【コラム】風と土のカルテ(23)

常軌を逸した薬の値付け

色平 哲郎


 日本政府は、TPP(環太平洋経済連携協定)の交渉が「大筋合意」したとしきりにアナウンスしている。安倍晋三首相は記者会見で、「TPPは国家100年の計で、中小企業や地方に大きなビジネスチャンスを与える」旨を述べた。メディアには、TPPの発効で農畜産物の値段がいくらになる、といった記事が並ぶ。

 しかし、発効に至るまでに最終合意・署名、各国の議会承認などの手続きを経なければならない。まだまだ流動的だ。しかもTPPの協議では、協定の条文だけでなく各分野の付属書なども作成されているが、これらが法的拘束力を持つのかどうか不明瞭な部分がある。参加国が互いに異議を申し立てるようになるのはこれからだ、ともいえよう。

 TPPは太平洋を囲む12の国で「モノ(関税)」だけでなく、「社会事業サービス」や「投資」などで高い水準の自由化を目標にしている。当然、医療分野も含まれる。「大筋合意」と浮かれる前に、TPPによって懸念されることにも留意しておきたい。

 不安視されているのは「薬価の高騰」だ。10月下旬、WHO(世界保健機関)のマーガレット・チャン事務局長が講演で「TPPの合意が通商を活発化させると言いながら、手頃な価格で医薬品を手に入れることへの扉を閉じるものであれば、私たちは『これは本当の進歩なのか?』と問わねばならない」と述べたと11月12日付のロイターは伝えている。

 米国、カナダ、日本、豪州などのTPP支持者は、世界経済の4割を占める域内の貿易障壁をなくし、共通の基準を設けると主張する。これに対し、TPPに加わらないインドで150億ドルの規模を持つ医薬品業界の団体は、TPPは域外の安いジェネリック医薬品のメーカーを犠牲にし、域内の強い製薬企業の特許を保護することになるだろうと強い懸念を表明している。

 チャン事務局長は、医療や外交の専門家に向かってこう問いかけた。「あなた方はC型肝炎を治療するために、一錠の錠剤に 1000ドルの費用を負担することができるだろうか。私たちがこれらの価格を下げない限り、何百万人もの人びとが取り残されるだろう」。

 TPPとは関係ないが、常軌を逸した薬価の引き上げが行われた例は実際にある。米国の元ヘッジファンドマネージャーが経営する製薬会社、チューリング・ファーマシューティカルズは、今年9月、エイズやがんなどで免疫力が低下している人の治療に使われる「ダラプリム」の価格を一錠13.50ドル(約1620円)から750ドル(約9万円)に値上げすることを公表した。

 「自由の国」米国でも、さすがにこれはやりすぎだと批判が殺到。ヒラリー・クリントンも「法外である」と発言した。この製薬会社の経営者は、「値を下げる」と答えている。
 
 日本政府は、「(医療分野などで)国内制度を一つも変えることはない」(甘利明TPP担当相)と説明しているが、その後、日米間で付属書に関する合意をしていたことが判明した(しんぶん赤旗の11月20日付記事による)。とにかく、交渉の過程が隠されているので、今後何が飛び出すかわからない。

 その合意では「付属書に関するあらゆる事項(関連する将来の保健制度を含む)について協議する用意があることを確認した」としている。さらに付属書に含まれる「医薬品の償還価格(日本では薬価)」の決定ルールについて協議を行うことも確認しているという(上記記事による)。

 TPPで医療は守られると言いつつ、日米二国間交渉で切り崩される。政府間交渉でそんなことにならないよう、しっかり見守っていきたい。

 (筆者は佐久総合病院・医師)

※この記事は著者の許諾を得て日経メディカル2015年11月30日号から転載したものです。


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