■<<特集・憲法>>

改憲阻止運動を始めよう        下山 保

  1)私の反改憲運動論
  2)私の再チャレンジ
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◆はじめに


 私は今回、37年間封印してきた「政治運動」を再開し、「反改憲運動」を始
めました。ここに寄稿する文章は、そのことについてのものです。
 「私の反改憲運動論」は、60年安保全学連崩れが、最近は9条改憲反対に絞
って本気で長期の運動に取り組んでいることを踏まえ、その一員になった私の
「反改憲勝利への方程式」を記述したものです。独りよがりの、遊び心と本気と
がごっちゃになった運動論ですが、私なりに気に入っています。言いたいのは「発
想の転換」と「面白い運動」です。反論をお待ちしてます。 
「私の再チャレンジ」は高校時代の同級会通信に投稿したものです。これはかつ
て私が学生運動で多くの友人に心配や迷惑をかけたのに何故また運動をはじめ
たのか、という疑問(多分そういう疑問を持つのではないか)に答えようとした
ものです。私の人生、そこから得たものなども含めて、出来る限り理解をもとめ
る文章にしたつもりです。
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◆(1)私の反改憲運動論
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1.国会前ハンストに参加して
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 3月20日から始まった「60年安保全学連・全自連・全共闘・反戦青年委員
会OB」達による、「9条改憲阻止国会前リレーハンスト」が昨日(5月2日)
終了した。
 この運動は
 (1)一ヵ月半運動が継続し、延べ1000人近くが参加した
 (2)60年安保以降の四分五裂、内ゲバを乗り越え、半世紀近い時空を越えて連
帯した
 (3)「9条改憲阻止」が連帯の核になり得た
 という点で、自画自賛して良いと思っている。
 さらに今後の運動に対する参加者の自信につながり、国民投票までの長期運動
の初歩的基礎を作れた(と思われる)こと、マスコミからは無視されるだろうと
思っていたのが意外に関心を呼んだこと、などの収穫もあった。
 この運動のきっかけは昨年の旧ブント系による「6.15集会・国会デモ」で
あった。その後10.21国際反戦デー行動などを経て9条改憲阻止運動へと性
格を変え、さらに今回の国会前ハンストで運動の担い手を旧ブント系以外にも拡
げてきた。そういう点でも成果はあった。

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2.これからの反改憲運動
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(1)目標は「国民投票で勝つ」
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 3年後から本格化するはずの改憲攻防戦では、有効投票過半数の争奪戦が行わ
れる。この時点での目標は、投票率50%で有権者の半分3500万の獲得であ
る(蔵田計成談)。私は現実論として更にその半分、1750万を固めれば勝て
ると踏んでいる。これは私が手がけてきた各種選挙経験を踏まえてのことだが、
「私は○○さんを応援します」という署名を、目標獲得数の半分を実現すれば必
ず勝った、という実績に基づいている。本番までの3年間で「私は9条改憲に反
対です」という確信犯を1750万人作れるかどうかが鍵になる。

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(2)価値観の転換が必要
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 1)「保守」の価値
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 かつて改憲派は保守であり、護憲派は革新であった。今はその逆になり、保守
系は改革派の旗をかかげて改憲を迫り、革新系は憲法の保守・防衛に大わらわで
ある。改憲に反対するわれわれは憲法についての「保守派」であることを認めな
ければならない。
 大事なことはわれわれの発想を転換することだ。
 われわれは「保守」の価値に目覚めなければならない。今国際的に戦争以上に
問題だと指摘されている「環境」しかりである。「今世紀内の地球破滅」が現実
問題になるほど環境破壊は進行しており、「環境の保護・保守」は避けられない
課題となっている(なお環境問題は政治主義に走る日本新旧左翼の大きな弱点で
あり、あらためて論じる必要がある)。また人類の文化や遺産の保護・保守もし
かりである。急成長する中進国家や内戦地域での遺産破壊は凄まじい。
 今大事なことは、必ずしも「改革」や「革新」、その発想の延長線上の「開発」
「開拓」などではない。本当に大切なものや人間に不可欠なものを「保持」し「保
存」し「保護」し「保守」することである。経済論で言えば左翼お得意の「生産
主義論」の時代は終わり、「消費論」が重要な時代に入っている。これからの時
代は「改革・革新」に価値があるのではなく「保護・保守」にこそ価値がある。
憲法9条を世界遺産にという考えがある。われわれは世界遺産にふさわしい9条
を守る保守派であることに誇りを持つべきだ。

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 2)「違い」の価値
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 これまでの運動は「意思統一」と「組織の一体化」が重要であった。だから意
思統一をはかるため大論議をし、意見が違うものは排除した。左翼の歴史は新で
あれ旧であれ、分派闘争と分裂、排除の歴史であった。
 これからの運動は、違う意見を繋ぎ合わせることを大切にする運動である。組
織論は「統一・統合の組織論」ではなく、多様な意見、多様な人々に価値を見出
す「連帯・連合の組織論」でなければならない。
 われわれは長らく「違い」に過剰反応をしてきた。ために「違う人」の本意や
心の奥にあるものに気づかず簡単に仲間はずれにしてきた。私は、「違い」こそ
われわれの弱点や誤りを気づかせ正してくれる貴重なものであることを、60年
安保後15年ぐらい経ってから気がついた。「同志の集団」より「違う人々」が
連帯したときの方がはるかに大きな力を発揮することを、生協運動を通して実感
することが出来た。「違い」にこそ価値がある。昔から「喧嘩のあと仲直りをし
た友情は切れない」と言うではないか。
 国民投票の過半数には、護憲派、反改憲派を集めるだけでは到達しない。護憲、
創憲、加憲、論憲、改憲各派の全てが仲間作りの対象でなければならない。「違
い」は価値であり仲間である。
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(3)運動論の転換――ジバクテロの勧め
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 左翼も左翼崩れも、昔も今も運動と言えば集会、デモ、ストライキ、署名と相
場が決まっている。しかし安倍首相に言われるまでもなく、運動体の戦後レジー
ムもとっくに壊れており、既存の運動形態を担える組織は消滅しかかっている。
勿論集会デモなどは今日も必要であり有効性もある。しかし街頭行動やストライ
キで勝利を目指すという、夢よもう一度のようなことに賭けるわけにはいかない。
古典的運動をコツコツやりながらも、もっと市民の注意をひきつける運動を編み
出す必要がある。

(1)古典的運動では署名運動に全力をあげることだろう。
 前記のように1750万人署名運動は重要であり、達成の可能性は十分ある。
少なくともこの運動には労組などの旧レジームの組織も参加できるし、NPOな
どの新しい組織も共に動ける。新旧の運動体総動員した大きな運動を作り上げる
べきだ。

(2)新しい運動の一つを、中東の自爆テロに学びたい。
 自爆テロを賛美する立場にはない。しかしその効果は驚くほどだ。われわれが
殺傷を手段にするわけはないが、効果だけは学びたい。自分も他人も傷つけず、
しかし世間の注意ひきつけ、市民が参加したくなるような「ジバクテロ」をやり
たい。
 私の言う「ジバク」とは自らを少々犠牲にすることである。「テロ」とは有効
な運動手段を指す。私にはいくつかのアイデアがあるが、例えば今回のハンスト
も「われわれのジバクテロ」であったと思っている。今後、様々なジバクテロを
工夫していかなければならない。自分たちだけで考えるのではなく、広く市民か
らアイデアを募ることも重要だ。「ジバクテロ運動」をネット公開し、参加者を
募集すれば効果を表しそうだ。市民に開かれ、市民のアイデアが生かされ、市民
が沢山参加するジバクテロをひろめて「国民的運動」にしていきたい。

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◆(2)私の再チャレンジ―憲法9条の変更に反対して―
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序、政治運動を再開します
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 私は37年間封印してきた「政治運動」を再開します。安倍首相が言う再チャ
レンジ政策への私の答えとして「私の再チャレンジ」をやります。「再」と言う
のは一度目があったからです。それはご存知のとおり安倍首相のお祖父さんであ
る岸首相への戦いであった60年安保闘争でした。再チャレンジは、運命のなせ
る業とでもいうのか、孫の安倍首相が提唱する「憲法改定」への戦いになります。
 日本国憲法の心臓部分は9条です。稀に見るというより世界に類の無い平和条
項だと言われてきました。もう一人の総理太田光が「憲法9条を世界遺産に」と
いう運動を提案していますが、9条という類の無い平和条項には世界遺産にふさ
わしい高邁な平和理念が簡潔に示されています。この理念は、日本のみならず世
界的に価値の高い理念だと私は思います。
 
私は2月で69歳になりました。この年で今更、と思われるでしょうが、この
年だからこそやるのだと言っています。私達の年代は、かろうじて戦争体験を語
ることが出来る最後の年代です。憲法の平和条項をどうするかを考えることは、
裏返して戦争を考えることと同じです。戦争に痛めつけられた世代は、見聞きし
た事実を次世代に伝える責任があるはずです。そして自らの体験に基づく戦争観
を通して憲法観を語るべきです。そんな考えで、私の遺言のつもりで「戦争と平
和と憲法」を次世代に伝えるべく、体力と知力の範囲で動き回ってみよう思い立
ちました。
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1.私の原点-―旧満州体験―
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 旧満州の体験はすなわち私の戦争体験です。すでに同級会通信で前に述べてい
ますが、7歳のとき旧満州で敗戦をむかえ、混乱の一年を経て帰国しました。ア
メーバ赤痢、壊血病、大地の子崩れ、と三度に及ぶ死線のさまよいが私の人生に
影響をもたらさない訳はありません。最近「甘南の開拓団」という、北村山郡出
身者の追想記録を再読しました。その中に私の家族が所属していた開拓団につい
ての日記が約一年分ありました。記入されていた分だけで、殺された人16人(ロ
シア軍や国民党軍によるものがほとんど)、自殺者6人、病死17人、暴行を受
けた女性数名(この数字だけぼかしてありました)です。病死の中に私の末弟の
名前が入っていませんので、情報漏れを含めるともっとあったでしょう。また逆
に日本人が中国人を殺したのが20数名数えられました。戦争とは民間人を犠牲
にした政治であることを私は小学一年生で教えられました。
 旧満州での犠牲者は直接の戦争被害ではなく、間接的な「戦後被害」色が濃い
のが特徴です。私達は、戦後ほぼ一年間日本の政府と軍部に見捨てられた棄民で
した。帰国の途も、八路軍による協力以外は自力でたどらざるを得なかったとい
うように覚えています。

 帰国者の中には、どうやって生きのびてきたか、体験の全てを語ることが出来
ない人が沢山います。子供を売ってきた人、女性が食を入手するためにとった手
段、腹を空かせての窃盗、そんなことは不思議でもなくあたりまえにあったこと
です。しかし帰国後、通常の生活が営まれている中で、そんな話をして受け入れ
られるのか躊躇してしまいます。実際に体験したことの半分も言えないまま亡く
なった人が大部分でしょう。現存している人は当時幼少で、語れる体験を持って
いる人も少なくなりました。だから語れる話は貴重だと思っています。今初めて
の話を言えば、私は帰国の船中、同年齢の子供どうしで毎日乾パンを盗んで飢え
をしのいできました。盗めるものがあったのは幸せなのです。それまではもっと
惨めだったとだけ言うことが出来ます。

 私の家内も一日で十数万人が死んだと言われる20年3月10日の東京大空
襲の被害者です。炎の中を彷徨っているときに受けた火傷のあとが今も首筋に残
っています。翌朝道路端や川の中に見た累々たる焼死体は忘れられないと言いま
す。私は今深川地区に住んでいますが、ほぼ町内ごとに死者の魂を祀った祠があ
り、今も献花が続いています。
 私達夫婦はどこにでもいるありふれた夫婦ですが、戦争体験を共有しているた
め「どんな戦争」にも「絶対的に反対」です。そして戦争への導入に繋がること
にも絶対反対です。改憲は戦争への導入口になると思っています。改憲を進めて
いる政治家みんなが戦争が好きだと決め付けるつもりはありません。しかし一旦
出来上がった条文は一人歩きをはじめます。たとえ相手から攻撃されたための交
戦であっても、あっという間に拡がる戦争の犠牲者は兵士ではなく一般人になる
のです。改憲のどんな理由や理屈も戦争被害を無くすことも小さくすることもし
てはくれません。
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2.原点の二つ目 ―安保闘争―
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 私は19歳ごろから学生運動に関わりました。2年で東京遊学をやめ故郷で家
業(自転車商)を継ぐつもりでしたが、深みにはまって帰郷出来なくなりました。
原点一が胎内に宿っていたことが原因になったとも言いえます。学生運動のクラ
イマックスは60年の安保闘争といわれるものです。ストライキを指導したとし
て大学は除籍になり、また羽田空港の「岸渡米阻止デモ」で逮捕され起訴されま
した。
 60年安保も私のその後の人生に影響を与えました。就職が出来なくて社会党
に拾われましたが、そこでも考え方の違いがあって追放され、結局自力で何かを
やるしかなく、地域の住民運動の中で生協をつくって今日に至りました。私の人
生を決定してもらった岸元首相に感謝しつつ、その人生の最後の段階で、岸の孫
である安倍首相の改憲と戦わざるを得なくなったのは宿命めいたものを感じま
すが、面白いものです。
 学生運動や社会党時代に、私がたとえささやかでも信念を通すことが出来た過
程では家族や友人、運動の仲間など沢山の方々に迷惑をかけています。その私が
またもや何かをやらかすのかとの心配もあるでしょうが、悲壮な覚悟ではなく
淡々と、そして今度はあまり迷惑をかけないようにしてやるつもりでいます。

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3、原点の三つ目-―生協運動―
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 私の経歴で一番長いのは生協歴です。71年から2000年まで29年間です。
会社にたとえれば私が創業者ですが、それなりの報酬を得たのは80年を過ぎて
からです。ですから現在1600億円の事業を行っている生協のトップを勤めた
にしては年金も儚いものです。しかし金には代えられない貴重な経験をしました。
生協は相互扶助または協同という理念に基づく組織で、かつ運動を大事にした事
業体です。競争社会の中で理念に忠実に従い、組合員の運動をつくりながら事業
を行うのは結構大変です。
 私がつくった生協は17ほどの生協が集まって一都六県で連合会をつくり、9
0年から首都圏コープ事業連合と名乗り、現在は「パルシステム生活協同組合連
合会」と名称を変えました(ホームページがありますから一度覗いてみてくださ
い)。この生協の特徴は「組合員の暮らしを守り、日本の農業を守り、産直を拡
げる」というものです。何の変哲も無い主張のように見えますが、実際に真面目
に運動を進めれば、食の安全基準では厚生省(現厚労省)に逆らい、農薬基準で
は農水省に逆らってきました。またあるときは、合成洗剤の製造中止を求め、組
合員から集めた洗剤トラック一台分をメーカーの上部団体がある銀座にぶちま
けてくる、など過激なこともやりました。憲法に謳う安全で豊かな生活を求める
ことだけでも権力や経済機構との戦いが必要でした。
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4、私の憲法論 ―貰いっこは可愛い―
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 私は学者ではないのであまり理論的でないのはご承知ください。
 論点になっている一つは、「アメリカから与えられた憲法だからダメ」という
ものです。 これに対する私の見解は二点です。
 (1)「与えられた」という改憲派の主張を聞くと、いかにもGHQ(占領軍)が
無理やり押し込んだように聞こえますが、事実は違います。日本の憲法学者鈴木
安蔵ほか数名が大変努力をして草案をつくりました。女性の権利などその頃の日
本人の弱い部分を若い米人女性が起草したことは有名ですが、決して嫌々ながら
与えられたものではありません。
 (2)それでもアメリカ側の押し付けと言うのなら、私はそれでも良かったといい
ます。憲法を貰ったとすれば、それは貰いっ子と同じです。子供なら育てている
うちに愛情がわき可愛くなるのが普通です。憲法も60年以上日本に根付き、可
愛がられ、今や立派な日本人です。性格穏やかで、しかも稀に見る平和主義者で
す。養子だから良くないという発想は、差別意識以外の何ものでもありません。
そういえば安倍首相は格差社会が大好きでした。

 論点の二つ目は「国際貢献が出来ない」というものです。
 湾岸戦争のときは多額の金を出しながら、血を流さなかったため他国から蔑視
されたという論理が展開されました。その教訓からという理屈で法律を変え、イ
ラク戦争では後方支援なるものを行ってきています。
 血を流さなかったことを誇りに思えない思想を持ち、あるいはそういう人間が
いるということこそ私は恥ずかしく思います。戦争を決める人、あるいは上で指
揮する人は絶対戦場には行きません。五体が千切れ、幼児が焼け、女性が犯され
ている現場を見ることはありません。日本の防衛族のドンが、戦争グッズのマニ
アであることをテレビで知りました。昔は戦争を指揮する作戦室には戦車や軍艦、
戦闘機などのグッズがありました。兵士の部隊は駒でした。それを動かしながら
作戦を立て指揮しました。血を流す人間は作戦室からは見えません。今はコンピ
ューターのキーを動かしながら指揮します。原理は変わりません。政治家や上級
の司令官から見れば血を流すのはバーチャルの世界の話です。ですから「血を流
す貢献」のほうが金を出す貢献より有意義だと平気で言えるのです。
 こういう考えを認めるかどうかです。私は全く違います。
 残念なのは最近の若者の中にも血を流すほうが良いと思うのがいることです。
彼らにとっても戦争はリアルではなくバーチャルなのです。そういう流れが安部
路線を支えています。改憲の動きは流れの延長線上にあります。9条改憲に反対
することは、国の流れを変える運動でもあります。
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5、私の運動の進め方-―自爆テロ?も―
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 私が運動をやろうとする決心は固いのですが年も年です。体はだんだん言うこ
とをきかなくなりました。脳の衰えもひどいものです。言うのは易しいが行うの
は困難です。ですから「気長に楽しく」やるつもりです。政治の動きを軽視はし
ませんが、一つ一つの動きを気にして腰を上げるのは大変です。それに改憲の手
続きは最終的に国民投票で決まります。最低5年以上かかるでしょう。ですから
最後に国民多数派になることを目指し、沢山の人々と連帯できるようにすること
が肝要です。昔は食うや食わずに、時間さえあればビラ印刷、その配布、ストラ
イキ準備、デモ、会議、と暇なしに動いていました。そんなことはもう無理です。
これからはよく寝、うまいものを食べ、酒を飲み、ゴルフの時間もとり、その合
間にあちこち働きかけ、たまには集会やデモもやり、そして最後には勝つという
高等戦術で戦って生きたいと考えています。
 私の人生の最長時間は生協にありましたから、そして生協の全国組合員は約1
500万人と言われますから(私の生協だけでも80万人はいます)、なんと言
っても生協の中で9条改憲反対の声をつくっていくことに力を注ぐことになり
ます。

 もうひとつは青春の一時期を、大げさに言えば生死を共にしたかつての仲間と、
もう一度老骨に鞭を打って最後の花道を飾ることです。こちらのほうは昨年から
もぞもぞよろよろと動いており、今年は3月20日から、国会議員に発破をかけ
るためハンガーストライキをやることにしました。とはいえ命を懸けるほどの情
勢ではないので、ドクターを必要としない範囲でやろうと、一日24時間のリ
レーハンストを決めています。たとえ一日でも断食して飲み疲れの体を休めると
言う一石二鳥の健康戦術です。皆さんにも是非参加してもらいたいものです。
 もっとも数年後改憲情勢が緊迫してきたら話は変わります、「老人自爆テロ」
をやろうと策を練っています。一つは「無期限ハンスト」戦術です。決死隊を募
り、ドクターストップまでやろうというものです。これに私が参加する予定はあ
りませんが、目下命を投げ出してもよいと言う人の調達にかかっています。誰か
いないでしょうか。  

 もう一つは「国会を姥捨て山に」戦術です。これはもしかしたら私の出番にな
ります。
 私は95年に、300人ほど集まった生協関係者の集会で、1年後にはトップ
を降り交代することを宣言しました。このとき引退後の人生設計として、いずれ
また政治運動(改憲への反対運動を想定していました)に復活することを告げ、
その運動の最高潮の頃、私が「よいよい」や「垂れ流し」になっていたら、その
身を国会正門前に捨ててもらう、と申しました。なぜかうけて全員爆笑でしたが、
その後の飲み会で沢山の方々から賛同と応援の約束をもらいました。勿論飲みな
がらの半分冗談の話でしたが、本音も半分はあったと思います。私は約束を守り、
賛同した方々にも応援の約束を果たしていただこうと思っています。
 そんな工夫をしつつ「楽しみながら9条を守り抜く」運動を、何年間か続ける
予定です。勿論いやになれば途中下車もありです。しかし多分続けるでしょう。
               (筆者は元パルシステム生協連合会理事長)
1938.2.25 山形県村山市に生る
1941~46 旧満州開拓団入植のため渡満
1954 山形工業高校機械科卒
1957    早稲田大学第二文学部入学・自治会書記長、委員長
1960    全日本学生自治会連合会(全学連)中央執行委員
1961~70  社会党東京都本部書記
1971 たつみ生協設立・理事長
1977 首都圏生協事業連絡会議設立・代表
1990 首都圏コープ事業連合(現パルシステム生活協同組合
     連合会)設立・理事長
1996~00 顧問
2001 「コラボレート研究所」設立・代表
2006 個人事務所「コラボレート研究所」に移行運営
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