をめ
ぐって与野党の激しい論戦がくりひろげられる国会になると思われるが、「オル
タ」でも、12月発行の36号で、《小特集:教育基本法》を掲載し、「教育基
本法」改悪後のなりゆきに強い関心を示した。今後も随時特集を組み、問題を追
及されると思うので、大いに期待したい。
 ところで、私が関係してきた日本青年団協議会(日青協)でも、日青協の性格
や活動の方向を示す「綱領」が教育基本法と関係しているので、これについて記
したい。
 日青協が結成されたのは、わが国がまだ占領下におかれていた1951年(昭
和26年)佐賀市で開かれた青年団(正確には都道府県連合青年団)の全国大会
において、「綱領」と「規約」を決定、その規約に基づいて5月に名古屋市で開
かれた第一回理事会において会長以下の役員を選出、これによって初めて「日本
青年団協議会」という青年団の全国団体が誕生した。(私はその理事会で常任理
事に選出され、初代の日青協執行部の一員となる。)

 上記のように当時日本はまだGHQ(連合軍総司令部)の支配下におかれてい
たため、当然全国団体の結成には、GHQの許可を得ることが必須条件であった。
したがって日青協の結成にあたっても、数年にわたりGHQの民間情報局(CIE)
の青少年部長(当時は、米国のコーネル大学の副総長を勤めていた親日家タイパー
氏)と交渉を重ねていた。当初は、青年団の全国団体の結成については、戦時中の
大日本青少年団の活動などの例を持ち出して、賛成ではなかったが、1949年以
降、米ソ対立の冷戦が激化してきたことから、CIEの態度も反共団体の育成とい
う方向に姿勢が変わり、青年団の全国団体の結成を容認するようになってきた。

 このような空気の中で日青協結成の準備委員会には、CIEに「規約案」と「綱
領案」を提出したが、「綱領案」はクレームがつかずOK、「規約案」のほうには、
3点クレームがつけられた。
 この第一点は、「共産主義的傾向」を有する者の加入を認めないようにすること、
第二の点は、全国組織に団員が直接会費を納入するようにすること、第三の点は、
役員は立候補制にして全団員の直接選挙によって選出すること--ということを規
約の中に明記せよ、というものであった。
 準備委員会側は、米国の青年団体の主流であるYMCAやYWCAと、日本の
青年団は、その性格や組織形体が違うということで、タイパー部長と激しいやり
とりを交わしたが、最終的には、加入にあたって具備する条件として、(一)政
党宗派に偏しないこと、(二)全体主義的傾向を有しないこと、(三)会費を納
入することの項目を規約の中に明記するということで、タイパー部長の承認をと
りつけた。

 上記のように「綱領案」にはクレームはつかなかったが、その「綱領案」は、
四つの項目から構成されており、その最初の項目は、
 私達は心身を修練し、よりよき個人の完成につとめます
というものであった。
 この「綱領案」の起草者は、20歳まで「教育勅語」下における忠君愛国主体
の教育を受けてきた昭和25年当時、25歳の静岡県青年団体連絡協議会(以下
県団と略称)の会長鈴木重郎君であったが、彼は、この「綱領案」の起草説明で、
昭和22年3月に施行された「教育基本法」を参考にしたと明言していて、例え
ば、最初の「心身」は、教育基本法の第一条(教育の目的)の中に書かれてある
「心身ともに健康な国民」を参考にしたこと、「よりよき個人の完成につとめま
す」の文言は、基本法の前文に述べられてある「個人の尊厳を重んじ、真理と平
和を希求する人間の育成」や、第一条に掲げられてある「教育は、人格の完成を
めざして」や「真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび」等から「個人」重視
の考え方を取り入れたものであることを話している。
 
 私と鈴木君は同世代であり、昭和25年の秋に発足したCIEの「青少年指導
顧問」として活動を共にした同志的仲間であったので、彼の「綱領案」の説明は、
何度も耳にしていたので、いまから50年も前の出来事ではあったが、いまなお
鮮明に記憶している。

 私は、上記の指導顧問に就任するまでは、生まれ育った村(現足利市)の中学
校の教師をしていたので、新しくつくられた教育基本法のことは、頭の中に入っ
ていたが、教職に関係のない青年団の県団幹部が、当時、教育基本法に目を通し
ていて、それを青年団活動の中に生かしていこうとしていた姿が見てとれるわけ
で、教育基本法が施行されて、まだ3年程度しかたっていない時点で、民間の青
年団幹部が、教育基本法を口にしていたということは、それだけ教育基本法が一
般の国民から理解されていたことを物語っていたのではないかと思われる。

 このように日青協の「綱領」の第一項目は、教育基本法がその土台になってい
たが、これを戦前戦中の青年団の全国組織(大日本連合青年団、大日本青年団、
大日本青少年団)のそれぞれの「綱領」と比べてみると、戦後の日青協は、戦前
戦中の全国組織とまったく異なっていることがよくわかるので、参考までに、以
下各「綱領」の一項目を並べてみたいと思う。

 ◎大日本連合青年団の「綱領」
 (1925年(大正14年)に当時の文部省と内務省の指導で初めて結成され
た青年団の全国組織。団長職にあたる理事長に就任したのは、文部大臣や内務大
臣をつとめ、のちに宮内大臣になった一木喜徳郎氏。本部役員の理事には、現役
の青年団員は一人も選出されず、直接青年団とは関係を持たない、男子のみのお
となの組織であった)
 「青年団綱領」は1929年(昭和4年)にこのおとなたちによってつくられ、
青年団員に示された。

 我等ハ純真ナリ、青年ノ友情ト愛郷ノ精神ニヨリテ団結ス

 なお、女子青年のほうは、この大日本連合青年団とは別に、1927年(昭和
2年)に「大日本連合女子青年団」がつくられた。男子と同じく女子のおとなた
ちによる組織であった。

 ◎大日本青年団の「綱領」
 (日中戦争の長期化に伴い、国内体制が統制下へと進んでゆく情勢に呼応して、
大日本連合青年団を、全国の青年団の指導統制機関にしていこうという意図から、
1939年(昭和14年)に大日本連合青年団を改組した全国組織。団長には有
馬良橘海軍大将が就任。この本部理事にも現役の青年団員は姿を見せなかった。)

 一、我等ハ大日本青年ナリ
  肇国ノ皇謨ニ則リ忠孝ノ精神ヲ発揮シ、
  同心団結以テ国運ノ進展ヲ期ス

 ◎大日本青少年団の「綱領」
 (1941年(昭和16年)に文部省が中心になって、大日本青年団、大日本
連合女子青年団、大日本少年団連盟、帝国少年団協会の四団を解体統合してつく
られた小学生から20歳までの青年男女を含めたいわゆる官製の組織。団長には
橋田邦彦文部大臣が就任。のちに鈴木孝雄陸軍大将に交替した。ドイツのヒトラ
ーユーゲントを参考にしたといわれた。この青少年団の本部役員にも現役の青年
団員は皆無。)

 我等は大日本青少年団員なり
 一、大御心を奉体し心をあわせて奉公の誠をつくし
   天壌無窮の皇運を扶翼し奉らん

 戦前戦中の青年団の全国組織は、戦後の日青協とその設立の目的、構成、役員
の選出、活動形体等がまったく異なるので、単純に比較はできないが、「青年に
よる青年たちのため」の初めての青年団の全国組織である日青協が、青年たち自
からの力で、教育基本法から学んで、自分たちの「綱領」をつくり、持ったとい
うことをご理解いただければと思う。
                   (元日本青年団協議会本部役員)

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