【社会運動】

護憲派による「新九条」論争~憲法は魔法の杖ではない

伊藤 真
(構成:室田元美)

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 伊藤真さんは、憲法九条は理想論ではないと明言する。
 世界や日本社会の現実を冷静に見れば、九条の理念を追求することにこそ
 リアリティがある。そのことを、様々な改憲論が持つ矛盾や、
 九条を国民投票にかけることの根本的な問題を指摘しながら説明する。
 憲法に書けば実態が変わるというのは憲法に期待しすぎなのであって、
 実態を変えるのは国民の意思だ。なぜなら国民主権だからだ、
 と言う伊藤さんはさらに問いを重ねる。
 だからこそ国家の名の下で、すなわち国民の名で人を殺す国になるのですか、
 と。
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◆◆ 自衛隊は戦力であり違憲である

――九条を変更しないまま解釈改憲が重ねられ、集団的自衛権の行使容認が閣議決定され、安保法制によって自衛隊に「駆け付け警護」という新たな任務が与えられました。伊藤さんの2014年出版の著書で『やっぱり九条が戦争を止めていた』(毎日新聞社)がありますが、現在もその認識は変わりませんか。

 まず、よく使われている「解釈改憲」という言葉が、私はごまかしだと思うのです。改憲とは憲法の「条文を変える」ことですから、解釈改憲という概念自体が存在し得ないのです。違憲の事実が積み重なっているだけの事態を称して、あたかも改憲がなされたかのごとく言い繕い、国民をごまかすための言葉が「解釈改憲」です。この言葉を使うこと自体、実は改憲を進める人びとの土俵に乗ってしまっているのです。
 憲法学の世界では、事実が積み重なったことによって憲法規範自体も変わることを「憲法の変遷」と言います。憲法の明文は変わらないが意味が書き換えられて、昔は違憲だったものが合憲になった。つまり、違憲の事実が積み重なったことによって、憲法の中身自体が変わったと解釈することを「憲法の変遷」と呼びますが、圧倒的多数の憲法学者はこれを認めません。「事実が変わっただけで、規範は変わっていない」と考えるからです。

 集団的自衛権の行使が可能になり、戦闘地域における弾薬の提供などの後方支援まで認められるようになってしまった。また、南スーダンに派遣されている自衛隊に「駆け付け警護」という任務まで付与されることになってしまった。今までぎりぎりのところで守っていたものが取り払われて、さらに前に進むことになってしまったわけです。これらはすべて違憲です。解釈改憲などと言って許されることではありません。
 私は、自衛隊は「戦力」であり違憲だと考えています。交戦権が認められていませんから、法的には「軍隊」ではありませんが、他国からの侵害に対して武力を行使する組織であり、そのための実質的な装備を持っているからです。武力行使につながるPKO派遣も憲法に違反する行為です。
 ただし国内外の災害救助活動や、非軍事的な国際貢献をする組織として限定するなら、合憲だと考えます。
 そもそも憲法九条2項は、戦力である自衛隊の存在を認めていません。ですから、憲法は武力によらない自衛権を認めているだけであり、集団的自衛権はもちろん、「日本が武力攻撃を受けた時に武力行使で反撃をする」という、個別的自衛権の行使もまた違憲と考えます。

◆◆ 憲法九条は今この時も機能し、歯止めをかけている

 九条が戦争を止めていたし、今この時点でも明らかに歯止めになっています。もし九条がなかったなら、朝鮮戦争、ベトナム戦争、2001年のアフガニスタン戦争、2003年のイラク戦争にも、日本は当然参戦していたでしょうし、IS(いわゆる「イスラム国」)とも戦っているでしょう。国内には海外の戦争に参加したくて改憲しようとしている政治勢力がいるわけですから。それを今日まで九条が止めてきたのは明らかです。ですから「九条が死んだ」という意見は、私には全く理解できません。多分、自衛権行使、すなわち国防の問題と米国の戦争に参加することの区別がついていないのでしょう。後者においては明らかに現在も九条は機能しています。
 もし「九条が死んでいる」のであれば、「限定的集団的自衛権」などと政府が弁解する必要もありません。集団的自衛権を無制限に、自由に行使できるわけですから。「九条が死んでいる」のであれば、交戦権も認められるのですから、多国籍軍に堂々と参加できますし、もちろんPKO参加5原則も不要です。安保法制はできたけれど、いまだに「後方支援」の内容は弾薬の提供、発着準備中の飛行機の給油に限定されています。それ自体とんでもないことなのですが、こうした限定は九条が存在し、機能しているからに他なりません。九条は死んでなどいません。

◆◆ 九条の条文で国会の3分の2の意見がまとまるとは思えない

――しかし現実にはいわゆる、改憲勢力が国会の3分の2議席を占めてしまい、いつ憲法改正が発議されるか分かりません。国民投票において、いわゆる護憲派、戦争反対の陣営が「九条2項を守ろう」という主張だけで勝てるのでしょうか。

 2016年7月の参院選の翌日から、「改憲勢力が3分の2を超えた」とメディアでもずいぶん報道されましたが、それだけでは何の意味もないと思います。もし「改憲勢力とは何か」と定義するなら、私自身も含まれるかもしれません。「今の憲法のここを変えた方がよりよくなるのでは」という点は幾つかありますから。
 つまり「憲法改正」というのは、抽象的な議論をすることではありません。具体的に「この条文をこう変える、そのことに賛成ですか、反対ですか」と、発議するわけです。公明党が改憲勢力に含まれていますけれど、九条2項を削除して国防軍を創設することには消極的だと思います。最後の最後にひっくり返るかもしれませんが。
 少なくとも「九条の条文をこう変えたい」という具体的提案をめぐって、3分の2の議員がそう簡単にまとまるとは思えません。もし、まとまるとしたら、むしろ「緊急事態条項」が対象になるのではないでしょうか。

◆◆ 自衛隊の存在を認める条文が提案されると、危うい

――安倍首相の総裁任期が3年延長されました。この先も違憲状態がどんどん積み重なり、例えば南スーダンで何か事件が起きる。それによって一気に3分の2がまとまり具体的な案で国会が発議するという可能性がないと言い切れるでしょうか。

 大義のない南スーダンではそれはないでしょう。しかし、どんな可能性も常に視野にいれて、それに備えて理論武装していかなくてはなりません。改憲派から九条改憲の必要性についてどのような論拠が出されるかは不明ですが、現在の政府解釈によれば、個別的自衛権の行使として必要ならば小型の核爆弾まで保有できるのです。日本を守るために必要であれば現状でなんでもできます。日本を守るための改憲は不要です。あとは他国防衛のためのフルスペックの集団的自衛権の行使を無制限に認めるための改憲ですが、そんな必要がどこにあるのでしょうか。
 仮にそれを認める自民党の改憲案に沿ったものが出てきた時には、しっかり考えて、バツをつければいいのです。少なくとも自民党案には反対できるんじゃないでしょうか。

 問題なのは、九条1項と2項をそのままにして、九条3項で「自衛隊の存在を認める」といった改憲です。2項で「交戦権は認めない、戦力は認めない」と言っておきながら、「自衛隊の存在を認める」ことだけを加筆する案が出てきた時は結構危うい。「自衛隊は認めてあげようよ。主に災害救助隊だとか、軍事力じゃない国際貢献的なものならばいいじゃないか」と言う人たちが多いからです。そこまでの活動に限定されるのであればよいのですが、改憲後に、「日本が攻められたらどうする」といった知性や理性ではない感情の世界が巻き起こり、ナチスドイツの時のように国民をあおって不安にさせる中で、先制攻撃や自衛の名目での海外での武力行使がずるずると認められていくようであれば、これは怖いことです。そもそも、2項の交戦権の否認と矛盾する、武力行使を認める自衛隊の存在を3項で認めること自体が論理矛盾です。感情論のみで理屈にならない九条の改憲が進むと危ういです。

◆◆ 憲法の条文を変えても、違憲の実態は変わらない

 これから考えるべきことは、「なぜ違憲なのか」「違憲の実態によって自分たちの生活がどう変わるのか」という点です。今ですら違憲の状態が積み重なっているわけですから、それをさらに進めて、自民党の言うように自衛の名目で戦争ができるようになると、その先に待っている「日本の社会がどのようになってしまうのか」を国民、市民がきちんと想像できるようにすることが必要なのです。憲法の条文をいじくったところで戦争の歯止めにはなりません。
 言い換えれば、憲法は魔法の杖でもなんでもないのに、「憲法の条文を変えれば違憲の実態が止まる」といった思考は、憲法や九条の文言に過大な期待をかけすぎです。例えば自衛隊は今、南スーダンに行っていますが、憲法を変えたからといって南スーダンから戻って来ますか。憲法を変えたから帰るなんてことはあり得ない。そんなことができるなら、憲法を変えるのでなく、今すぐに戻せばいい。憲法を変えても実態は何も変わらない。現状を追認するだけであって、むしろそこからさらに悪い方向に行くだけです。憲法の条文を変えることは、「違憲状態はもやもやしていて気持ち悪いから、すっきりさせましょう」という気分の問題だけであって、実態は何も変わりません。

 実態を変えるのは憲法の条文ではなく、国民の意思です。国民が変わらない限り、実態は何も変わらない。政府に誘導されてどんどん前に行ってしまう。そういう危険性、怖さがあることに気づくべきです。
 例えば、国民の多くは原発に反対しているけれども、いつの間にか再稼働が認められていく。それは結局、国民が認めているからです。「嫌だな」と思っても、「まあ仕方ないんじゃない」と国民が許してしまっているからです。自衛隊の存在を、災害救助隊や国際貢献を非暴力で行う組織として国民が認める限りで合憲、と私は言っています。しかし自衛隊が海外に出かけて行って、武力行使をして、本当に戦争をする部隊になることを国民が認めるなら、それは仕方がないです。国民主権ですから。

 私にとって憲法はそんなすごいものではないのです。「みなさん憲法を過大評価しすぎていませんか」と思います。よく九条ばかりが「実態と乖離している」と言われますが、私にとっては1票の不平等の方がよほど重要な問題です。主権者国民の多数意思が反映しない違憲状態が、憲法が制定されて以来ずっと続いています。
 憲法二五条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する」と書いてありますが、実態は全くそうではない。また一三条で「すべて国民は、個人として尊重される」と書かれ、一四条には「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と書いてあるのに、個人は尊重されず、差別などまだまだたくさんあります。このように違憲の状態なんて世の中に山ほどあるのです。
 こうした違憲の状態を一つずつなくす努力を市民が意識的にしていくことが重要なのであって、憲法の条文や文言をいじくることで問題が解決すると考えること自体、憲法をあまりに過大評価しすぎているのです。
 国民・市民がもっと憲法を学び、力をつけ、政治家に対して「憲法に書いてある通りに仕事しろ」と言えるようになることの方がよほど重要です。

◆◆ 「新九条」論は、現状の追認にしかならない

――例えば、あえて個別的自衛権と自衛隊の存在を憲法に明記することを提案している「新九条」論を、どのように評価されますか。

 今の南スーダンの状況を見ていると、「本当に九条はどこまで役に立っているんだ」と心配されていることは、私もよく分かります。ただ、伊勢﨑賢治さん(東京外国語大学教授、平和構築専門)の『新国防論』(毎日新聞出版、2015)の、「国際紛争解決の手段としての武力行使は放棄するが、日本の施政下の個別的自衛権行使のみを認め、自衛戦力を保持する」という主張には私は反対です。
 この「新九条」論に従えば、自衛隊が海外で武力行使をするために出かけていくことはできなくなります。派遣されている部隊はすぐさま国内に戻さなくてはならないはずですが、今の憲法下ですら撤退しない人たちが、「新九条」に改憲されたからといって自衛隊を撤退させるとはとても思えません。武力行使に行っているのではないと強弁し続けて、現状を追認するだけです。自衛のための交戦権を認めることになるので、かえってデメリットの方が大きい。国防のためとはいえ戦争をする国になるわけですから、そのための軍需産業を栄えさせなければいけません。せっせと武器を作り輸出していくことでしょう。戦争をする以上は当然、徴兵制も認められる。アメリカと同じような「普通の国」になる第一歩、と思えばいいでしょう。

 結局どんなに憲法の条文で戦争を限定しても、解釈の余地は必ず残るのです。その時々の権力者が幾らでも都合のいいように解釈をしてしまう。その文言=解釈にどういう意味を込めるかは、政権ではなく国民の意思です。「新九条」論は国民の意思として「何をさせたい」、「何をしたい」のかしっかりと議論するきっかけにはなるかもしれません。しかし「新九条」論であっても、戦争する普通の国になった場合のダメージ、リスクの方がよほど大きいだろうと思います。ましてや、井上達夫さん(東京大学教授、法哲学)の九条削除論などは、あまりにも歴史的経緯や現実を無視しており賛成できません。「九条を削除して戦争するか否かをその都度国民の多数意思で決めればいい」というのですから、日本国憲法の立憲主義を根底から否定するものです。自分たちが被害を受けず様々な利権を得られるようなら、他国での戦争に賛成してしまう恐れがどこの国の国民にもあります。それを日本国憲法は許さないために九条を規定したのです。間違いに気づいた後に取り返すことができない人の命がかかっている問題だからです。間違いを犯しかねない民主主義自体をも縛る、この九条の存在意義を忘れてはなりません。

◆◆ 日本の国益には「武力によらない国防」の方が現実的

――それでも「新九条」論は、自衛隊が派遣されている南スーダンの状況や中国の海洋進出など国際情勢への対応として現実論のようにも思えます。伊藤さんのお考えは「理想主義」と捉えられないでしょうか。

 何度も言うようですが、「新九条」論のように改憲したところで、現状は変わりません。現在の政府解釈で個別的自衛権は認められているのですから、それを明文化したところで、日本の対中国の国防面でできることの実態は何も変わりません。南スーダン問題も同様です。正規の軍隊を認めた上で武力行使を明文で限定すればよいという点に関して言えば、多分、見ている世界が違うのでしょう。私は自分が言っていることほど現実的な話はないと思っています。海外で武力行使しないと規定したとして、今の政府がそれを守るという現実をとても想像できません。憲法に書いた通り安倍政権がそれを守ってくれると期待する方が、私にはよほど理想主義に思えます。

 個別的自衛権についても現実的に考える必要があります。例えば、北朝鮮が日本を直接攻撃する危険性がどれだけあるでしょうか。もし、それを本気で考えたら、日本海側にあれほど多数の原発を放置しておくはずはありません。つまり政治家は本心では危機と感じていないのです。そもそも北朝鮮は、今、世界最大の抑止力をもっているアメリカに楯ついて核武装をしようとしているわけです。日本の軍事力という抑止力を高めたところで、何の効果があるでしょう。あるいは中国が日本本土を本気で攻撃するでしょうか。今ではお互いが最大の貿易相手国です。インターネットで情報が行き交い、経済がこれだけ緊密になっている中で、日本と中国が戦争をすることが両者の国益にかなうと現実的に考えている人が何人いるでしょうか。
 「日本が攻められたらどうする」と抽象的に言うことは幾らでもできます。「現実的」に考えた場合、どれほどの蓋然性があるのでしょうか。日本が軍事力をどんどん増やしていくことが、本当に日本の平和につながるのでしょうか。具体的に考えれば考えるほど現実味に欠けます。

 軍隊を持てば使いたくなります。それが現実です。危ないおもちゃは持たない方がいいのです。もちろん今すぐ自衛隊をなくすことは非現実的です。ですが、世界が「分断と対立の時代」に入った今こそ、「抑止力を高めることが日本の国民の命を守る、生活を守ることにつながる」という古い発想に頼り続けることが、どれほど非現実的で危険なのかを理解してもらう努力をしないといけないと思います。
 「武力によらない国防は理想論だ」と単純な論理で主張する人もいますが、何を目指すべきなのかのゴールを意識することは重要です。実は非武装の方が日本の国情に合っているし、国益にもかなう。「武力によらない自衛権」すなわち、武力行使以外の自衛の活動はもちろん可能です。自衛隊は「国境警備隊」や「災害救助隊」に改組していく。軍事力への依存を減らしていく代わりに外交、政治、経済、文化、教育、何よりも理念の力を国防力としてつけていく。そうしながら相対的に軍事への依存を小さくする努力をしていくことを、憲法九条は私たちに課しているのだと思います。

◆◆ 軍隊を持つとは、人権が適応されない領域を作ること

 地政学的に見て、海に囲まれた狭い小さな国土で少子高齢化していく日本にとって、軍事力に頼っていくことがどれだけ現実的な安全保障戦略なのでしょうか。「アメリカに守ってもらえばいいじゃないか」となったら、今後はアメリカの下請けの軍隊として世界で活動することになります。日本にはその要請を拒否するだけの力量はとてもないと思います。伊勢﨑さんは「新九条」論で「世界の警察官として働くことはしない」とお考えなんだろうと思います。その点は一致します。ただ、軍隊を持ってしまった場合に、アメリカの要請を拒否できるかどうかの評価が分かれるのでしょう。私は、これまで一度もアメリカの戦争に反対してこなかった日本には拒否などできないと考える方が現実的だと思います。

 また、「個別的自衛権を行使する軍隊を持つか否か」、この点の評価も大きく違います。軍事組織を持つことは軍法会議を持つことになり、人権が全く適応されない領域を作ることになります。もっと言えば、本格的に人を殺すことを毎日訓練する組織を持つことになるわけです。もちろん徴兵制も可能になります。
 そういう組織を抱える様々な負担に国民が耐えられるだろうか。日本の社会で軍人が町を歩き回るようなことも含めて現実をきちんとイメージすることが重要です。一般的には、非暴力による国防は理想論で、軍隊を持って守るのが現実だと言われますが、暴力や軍隊に耐えられる国民性が私たちにあるのか、という現実も含めて、どちらが本当に現実的なのかを議論すべきです。

――哲学者の鶴見俊輔さんは朝日新聞のインタビューで、「憲法改正に関する国民投票を恐れてはいけない」という趣旨の発言をしました(1998年2月4日付夕刊)。「護憲派の人びとが憲法議論を避けてきたことが、護憲運動の限界につながるだけでなく、国民が憲法について学ぶ機会も奪ったのではないか」ということだと思います。伊藤さんのご意見をお聞かせください。

 確かに左翼勢力、左派政党が、自分たちの主義主張の道具として、九条や憲法を利用してきたような気もします。社会党も共産党も「立憲主義」や「個人の尊重」とは言ってきませんでした。立憲主義や個人の尊重を主張せずに護憲は語れないはずなのにです。
 日本の政治家は、これまで保守であろうが革新政党であろうが憲法価値の本質を理解して国民に浸透させようという努力を一切してきていません。いわゆる護憲派の人たちも、ここ数年でやっと憲法は国を縛るものだ、法律とは違うと言うようになった。立憲主義という言葉も、安倍政権や自民党がいろいろ無茶なことをやり始めてやっと自覚し始めたという状況です。それまで憲法教育、憲法学習がこの国においては皆無だったのです。
 「もっと憲法を学ばないと、国民投票で問題提起されたら大変なことになるぞ」という意味で鶴見さんの発言は、一つのショック療法としては面白いと思います。でも逆に言えば、あまりにも副作用が大きすぎるショック療法です。特に、現在の国民投票法の欠陥を踏まえると極めて危険です。最低投票率の定めもなく、投票日15日以前はテレビコマーシャルもやりたい放題、運動資金の制限もなく、資金力の多寡による不公平が生じます。こんな制度の下で国民投票をすることは許されません。
 憲法改正の国民投票は、公平性が担保された手続の下で、本当に必要性があって行うべきことです。

◆◆ 国民投票で負けたら、九条はもう戻ってこない

――鶴見さんは、「国民投票の結果、6対4で負けても4割は力になる」と言っていました。改憲に対して国民投票を準備している今井一さん(ジャーナリスト)も同様の考えだと思いますが、いかがお考えですか。

 今井さんは、単なる国政に関する国民投票と憲法改正の国民投票の違いをあまり意識されていないのではないかと思います。
 単なる国民投票は、もしその結果が違憲ならば裁判所で争うことができます。しかし、改憲の国民投票は負けたら終わりです。再度、国民投票をするしかありません。しかし、九条が改憲されて戦争する国になった場合、もう元へは戻れない。イギリスのEU離脱のような普通の国民投票は、やってみて離脱はまずかったなと国民の多くが思えば、元に戻れるわけです。まだ復元の可能性はある。ところが九条に関しては、日本という大国がいったん軍隊を持った後にそれをなくすことができると考える方が非現実的です。まず社会が軍需産業に牛耳られるようになる。原発もそうですが、あれだけの事故が起こってもやめられない国民性です。第三次世界大戦が起きてひどい目にあわない限り、まず戻れない。
 復元可能性があるテーマの国民投票と、いったん改憲という橋を渡った以上、戦争をしない限り戻ってこられないような問題とは質が違うのです。そういう意味で、九条での国民投票は「負ける危険があるから国民投票自体に反対」という主張には理があると思います。

◆◆ 対立軸は、100年先まで、戦争しない国を目指すのか否か

――伊藤さんは、「憲法改正に賛成か反対かという論点はテーマではない。国民投票に向けてはその対立軸をはっきりと示すべきだ」と発言していました。伊藤さんの考える、「九条における対立軸」とはどういうものですか。

 九条における私の主張は、「違憲状態をなくし、戦力を持たない本来の九条2項の実現を目指す」ということです。ひと言で言えば対立軸は「戦争をする国か、しない国か」です。「軍隊の存在を正面から認めて戦争ができる国にするのか」、それとも「一切戦争はしない国を貫くのか」、そこが対立軸です。
 もっと言えば、「自衛のためと称する交戦権の行使を認めて、日々人殺しを訓練する組織を日本が抱えるのか。いざという時には国防の大義の下に、人を殺すことを真正面から正当化する、そういう国になりたいのか、なりたくないのか」というのが対立軸です。私は日本を、国家の名の下で、すなわち私たち国民の名で人を殺す国にはしたくない。その方向を目指して努力を続けるべきだと考えています。その努力を放棄して普通に人を殺す国になるんですか、と問いたい。
 この国が50年後、100年後、どっちに向かっていくのかが対立軸なのです。

<参考図書>
『やっぱり九条が戦争を止めていた』 伊藤 真/著 毎日新聞社(2014年)
『増補版 赤ペンチェック 自民党憲法改正草案』伊藤 真/著 大月書店(2016年)

<プロフィール>
伊藤 真 Makoto ITO
伊藤塾塾長・弁護士
1995年に「伊藤真の司法試験塾」(その後「伊藤塾」に改称)を開設。安倍政権の集団的自衛権行使容認への憲法解釈の変更に反対する「国民安保法制懇」委員。「一人一票実現国民会議」の発起人。「安保法制違憲訴訟の会」共同代表。主著に『赤ペンチェック自民党憲法改正草案増補版』(大月書店/2016)など多数。

※この記事は『社会運動』編集部の許諾を得て「季刊『社会運動』425号」から転載したものですが文責はオルタ編集部にあります。


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