■工藤邦彦氏の『昭和史の決定的瞬間』評を読んで                河上 民雄

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加藤宣幸氏からメールマガジン『オルタ』5号を送って頂いて、まず―「現 代史を別の目で見る」―坂野潤治『昭和史の決定的瞬間』を読んで―工藤邦彦 を読み一種感動に近い感情を味合った。

 工藤邦彦氏の書評、あるいは要約というべきか、まことに的確であり、か つ、なんといっても、著者の坂野教授の論旨がきわめて刺激的であったから であるが、同時に私の個人的な体験と記憶が一挙によみがえったからである。

 昭和30年(1955年)10月13日、左右両派社会党が歴史的な統一をなし遂げ て、その余韻が消えやらぬ、その翌年4月に刊行された『社会主義教科書』第 一巻《原理編》(編集責任者、麻生良方)、春秋社刊、で、私は「日本におけ る社会主義運動」と題して、戦前の社会主義運動を担当した。短いスペースで あるが、そこで一番苦労したのは、昭和10年代の記述である。

 私は分担した第3編、日本の社会主義運動、の"はじめに"で、「このような 問題は短時日にまとめることができない複雑な問題であるが、一応われわれ戦 後の若い者が、先駆者の歩いた途をどのように理解するか、さらには現在の日 本の社会党の前史をなす、いわゆる無産政党の運動が、一般に不当に軽視さ れ、あるいは否定のためにのみ紹介されるという現状に対して、ともかくある がままの姿を復元したいという、二つの気持ちから、あえてこの困難な問題を とりあげてみた。― ― 」と述べている。

 そして、社会大衆党について、次のように筆をすすめている。  
『六 社会大衆党の悲劇 このようにして、昭和12年4月、社会大衆党は36名の議席を獲得し、第3党と しての地位を占め、同時に院内交渉団体としての資格を得た。

 この当時、河合栄治郎教授が、総選挙の直後、中央公論6月号に予言的な論 文を書いている。(《社会大衆党の好機》、河合著『学問と政治』所収)。 それによると河合教授は社大党の躍進を非常に喜び、共産主義とも違い、ファ シズムとも違い、また、議会の上に安閑と眠る古い自由主義とも違う、民主主 義によりながら革新をやろうとする新しい政党が生まれたことを祝福しなが ら、しかし、同時に、幾多の警告を発して、社会大衆党の前途に一抹の不安も 告白していた。

 その批判の第一は社会大衆党がイデオロギー的にはっきりしていないことで ある。そして三反主義(資本主義反対、共産主義反対、フアシズム反対)も結 構だが、今の大衆党の人はあまりにも資本主義反対を強調しすぎる。  現在の日本のような国家、殊に封建的な要素の多い日本資本主義国家では資 本主義打倒よりもフアシズム打倒に勢力を集中すべきだと警告を発している。

 いま一つは、現在の指導者が党の勢力を膨張させるために東奔西走した結果、 自己の教養を犠牲にしたため、イデオロギー的には低下しているのではないか ということを指摘している。それは、その人達が運動を始めた当時は確かに時 代の先端をいっていたが、今ではその人達のいうことも独占物ではなくて、社 会の共有物となった。このように相対的な意味でイデオロギー的に低下したこ とは次の時代を担う勢力としては非常に危険であると述べている。そして次の 戦争は銃後の国民に惨害がおよぶものだから戦争阻止こそ緊急の任務であると 強調している。

 不幸にして、社会大衆党が36名をとった昭和12年4月から僅か3カ月後に支那 事変が勃発し、いわゆる新体制運動への接近が始まるわけである。そして昭和 15年ついに自ら解党して社会大衆党は姿を地上から消すにいたった。この辺の 問題は、われわれとして読むことは苦痛であるけれども、一ついえることは、 当時の力は、やはり天下の大勢に抗するには、あまりに小さかったこと、いま 一つは社会大衆党というか、無産政党それ自体の中にある欠陥、つまり民主主 義と社会主義の問題が十分に解決されていなかったこと、殊に無産運動を指導 してきた第二の世代――殊にインテリ出身者の出発があまりにもロマンチック であって、かつロシア革命から影響を受けていたこと、そのために実態がわか るにつれてその方向を否定しながらも、やはり自分の生涯の間に革命を実現し たいという焦りがあったことを指摘せざるをえないと思う(普選後10年間国会 での議席は5名前後であった)。それが結局、当時起っていた新体制運動のよ うな、いわば議会外の革新的な勢力に党を結びつける素地になったのではない だろうか。

 さらに以下のように、結んでいる。  われわれはまず率直に、戦前の遺産が乏しいことを認めなければならぬ。し かし、明治以来の絶対主義政府の弾圧下で、必死の闘いをして、議会勢力にし て1割弱、得票数にして約百万の線まで土台を築きあげた先駆者の努力に対し ては同情ある尊敬の目をもって見るべきではないだろうか。」

 坂野潤治教授の『昭和史の決定的瞬間』の対象は、私の昭和10年代と重なる ところが多く、それだけに、強烈な印象をうけた。

 家庭環境から私は昭和10年代について二重の個人的体験と記憶をもっている。 昭和3年の普選第1回の総選挙で誕生した無産党代議士8人の一人を父河上丈太郎 にもち、昭和5年、7年と2回の落選をへて(その頃の記憶は断片的でよく憶え ていないが)、昭和11年、12年の社会大衆党の躍進の興奮は小学5年、6年のと きではあるが、今でもよく憶えている。  同時に、わが家は、クリスチヤンホームであるために、盧溝橋事件に端を発 したいわゆる支那事変になってからの社会的空気の暗転を同時代の一般の少年 より一層強く感じたことを記憶している。

 今や回想というべきであるが、そろそろ50年前になる小論のなかで、河合栄 次郎教授の『社会大衆党の任務』を軸にして、昭和10年代をまとめたことを思 い出した。  旧約聖書の一句に、「あなたのパンを水の上に浮かべて流しなさい。月日が 経ってからそれを再び見出すであろう」というのがあるが、その一節を思い 出している。