【落穂拾記】                  

岩手県大槌町 被災2年半後を寸見する

                          羽原 清雅

 東日本大震災から2年半。岩手県大槌町の復興の現状をのぞいた。わずか3日だけの現場取材なので、あくまでも「寸見」にすぎない。現地の息吹をわずかながら、お伝えしたい。
 じつは、筆者の政治記者時代の仲間であった但木汎さんが、岩手県下の記者をリタイアしたあと、この大槌町の期限付職員として、犠牲者の丹念な記録つくりや町の広報などに取り組んでおり、案内をしてくれたのである。ただし、小生が見聞きした範囲と、町の資料などをもとにしており、間違いの責は当然筆者にある。

 この大槌町は、東北新幹線の新花巻から、カッパや座敷童子(わらし)などの民話で知られる遠野を抜けて新日鉄のある釜石に出て、さらに車で20分ほどのところにある三陸沿岸の小さな町である。鉄道はまだ通じていない。

 この町を思い出す方があるとすれば、この大槌湾内に浮かぶ蓬莱島が、井上ひさしによる名作「ひょっこりひょうたん島」のイメージの小島であり、また同じ井上ひさしが、この町の一隅の吉里吉里という集落の名をとって架空の国と人を描いた小説「吉里吉里人」を仕上げており、これらが全国区の話題になったからといえよう。

 震災・津波の被災前に1万6000ほどだった人口は、3000人以上減って1万3000人弱と、2割も減っている。被災死亡者801人、不明者は433人、計1234人。行方不明ながら、まだ死亡が信じられない思いであろうか4人については、死亡届も出されず、したがって補償などの救済も受けられないままだ。震災関連死と認定された方も50人に及ぶ。
 遺体が収容されたのは863体だが、身元のわかったのは770体、不明のままのものは90体もある。DNAの検査も容易ではない。

 このような概要をもとに、いまの様子を拾って紹介したい。
 ほかの市町村との比較で、復興ぶりを見たいのだが、「寸見」の旅の者には総体がつかめないのが残念である。
 また、被災した人の「こころ」の痛みに迫ることは出来ない。せめて、実態を伝えることで、一人ひとりの思いを感じていただければ、と思いつつ記していきたい。

<町役場> 津波に襲われたこの町の役場は、3階建ての建物どころか、職員136人のうち町長をはじめ40人が津波に呑まれ、亡くなっている。建物はいまも壁などが崩され、自然の猛威のあとをとどめている。ここは、津波被災のシンボルとして残されるという。
 そしていま、復興のために沖縄から北海道まで、各地の自治体から応援の職員88人が勤務しており、員数は240人にのぼる。副町長も、国、岩手県からの派遣と、地元からの計3人が分担するという異例な状況だ。

<財政事情> 予算は人口50万の都市と同じ規模に膨らんだ。もっとも、復興の技術陣を主にまだ2,30人の職員が足りないほど、仕事の量を抱え込んでいるという。
 
25年度当初予算を見ると、一般会計と7特別会計(国保、下水道など)を合わせると、722億円。一般会計だけでは645億円。災害廃棄物処理38%、防災集団移住20%、都市再生区画整理7.4%など、別の仕分けでは衛生費と土木費が各39%で、ほとんどが災害から脱出するための資金。歳入はどうか。東日本大震災復興交付金基金繰入金、津波復興基金市町村交付金繰入金などの諸収入38%、国庫支出金35%、地方交付税20%で、町税収入は0.9%しかない。6割までが依存財源だ。
 町の復興後の立ち直りはどうなるのだろうか。

<こども> 震災・津波前の小中学生は1224人だったが、2年半後のいまは884人。28%に当る340人も減っている。4つの小学校がひとつに統合され、その跡地には仮設住宅が並ぶ。町はいま、この機会を生かして、教育改革の一環として小中一貫の学校つくりに取り組む。自転車に乗る子どもたちの姿は、以前と同じように活発だ。せめてもの救いである。

<救援> 大槌町の2013年8月現在の災害義捐金は3億8338万円。その内訳は、個人が8381万円(1481件)、法人が2億9956万円(635件)。この使途は、死亡・不明者に対して2528万円、全半壊の家屋損壊等7664万円、両親や片親死亡の未成年者4750万円などで、まだ半分以上が配分されていない。
また岩手県を通じて配分された日本赤十字・共同募金会などの義捐金は81億821万円。この使途は、人的被害に21億円余、住家被害に59億円余で、この方はほとんどが配分済みだ。
 時間が経つにつれて、資金援助は減っている。やむを得ないとしながらも、先細りは辛いところだ。

<仮設住宅> 人口1万3000弱の小さな町なのだが、仮設住宅はどれくらいあるのだろうか。そんな疑問を持って出かけたのだが、じつに48ヵ所にも分散していた。しかも、何代も続いた隣り近所の人たちが同じ仮設住宅に入ることができず、バラバラに住む事態になっており、心細さをつのらせているようなのだ。

 町自体が海と山に迫られ、平地は少ない。海に近い市街地は低地で、今後の津波を思えば、元の場所に家や店舗は再建できない。あたりはまだ雑草に覆われた荒野に近い状態のままだ。山地を拓くといっても、技術と資金、時間、所有権などの壁が立ちはだかり、それが長期間にわたって、仮設住宅を分散させている。たしかに、政治や行政の遅れは感じる。ただ、地元なりの、怨みの持って行き場のない現実も否定できない。
 
訪ねた仮設住宅には、高齢者が目立ったが、表情は明るく、ラジオ体操を楽しむ姿が印象的に映った。ニ、三の仮設住宅で、一体のお地蔵さまが祀られ、供物が置かれていた。

<災害公営住宅> 仮設住宅に住む人は8月末で、2030戸、4492人にのぼる。住民の3分の1超が仮の住まいでの生活を強いられている。ピーク時と比べてわずか5%程度しか転居できていない。

仮設住宅を抜け出して、自宅を持ちたい・・・その思いは被災者全体の願望だろう。しかし、戻る土地が使えない。計画通りに平均2.2メートルの土盛りをするにしても、その倍の高さに盛り上げ、それが固まるのを待たなければならない。高齢者が多く、返すあてのある資金はつくれないし、頼りたい子どもたちにもそのゆとりはない。とすれば、家賃の心配があり、期限付きだとしても、公営の住宅を待つしかない。

 大槌町は、岩手県が500戸、町が480戸、計980戸の公営住宅を作る計画を持つ。では、その具体化の事情はどうか。
この8月末に5階建てマンション(集合住宅)34戸、棟続きの平屋住宅(連棟タイプ)70戸がやっと完成して入居が始まった。秋に21戸(1ヵ所)出来上がる。あとは来年度中の計画が394戸(8ヵ所)、27年度が20戸(1ヵ所)。26年度から順次完成を予定する計画分が441戸(3ヵ所)あるのだが、未着手の区画整理区域内にあるものや、おおまかな地域設定だけにとどまるものが400戸以上、しかもマンション型か連棟型かのタイプも決まっていない。仮設住宅住まいの状態はまだまだ かなり続きそうである。

<防波堤> 14.5メートルの防波堤を作り、町を守る。そんな計画が練られるが、町の人たちの気持ちは複雑だ。というのは、被災前の海岸寄りの低地にあった町の中心部を高台に移そう、との構想があり、となれば果たしてそれほどの防波堤は必要だろうか。むしろ、高台の町つくりに集中しては、との思いがある。しかし、町民のあいだでは、必要は感じられている。

 大槌町の消防団員は14人が犠牲になったのだが、この人たちは55ヵ所の水門を締め切ったあと、高齢者たちの救出に当ったりしているうちに津波に飲み込まれるという殉職だった。
 また、同じ三陸海岸沿いの青森県宮古市田老では、明治期と昭和期の大がかりな防波堤が町を守るはずだったが、「防波堤が守ってくれている」との安心感が、逆に高台に逃げるという基本を見失い、それが今回の多くの犠牲者を生んだという、つらい思いもある。

 大槌の町を歩くと、「海嘯溺死精霊塔」(吉里吉里地区・吉祥寺)といった津波被害の祈念の碑がいくつも見られる。
 近年だけでも、明治三陸津波(1896年)、昭和三陸津波(1933年)、チリ地震津波(1960年)、平成三陸津波(2011年)と、多くの被害を受けた津波常襲地帯である。「てんでんこ、高台に逃げろ」とは言われ続けていても、いざとなると危険に遭遇してしまう。それが、自然の猛威というものなのだろう。

<漁船贈呈> 現地に入ったちょうどその日、港で定置網用の漁船「第一久美愛丸」(19㌧)の贈呈・進水式に出くわした。2億3000万円、という。漁協は津波前から経済的に破綻状況にあったが、つい先ごろ、再発足したものだ。江戸開府の17世紀はじめ、この大槌から江戸に「南部鼻曲がり鮭」として塩蔵・新巻の鮭を出荷して人気を呼んだ、との歴史があり、本来は漁業の町だったのだ。
 
贈り主の中心は、山崎製パン会社社長の基金で設置された公益財団法人国際開発救援財団。神事、贈呈式、さらに祝賀の式典を見たのだが、やっと立ち上がれるといった、明るさがあった。 これに先立つ6月、横浜市瀬谷区の148人の方々が震災直後に救援に来たのを縁に、3600万円の募金を達成、それをもとに公的資金を引き出して定置網漁船「瀬谷丸」(19㌧)を贈っている。このような復興への引き金が、経済的立ち直りばかりか、こころの励ましになっている。いい話である。

<写真回収> たまたま、仮設住宅のひとつを訪ねると、「思い出の品返還」の展示会が開かれていた。段ボール箱などにアルバム、賞状、バラの写真などが大量に積まれていた。
 各仮設住宅を回った8月の半月間に約300人が見に来て、アルバム73件、写真97枚、賞状など5件が引き取られたという。生前の思い出が詰まったわずかな品に、大きな慰めをもらったことだろう。
 
このボランテイアの方たちは災害復興のための雇用策の一端、というが、来春には打ち切られるようだ。その場合、このようなこころの支えはどうなるのだろうか。
 しかも、アルバムなどには学校名や個人名などの手掛かりはあるのだが、「個人情報」ということで、役場のデータによって確認することはできないのだという。写真は残っても、町内外のどこにいるのか、それがわからない限り、届けることも出来ない。行き過ぎた個人情報の規制は、ここにもあった。

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 1964年6月の新潟地震で、新潟をはじめ秋田、山形、宮城県など広範に被害が出たとき、駆け出しの記者として新潟市を中心に取材したことがある。全体で死者26人、全半壊家屋8600棟、浸水1万5000戸だった。マグニチュード7.5ながら、東北大震災に比べれば、被害としては小規模だった。
 
当時はカラーテレビが普及し始めたころで、石油タンクの炎上、市内を結ぶ橋の崩落、横倒しの県営住宅など、豊富な映像記録を残して、自然災害の恐ろしさを印象付けた。
 災害から2年半を経て、今なお苦しみに耐える姿を大槌町に見て、あらためて対応の難しさを実感した。再起は、体力、収入、思い出など「年齢」にからむ。
 
同時に、地震、津波に加えて原発の放射能禍に襲われたフクシマは、さらに困難を極め、まだ再起のきっかけすらない。仮に、復興可能になったとしても、汚染源の廃棄物などはどうなるのか。地中に埋めたとして数万年後の人たちに、今日の状況をどのように伝えるのだろうか。自然の猛威に、人為的な不完全さが拍車をかけている。

 そのようなことを感じつつの「寸見」だった。
 (筆者は元朝日新聞政治部長)


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