【コラム】
風と土のカルテ(37)

患者を「監視」していないか?

色平 哲郎

 日々、病院で働いていると、患者さんのプライバシーへの配慮がおろそかになっていないだろうかと自問することがある。忙しさのあまり、プライバシーを二の次にして患者を「監視」してはいないか、と。生命にかかわるような急性期疾患で頻繁な観察が必要な場合はともかく、そうした状態ではない入院患者さんにとって、プライバシーは実に重大なファクターだと思う。

 「パノプティコン」という言葉をご存じだろうか。日本語では「一望監視」ともいう。
 18世紀英国の社会改革家、ジェレミー・ベンサムが考案した刑務所のデザインだ。

 少ない運営者が大勢の収容者を監督するために、監視塔を中央に置き、その周りをぐるりと囲むように収容者たちの個室を配する。看守からは個々の収容者の様子が一望に見渡せる一方、収容者からは看守が見えない。極めて功利主義的に構想されたデザインである。

 たとえ監視塔に看守が不在であっても、収容者には「看守の不在」がわからない。収容者全員が、各自の独房で背筋を正して一方向に行儀よく座り、監視塔を仰ぎ見続けるという様子を想像すると、ちょっと怖い。

 当初、刑務所の一様式だったパノプティコンは、20世紀のフランスの哲学者、ミシェル・フーコーによって近代制度のモデルとして再認識された。フーコーは、刑務所だけでなく、軍隊や学校、工場、そして病院にもパノプティコンの自動化された監視が組み込まれ、患者は監視を受け入れるように教育される、と看破した。患者は、健康を取り戻す代償として監視を受け入れざるを得ないのだ。

 現代の病院は、外形的にはパノプティコンのような建物は皆無だが、ITの発達で、より効率的に監視ができているともいえる。また、街角のいたるところに監視カメラが設置され、権力機関はネット空間でも監視の目を光らせる。個人情報も取ろうと思えば、簡単にとれる。

●スノーデンの言葉に考えさせられる

 権力側は、しばしば「やましいところがなければ、監視されるのを嫌がらなくてもいいだろう」と言う。だが、そこが問題なのだ。人のプライバシーは、それほど軽いものではない。米国国家安全保障局(NSA)の元局員で、NSAによる個人情報収集の手口を告発したエドワード・ジョセフ・スノーデンは、インタビューにこう答えている。

 「政府はよく監視について『隠すことがないなら恐れることはないだろう』と人々に向かって言います。このフレーズはナチスのプロパガンダから来ています。けれどプライバシーはなにかを隠すためにあるのではありません。プライバシーはなにかを守るためにある。それは個です。プライバシーは個人が自分の考えをつくりだすために必要なのです。人は自分の信じるところを決定して表現するまでに、他人の偏見や決めつけを逃れて、自分自身のために考える自由が必要です。多くの人がまだそのことに気づいていませんが、だからプライバシーは個人の権利の源なのです」
  (小笠原みどり『スノーデン、監視社会の恐怖を語る 独占インタビュー全記録』173ページ、毎日新聞出版、2016)。

 監視それ自体と監視される側の行動の善し悪しとは全く関係ない、とスノーデンは指摘し、同書でこう述べている。「この問題はそうではなくて、市民社会と最も特権と影響力を持つ役人たちとの間の力のバランスの問題なのです。プライバシーがなくても構わないと主張する人は、表現の自由なんかなくても構わないと主張しているのと同じです。自分には言うことがなにもないから、と」。

 病院で働きながら、ふと感じるプライバシーへの懸念の根本を言い当てられたようだ。

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●スノーデンの言葉:

 「言論の自由や信教の自由といった権利は、歴史的に少数者のものです。
 もし多数派として現状に甘んじているならば権力との摩擦は生じず、法による保護を必要とすることもない。
 基本的人権とは少数者が政府から身を守るための盾であり、これがなければ社会に存在する既存の力に対抗することはできません。
 そして少数派が現状に抵抗できず、社会から多様な考え方が失われて、人々が物事を客観的に見られなくなれば、将来のためのよりよい政治的選択肢を失うことになります。
 監視はどんな時代でも最終的に、権力に抗する声を押しつぶすために使われていきます。
 そして反対の声を押しつぶすとき、僕たちは進歩をやめ、未来への扉を閉じるのです」
  (156ページ)

 「政府はよく監視について『隠すことがないなら恐れることはないだろう』と人々に向かって言います。
 このフレーズはナチスのプロパガンダから来ています。
 けれどプライバシーはなにかを隠すためにあるのではありません。
 プライバシーはなにかを守るためにある。
 それは個です。
 プライバシーは個人が自分の考えをつくりだすために必要なのです。
 人は自分の信じるところを決定して表現するまでに、他人の偏見や決めつけを逃れて、自分自身のために考える自由が必要です。
 多くの人がまだそのことに気づいていませんが、だからプライバシーは個人の権利の源なのです。
 プライバシーがなければ表現の自由は意味をなさない。
 プライバシーがなければ、言いたいことを言い、あるがままの自分ではいられない。
 プライバシーがなければ自分を個人とは主張できない。
 それは全人格を集団に吸収されることです。
 どこかで読んだことを話し、友だちの考えたことを繰り返すだけなら、オウムと一緒です」
  (173ページ)

 「ですから『べつに監視されても構わない。自分はなにも悪いことをしていないから』と言う人たちは、これが自分の行いがいいか悪いかとまったく関係ないことを理解していません。
 この問題はそうではなくて、市民社会と最も特権と影響力を持つ役人たちとの間の力のバランスの問題なのです。
 プライバシーがなくても構わないと主張する人は、表現の自由なんかなくても構わないと主張しているのと同じです。
 自分には言うことがなにもないから、と」
  (173ページ)

 以上、小笠原みどり『スノーデン、監視社会の恐怖を語る 独占インタビュー全記録』より

※この記事は著者の許諾を得て「日経メディカル」2017年3月29日から転載したものですが文責はオルタ編集部にあります。
  http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/201703/550696.html


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