戦後政治と日本社会党

―政治におけるビジョンの重要性について―

岡田 一郎


 1956年から76年まで北海道池田町の町長をつとめ、十勝ワインの開発と販売による町おこしを成功させた、ワイン町長こと丸谷金保は次のように述べている。

 「みなさまのためになる役人になります」
 「どんなことでもいたします」
 こんなネコなで声でささやいても、町の人とのコミュニケーションは成立しない。
 「はい、お世話さまで……」
 口先では愛想のいい言葉が返ってくるかもしれないが、心の中では「ふん」とそっぽを向かれる。自治体に対する住民の“不感症”“無関心”ぶりは、実は自然現象ではなく、人為的なものだ。疎遠の責任はまず自治体のあり方にある、と思う。自治体が住民と密着した関係をもちたかったら、やはりビジョンを提出し、その賛否を問う過程、可能性を追求する過程で“対話”を成立させるよりほかない。(丸谷金保『ワイン町長奮戦記』読売新聞社、1972年、52頁)

 丸谷が述べているのは住民と自治体の関係についてだが、丸谷の述べた内容は政党と有権者の関係にもあてはまらないだろうか。民主主義体制において、有権者が各政党の理念や政策を完全に理解して、投票先を決めるのが理想的だが、実際にはそうはいかない。結局、各政党が自分たちの理想とする社会をわかりやすいビジョンの形として提示し、有権者はそのビジョンへの賛否で投票先を決めていくしかないのである。

 それでは、日本の戦後政治史において、日本社会党(社会党)はどのようなビジョンを提示してきたであろうか。社会党が結党されたとき、党が掲げたスローガンは「社会主義」「平和主義」「民主主義」の3つであった。この3つのスローガンは安保闘争までは当時の有権者の胸に強く響いたと思われる。西欧の社会民主主義とソ連・東欧の共産主義の区別があいまいであった当時、社会主義路線は戦後日本がとるべき路線として重要な選択肢の1つであった。1950年代に日本の再軍備が進行する中で、平和主義は厭戦感情が強い若者や女性の支持を社会党が集める中で重要な役割を果たした。

 民主主義というスローガンも逆コースが進み、戦後の民主化が否定される中で逆コースに反発する都市住民やインテリ層を社会党の下に結集する上で重要な役割を果たしたであろう。ただ、こういったスローガンは、安保闘争が終息し、保守政権が改憲を棚上げして、「所得倍増」の掛け声の下に資本主義社会として日本社会を成熟させることに専念しはじめた段階で有権者の胸に響かなくなっていく。そんな時に、江田三郎が「アメリカの平均した生活水準の高さ、ソ連の徹底した社会保障、イギリスの議会制民主主義、日本国憲法の平和主義」という江田ビジョンを提唱したのは時宜に適ったものであったのだろう。江田ビジョンを聞いたある記者は「これではマリリン・モンローの尻と、ブリジット・バルドーの乳房を持つ胴体に、マレーネ・ディートリッヒの足をつけ、原節子の顔を乗せれば世界一の美人になる、という中学生の妄想のようなもんだ」と皮肉ったというが、これに対して江田は「キミたちはいろいろケチをつけるけど、こう述べると社会党の天下がくればどうなるか、大衆にもはっきりしたイメージが持てるじゃないか」と反論したという。(俵孝太郎『日本の政治家 親と子の肖像』中央公論社、1997年、148〜149頁)

 江田ビジョンの内容が例え、ブレーンの意見を十分に深めないまま採用し、発表したものであったとしても、丸谷の言葉を借りれば、「その賛否を問う過程、可能性を追求する過程」で有権者との間に対話が生まれ、そうした対話を通じて社会党を支持しようという人々も出てくるということなのではないだろうか。(現に、江田ビジョンをめぐって記者と江田との間に上記のような「対話」が発生しているし、ビジョン論争が党の内外で起こっている。)

 丸谷の本を読むまで、正直、私は、構造改革論に直結しない江田ビジョンがあの時期に唐突に提示され、ビジョン論争が起こったことを戦後政治史の中でどのように位置づけるべきかよく理解していなかった。しかし、丸谷が指摘した「ビジョンをめぐる対話」の重要性に気がついた時に、長年の疑問は氷解した。「所得倍増」のスローガンの下、自由民主党(自民党)と有権者の間でビジョンをめぐる対話が成立していた時に、江田はそれに代わるビジョンを提唱して、社会党と有権者の間の対話を生み出そうとしたのだろう。

 しかし、社会党は江田ビジョンを否定したばかりか、「ビジョンは不要」という姿勢をその後も維持し続ける。そのため、社会党は保守政党が次々と打ち出すビジョン(「日本改造計画」「戦後政治の総決算」など)に対して常に受け身の姿勢を余儀なくされるようになる。

 これでは自民党のビジョンに反発する人々の消極的な支持を集めることは出来たであろうが、社会党の理念や政策を理解して積極的に支持しようという層を発掘することは出来なかったであろう。(地方政治においては、革新自治体の時代に「シビル・ミニマム」というビジョンを革新陣営が提示することができたが、あくまでも高度成長を前提にしたビジョンであり、低成長時代に対応したビジョンを提示することは出来なかった。)社会党の支持層が時代を追うごとに縮小し、ついには事実上消滅してしまった要因の一つは江田ビジョン以降、社会党が積極的にビジョンを提示することが出来なかったことにあるのではないだろうか。

 ビジョンは現代日本の政治を語る上でも重要な要素である。例えば、安倍晋三首相は次の参院選後に改憲の発議・国民投票を行うことを表明している。自民党の改憲草案の内容がいかに荒唐無稽なものであったとしても、「憲法を変える」という言葉には積極的なイメージが付随し、「憲法を護る」という言い方にはどうしても受身的なイメージが付随してしまう。

 以前から私は色々なところで言っていることだが、護憲陣営は「憲法を護る」ではなく、「憲法完全実施」を訴えれば良いのではないか。第9条だけでなく、日本国憲法の内容は今日の日本で至るところで骨抜きにされている。例えば、生存権の規定があるにもかかわらず、生活保護がもらえず餓死する人間が多いのはなぜなのか、日本の子どもの6分の1が貧困状態にあるのはなぜなのか。

 労働三権が保障されているにもかかわらず、なぜブラック企業が跋扈し、残業代がゼロにされようとしているのか。憲法の理念を完全に実現した社会のビジョンを護憲勢力は積極的に提示し、攻勢に出る必要があるのではないか。そもそも生存権の規定は、社会民主党(社民党)の大先輩の森戸辰男が現憲法に挿入させた規定ではないか。なぜ、社民党は「自分たちが憲法に盛り込ませた生存権規定を完全実施せよ」と訴えないのか。

 ちなみに「憲法完全実施」は1960年代初め、構造改革派が社会党の主導権を握っていた時に使われていた言葉である。社会党の後継政党である社民党は当時の歴史を忘れているようなので、是非、かつてのスローガンを再採用して欲しいと思う。

 社会党が事実上消滅した後に、政権交代可能な政党として野党第一党に躍り出たのが民主党である。しかし、民主党は社会党以上にビジョンなき政党であった。民主党自身は「政権交代」自体がビジョンであると考えていたのかもしれないが、政権交代は目的ではなく、手段である。政権交代を実現した後に、どのような社会を構築しようというのか。

 そのビジョンが見えてこなければ、有権者は民主党を積極的に支持することは出来ないであろう。民主党が唯一、有権者に具体的に提示したビジョンは、小沢一郎代表時代の「国民の生活が第一」と鳩山由紀夫代表時代の「コンクリートから人へ」であった。このビジョンゆえに民主党は2009年の総選挙で政権交代を実現したが、鳩山内閣の総辞職後、民主党執行部は「小沢・鳩山時代のマニフェストには無理があった」としてそれまでのビジョンを反故にしてしまう。

 ビジョンを変更するのはかまわない。しかし、掲げたビジョンを変更するのならば、新たなビジョンを掲げた上で、有権者に信を問う必要があったのではないか。しかし、菅直人・野田佳彦内閣は自分たちが反故にしたビジョンで獲得した議席数にあぐらをかいたまま、新たなビジョンを提示することなく政権に居座り続けた。このような政党が国民の信を失うのは当然である。内容は稚拙ながら、「既得権益への切り込み」「大阪都構想」という自らのビジョン実現に邁進する姿を有権者に見せ続ける橋下徹大阪市長がある程度の支持を大阪市で得ているのとは対照的である。(ただ、私自身は橋下市長の市政を全く評価していない。)

 現代の日本では、政権与党である自民党が、理想化された「幻想の大日本帝国」の復活を目指す古色蒼然としたビジョンを掲げるのに対して、対する民主党や維新の党は「掲げるビジョンはありませんが、議席や政権をください」と訴えているのである。これでは有権者が選挙に向かう訳無いではないか。有権者の無関心や政治的無知を嘆く前に、各党(特に野党)は江田が言うところの「自分たちの天下がくればどうなるか、大衆にもはっきりイメージがわくビジョン」を提唱し、その賛否を問う過程、可能性を追求する過程で有権者との対話を成立させる必要があるのではないだろうか。

 (筆者は小山高専・日本大学・東京成徳大学非常勤講師)


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