【日本の歴史・思想・風土から】

山岳信仰と修験道

荒木 重雄
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 わたしたち日本人のもともとの宗教・信仰は自然崇拝でした。自然の恵みや畏れをカミとして表わしたのです。そこに6世紀に仏教が入ってきますと、その日本古来のカミへの信仰と仏教を結びつけたいわゆる神仏習合がうまれます。この神仏習合が、奈良・平安時代以降、脈々と続く日本人の信仰の主流となってきましたが、その神仏習合の信仰の形を最も端的に実践してきたのが山岳を修行の場とした修験道でした。
 そこで今回は修験道・山岳信仰をてがかりに、日本人本来の宗教の伝統、そのありようを見ておきたいと思います。

◆ 日本人にとっての山

 わたしたち日本人は、古来、山・川・海の自然に抱かれて生活してきました。とくに全国土の7割余りを占める山は、実生活の面でも、精神的な面でも、たいそう重要な存在でした。山や森は、食料や薬になる動植物を与えてくれる貴重な場所でしたし、神や祖霊の住処であるとともに妖怪変化が跋扈する異界の地でもありました。里の人々にとっては山は、川や田に水を授けてくれなくてはならない存在でしたし、海の民にとってさえも、山は航海や漁場の目印として欠かせないものでした。

 こうしたなかで、山の中で直接、山が与えてくれる幸をもとに生活してきたのは、マタギとよばれる猟師、樵、鉱山の採掘にあたる山師などです。また、山麓に住んで轆轤を回して椀や盆をつくる木地師、鉄や銅を鋳造し鍋・釜・鋤・鍬などをつくる鋳物師なども山の民です。
 こうした人たちは、山にはかれらに山の幸を与えてくれる神がいると信じて、山仕事にかかる前に山の神の祭りを行っていました。

 たとえば、マタギは、山に狩に入る前に禊をして――かれらが猟に入るのは冬、山は一面雪に覆われている頃ですが、そんな寒いなかで谷川の水をかぶって水垢離をとって心身を清めたうえで、山の入口にある山の神の祠にお神酒を供えて祈願をし、それから、かれらの祖先が昔、山中で、山の女神のお産を助けた、そのことによって狩をする権利を女神から与えられたという経緯を記した巻物と、和紙に包んだオコゼ――山の女神はなぜかオコゼという魚がお好きでして、そのオコゼの干物をもって山に入ります。

 山に入った初日には、山小屋に設けた山の女神の祭壇に巻物とオコゼを供えて、そして、昔は、初めて狩の仲間に加わった若者が裸になって、陽物に御幣をつけて踊ったそうです。これは、山の女神を喜ばせてたくさん獲物を授かるためだそうです。

 獲物を射止めるとまた儀式があります。まず獲物の目、耳、鼻、唇、爪など、その生きものの霊魂が宿るとされるところを除き、皮を剥いで前後を逆にして死骸に被せて、心臓を山の神に供えます。そして、「動物は畜生ゆえに成仏できないけれども、人間が食することによって成仏させるのだ」という意味の言葉を唱えるのです。
 この、取り除かれた部分を山に残し心臓を山の神に供えるのは、自分たちは獲物の肉や皮をもらうだけで、それらの部分を残しておけば、山の女神がまたそれに肉をつけて、その動物を蘇らせてくれる、という信仰からなのです。

 では、樵はどうかといいますと、樵は山に入るとまず、山奥にある山の神の拠代とされる神木に酒と塩を供えて、山で木を伐ることの許しを得ます。そして伐り終えると、その切り株に、伐り倒した木の、葉がついた枝を供えて、これもまた山の神に木の再生を祈るのです。

 鉱物の採掘に携わる山師は、山を母胎と捉え、鉱物をそこで育まれる胎児と捉えて、独自の儀礼をつくりあげました。また、鋳物師はその祖神――鋳物師という職業集団の祖先の神である金屋子神(かなやごがみ)を仕事初めの日に祭りましたし、木地師は、清和天皇との皇位争いに敗れて失意のうちに近江山中の小椋村に籠った惟喬親王(これたかしんのう)を、かれらの祖先に轆轤の技術を教えた祖神として祀っています。

 一方、里で暮らす農民にとっては――そこでは水田で稲作が営まれているわけですが、山からもたらされる水によって収穫は左右されます。そこで、山の神は、水を分けて授けてくれる「水分(みくまり)の神」として崇拝されました。
 ここでは、春、山の神を「田の神」として迎え、稲作の守護を祈る儀礼が行われました。三月から四月の種蒔きの時期になりますと、山から榊や松の枝、あるいは石楠花や躑躅を手折ってきて苗代や畦に立て、洗米などを供えて、田の神祭りが催されたのです。その際、豊作を願って、男女のまじわりの所作や妊婦の道化などを演じる田遊びや田楽も行われました。
 こうして山の神を迎えて稲の生長を守ってもらい、無事に収穫を終えると、田の神すなわち山の神を家に招いて感謝を込めたもてなしをして、山に送り返す祭りが行われました。この、山の神を田の神として迎えて豊穣を祈る祭りが現在の神社の春祭り、山に送り返す祭りが秋祭りになったと考えられています。

 さらにこの山の神に祖先の霊魂が融合して、子孫を守る「氏神」へと展開しています。人が亡くなるとその肉体を離れた霊魂は、三十三年忌まで里の墓にとどまっていて、盆・正月や年忌法要の追善供養のときには家に帰ってきます。こうした供養を手厚く受けることによって死者の霊は浄化され、やがて山の神と融合して氏神となり、そして、春には山から里を訪れて子孫の農耕を守り、秋にまた山に帰っていくようになるのです。
 ですから山は、祖先の霊が鎮まる場所でもあるのです。

 山や、そこに住まう山の神は、このように人々の暮らしに親しいものでもありますが、一方で山は、みだりに足を踏み入れることのできない異界の地、恐ろしい場所でもありました。不用意に立ち入ると山の神の怒りを招いて命を失うことにもなりかねません。

 『古事記』にもこんな話が載っています。倭建命(やまとたけるのみこと)が東征の帰り、伊吹山の山の神を征伐にいったのですが、途中で出会った白い猪に向かって不用意に「これは山の神の使いだから帰りに殺そう」といったところ、じつはそれが山の神自身で、怒った山の神は氷雨を降らせて、倭建命はこの氷雨に降り込められて、それがもとでついには弱って死ぬことになります。
 また、雄略天皇が葛城山に登ったところ、天皇と同じ装束を着け、同じように行列を仕立てた一行に出会ったのです。天皇は「倭国(やまとのくに)には我をおいて王はないのに、いったい誰か」と問うと、相手も同じように問い返します。弓に矢をつがえて構えると相手も同じようにする。そこでさらに相手の名を問うと、それは葛城の一言主神(ひとことぬしのかみ)でした。天皇は畏れて刀や弓矢、付き従っていた百官の衣服までぬがせて捧げると、神はそれを受け取り、天皇を山の出口まで送ったというのです。
 これらのエピソードからは、山の神は、勇者・倭建命をも打ち負かし、天皇を向こうにまわして屈服させるだけの力をもっていたことがわかります。

 このように、人々に恵みを与えると同時に畏怖すべきものとしての山への信仰、このような信仰を基盤として、今日のテーマの日本の山岳宗教、とりわけ修験道が発達するのです。

◆ 修験道の成立と二人のスーパースター

 では修験道とはなにかといいますと、一言でいえば、日本古来の山岳信仰が、外来の道教すなわち神仙思想や陰陽道、仏教とりわけ密教などの影響のもとに、平安時代の末に至って一つの宗教体系をつくりあげ、山岳修行によって超自然的な力――これを験力(げんりき)といいますがそれを獲得し、その力を用いて呪術的な活動を行うことを旨とする、実践的な儀礼中心の宗教、ということができます。

 そのような宗教ですが、細かい話に入る前に、修験道の成り立ちや性格をよく体現していると思われる二人の人物に登場していただくことにしましょう。
 ひとりは「修験道の開祖」「山伏の元祖」とされる役行者(えんのぎょうじゃ)、そしてもうひとりは出羽三山を開いた能除太子(のうじょたいし)です。

 まずは修験道の開祖、役行者から。長い髪と長い鬚をはやして高下駄を履き、右手に杖をもって、両脇に前鬼(ぜんき)と後鬼(ごき)を従えて岩窟の中で腰掛ける。これが役行者像です。水瓶をもつ方が前鬼、斧をもつ方が後鬼。なかなか凄味があります。
 役行者は7世紀後半に現在の奈良県を中心に活躍していた実在の人物でして、役小角(えんのおづぬ)の名前で史料に登場しています。『続日本紀』の文武天皇三年(699年)五月二十四日の条に次のように記されています。
 「役君小角(えだちのきみおづぬ)を伊豆の嶋に配流した。初め小角は葛城山に住む呪術者として知られていたが、弟子の外従五位下・韓国連広足(からくにのむらじひろたり)はその呪力を妬み、妖しい言葉で人々を惑わしているとの讒言により遠流に処せられたのであった。世間では、小角は鬼神を使役するのが得意で、水を汲ませ薪を採らせ、命令に従わない場合には呪縛したという」。

 これによれば小角は葛城山を中心に活躍していた呪術者・山林修行者で、呪力に勝れ人望があったためか讒言により伊豆に流されたのですね。また、人々が噂していた小角が働かせていた鬼神というのは、当時の律令国家の権力が及ばない山中を生活の拠点としていた山の民と想像されますが、そのイメージが後に成立した役行者像の前鬼・後鬼になっていると思われます。

 その後、役小角の伝記はさまざまなかたちで膨らんでいきますが、9世紀前半に成立した仏教説話集の『日本霊異記』には次のような話が載っています。
 「大和国葛木上郡茅原村の役優婆塞(えんのうばそく=優婆塞は在家のまま仏道に勤しむ信徒のこと)は、葛城山の洞窟に籠って修行を重ね、孔雀明王の呪法で不思議な威力を得て、鬼神を使役することができた。あるとき役優婆塞は、一言主神ら鬼神たちに金峯山(きんぷせん)と葛城山の間に橋を架けよと命じたが、一言主神は、自分は姿が醜いので夜ならいいけれど人目につく昼間は働くのがいやだといったところ、役優婆塞は聞き入れてくれない。そのため一言主神は、優婆塞が天皇を倒そうとしていると讒言した。朝廷は優婆塞を捕えようとしたが、優婆塞は験力を使うのでなかなか捕まらない。そこで優婆塞の母を捕え、自首してきた優婆塞を伊豆の島に流した。優婆塞は昼は天皇の命に従っておとなしく島に留まっていたが、夜になると富士山に飛んでいって修行を積んだ。3年後の大宝元年にようやく許されたが、優婆塞は仙人となって、母を連れて天に飛び去った。その後、道昭法師が新羅の山中で役優婆塞と会った」というのです。

 こうした説話から、役小角は、日本古来の土着的呪術だけでなく、それに加えて道教と「孔雀明王の呪法」という密教の新たな呪法を身に着けた呪術者ということが窺えるわけで、すなわちここで、後の修験道の主要な構成要素となる神道・道教・仏教の三つが出揃ったわけでして、役小角が修験道の開祖として祭り上げられていく下地が調ったことになります。

 少し説明を加えますと――孔雀明王というのは、毒蛇を食うという孔雀を神格化した明王でして、一面四臂の菩薩の姿で孔雀の上に乗る、いかにも密教的な異国情緒あふれる仏です。その呪文(真言)オンマユラギランデイソワカと唱えれば、毒蛇をはじめ一切の毒、怖れや災厄を滅し、神通飛行自在の験力――自由自在に空中を飛ぶ力を得る、というのです。また、「蛇は水を制し孔雀は蛇を制す」ところから、孔雀明王の呪法はとりわけ雨を降らせたり止めたりするのに力があるとされています。
 それから、修験道で本尊とされることのが多いのは、霊験あらたかな「金剛蔵王権現」という神様です。これは役小角が金峯山で感得した――感得とは祈って神仏を出現させることですが、そうして生み出された神で、過去仏の釈迦、現在仏の千手観音、未来仏の弥勒の三仏を一身に集約した神とされています。左手は剣印を結んで腰に当て、振り上げた右手に三鈷杵をもち、右足を大きく蹴り上げた、忿怒形の神様です。

 さて、この役小角にまつわる説話――讒言とはいえ「天皇を覆そうとしている」とされて、朝廷に追われて島流しされたという説話――いわば反体制の烙印を押されて配流されたという説話は、どのような背景や意味をもっているのでしょうか。

 いろいろな説や解釈があるようですが、基盤にあるのは、里の権力――大和朝廷に代表される中央の権力とは一線を画した「山の民」の存在ということです。
 当時、山の民はまだ侮れない勢力をもっていました。その力の源泉のひとつは、山の民は里にはない薬草と鉱物を握っていたことです。医療が発達していなかった古代においては、薬草の知識は人の生死を左右する重要なものでした。それ以上に鉱物も重要なものですね。

 たとえば金峯山は「金の御嶽(かねのみたけ)」ともよばれていて、聖武天皇は大仏造営に際して、金峯山の金剛蔵王権現に祈って金を譲り受けるよう良弁(ろうべん)僧正に命じたという話が伝わっていますが、金にかぎらず、金属や鉱物は、古代の産業や軍事にとって欠くことのできない重要な資源であったわけでして、そうしたものを独占している山の民というのは、当時の権力にとってはぜひとも支配し取り込みたいものだったでしょう。それなのに、朝廷をさしおいて山の民を掌握している役行者というのは、当然ながら、朝廷にとっては、取り除きたい存在、抹殺したい存在だったはずです。

 さらに、大和朝廷にまつろわぬ山の民というのは、たとえば、大海人皇子(おおあまのみこ=後の天武天皇)が皇位継承で敗れると吉野の山にいったん身を潜めて山の民に加勢を求め、そこから壬申の乱に打って出たように、しばしば、権力闘争に敗れた者が身を隠したり加勢を求めたりするところだったので、権力者にとってはまさに警戒すべきものだったのです。

 ですからその頃、律令政府は、正式に許可を得ていない者が山林に入って修行をすることを繰り返し厳しく禁止しています。役行者のような体制側で管理できない呪術者が験力をつけたり、それが山の民の力を増すことにつながることを過敏に警戒しているのですね。その一方で政府は、朝廷を守るための呪術師――呪禁師(じゅごんし)といいますがそれを組織し、呪禁師を管轄する典薬寮(てんやくりょう)という役所をつくっています。この頃は呪術はまさしくパワー、力そのものだったのですね。役行者を讒言した韓国連広足は後にこの典薬寮の長官に任命されています。

 さらにまた、役行者が活躍した葛城山というのは、独特な背景をもっている山ですね。『日本書紀』によりますと、葛城山には雄略天皇五年に霊鳥(あやしのとり)が出現したことが記されていますし、斎明天皇元年には、龍に乗る怪異の人が葛城山から現れて空を飛び生駒山に隠れたと記されています。しかもここには、赤銅八十梟帥(あかがねやそたける)とか土蜘蛛とよばれる、大和国家の侵略に激しく抵抗した先住民がいて、天皇軍によって大量虐殺された土地です。

 葛城山付近はこのような、神秘的な霊鳥や奇怪な呪術者が住む異界の地であり、虐殺された先住民の怨念がこもる闇の領域であり、征服者ヤマト国家にとっては、不気味な呪的空間と考えられていました。いわばそこに、もうひとつの闇の国家が隠されているのですね。葛城山中で「もうひとりの天皇」として現れた一言主神の話は、そうしたことをまさに象徴的に表わしているわけですが、そうすると、その一言主神をも従えた役行者というのは「闇の国の王たちの王」とでもいうべき存在だったのでしょう。
 このようなカオスから生まれてきたのが修験道であり、その開祖と仰がれるのはこのような人物であったわけです。

 役行者が葛城山から吉野、熊野という修験道の西のセンターの創設にかかわる者とすれば、東の修験道のセンターである出羽三山の開山にかかわるのが能除太子(のうじょたいし)です。
 身の色黒く、人とも思えないような醜い姿で、顔の長さは1尺9寸――1尺は約33センチですから60センチ余りです、鼻の高さは3寸余り、目尻は切れて髪の中に入り、口は裂けて耳の脇にいたり、耳は1尺余りも垂れ下がり、さらにその声も酷い悪声で聞く者驚き騒ぐほどであった、ということですが、じつは彼は、崇峻天皇(?~592年)の第三皇子とされて蜂子皇子(はちこおうじ)ともよばれる者ですが、あまりの醜さのため皇位につくことができず、修行の旅に出たとされています。

 そして羽黒山に辿り着いたのですが、山が深く、どうしても分け入ることができません。すると、片方の羽が8尺もある三本足の大きな烏が飛んできて、その後をついていくと、やがて烏は一本の杉の木に止まり、片羽を垂れて動かなくなったので、怪しく思い、その下の木の葉をかきわけてみると、観音様が現れた。そこで太子は、そこを修行の地と定めた。
 時が経ち、ある猟師が獲物を求めて峰を登り谷を下っていると、怪しい声がするので近づいてみると、蔦が生えかかった人に似たものがいた。それが能除太子であった。というのが出羽三山――羽黒修験の舞台である羽黒山、月山、湯殿山の出羽三山の開山伝説です。

 ところがですね、天皇の系図には、崇峻天皇には一人の皇子と一人の皇女の、二人の子がいるのですが、第三子があった記録がありません。では能除は第一皇子かというと、江戸時代に朝廷はそれを否定しています。つまり能除太子は「架空の太子」「幻の太子」なのです。しかもその父とする崇峻天皇も、じつは、皇位につくこともなく蘇我馬子に暗殺された「抹殺された天皇」「幻の天皇」なのですね。

 日本ではたとえば、木地師が惟喬親王を、琵琶法師が醍醐天皇の皇子の蝉丸を、瞽女が嵯峨天皇の皇女・相模の宮を祖神とするように、主流から外れた少数者や被差別者が皇族との繋がりを主張して自らを権威づける、というのはよくあることですが、能除太子のような「幻の天皇」の「幻の皇子」、しかも醜いという、悲劇の存在、闇の存在を開祖に仰ぐところに、修験道の雰囲気というか情念がなんとなくわかりますね。

 しかもその土地は、役行者の葛城山がヤマト国家にまつろわぬ先住民の土蜘蛛や赤銅八十梟帥の地であったように、出羽三山も、ヤマト国家に対して最後まで激しく抵抗した蝦夷の住んだ奥州です。虐殺された先住民の怨念がこもる闇の空間であったわけですね。
 そういう、遠い歴史の深い淵からの記憶といいましょうか、文化伝統が、地下水脈として流れているのが修験道ですね。

◆ 修験道の成立――山林抖擻と十界修行

 さて、こうした伝説・説話も下敷きにしながら、平安時代――8世紀から12世紀頃にかけて、大自然の中に入って――山に籠もったり山々を経巡ったりしながら、岩屋に寝起きし、「木食行(もくじきぎょう)」といいますが、穀物を絶って木の実や草の根を糧として命を繋ぎ、経文や陀羅尼(呪文)を唱えて修行をし、仏と一体化して――つまり自身が仏となって、そのことによって超自然的な力を得、その力を用いて呪術的な宗教活動を行う修験道が成立します。

 山に分け入って修行する、これを「山林抖擻(さんりんとそう)」といいますが、山に起き山に伏すことから修験者を「山伏」ともよぶのですね。この「修験」とか「山伏」という言葉が記録に現れるのは9世紀からです。
 修験道のもっとも基本的な修行は「峰入(みねいり)」あるいは「奥駈(おくがけ)」といって、これは、吉野から熊野までの大峯連山約150キロを、吉野側から、あるいは熊野側から、縦走しながらさまざまな修行や儀礼を行うのですが、そうした一定の方式が完成したのも9世紀です。

 密教では金剛界・胎蔵界という二つの曼荼羅で宇宙を表わしますが、修験では、大峰連山の吉野側の金峯山(山上ケ岳)を中心とする地域を金剛界、熊野三山を中心とする地域を胎蔵界として、すなわち大峯山系をこの両方を具えた宇宙全体と捉えて、そこで「十界修行」という修行を行います。
 十界修行というのは、迷いの世界である地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の「六道迷界」と、悟りの世界である声聞、縁覚、菩薩、仏の「四聖」を遍歴し、それぞれの段階に相当する修行や儀礼を行うのです。詳しくは後でお話しますが、いうまでもなく、そこで到達するべきゴールは仏になることです。自身が「即身成仏」の仏となって衆生を救済することを意図しています。

 この山岳宗教が皇族・貴族の信仰を集めるようになりました。
 昌泰三年(900年)、宇多上皇が金峯山に行幸したのを嚆矢に、皇族・貴族の金峯山詣でが盛んに行われるようになりました。これは吉野から金峯山すなわち山上ケ岳に登るのです。
 寛弘四年(1007年)には、時の最高権力者・右大臣藤原道長が金峯山に登って、自ら書写した法華経など15巻のお経をそこに埋めてきています。これを「経典埋納供養」といいます。

 仏教では、釈迦が入滅して1500年ないし2000年たつと仏の教えがすたれ、56億7000万年後に弥勒菩薩が第二の釈迦としてこの世に現れるまで暗黒の時代を迎える、末法の時代を迎えるという考えがあるのですが、日本では、永承七年(1052年)をもってこの末法の時代に入ったとされました。
 そうすると、その56億7000万年後に弥勒が現れて衆生を救済するのに役立つよう、それまで経典の保存をはかろうということで、とくにこの入末法以後、経典を経筒に入れて埋納するのが皇族や貴族のあいだで盛んになったのです。いってみれば、お経をタイムカプセルに入れて56億7000万年後まで保存するのですね。
 こうして金峯山は道長以来、弥勒が天上から降りてくる地として朝廷・貴族の篤い信仰を集めることになりました。

 さらに寛治四年(1090年)には白河上皇がはじめて熊野御幸を行うのですが、末法思想による社会不安も背景として、多くの皇族・貴族が熊野詣でをするようになりました。ことに院政期の法皇は熱烈な熊野信仰をもっていまして、白河院は9度、後白河院は34度、後鳥羽院は28度と、百年のあいだに100回近くの法皇の熊野御幸が行われました。
 これに倣ったこともあって、「蟻の熊野詣で」といわれるほど、京の都と熊野のあいだには参詣者がひきもきらずつづいたということです。

 これら皇族・貴族をはじめとする金峯山詣でや熊野詣での先達として、案内や世話、さまざまな儀礼の導師を務めたのが修験者たちでした。こうして、修験者の一部は権力に近づき、土地の寄進を受けたりして財力豊かにもなりました。やがてこうした修験は、増誉(ぞうよ)を祖と仰ぎ聖護院を本山とする天台系の本山派と、聖宝(しょうぼう)を祖とし醍醐寺を本寺とする真言系の当山派に分かれ、利権を巡って系列化される、などということにもなりましたが、細かいことはとばしましょう。

◆ 日本宗教の特徴――神仏習合と本地垂迹説

 さて、日本の宗教や伝統的な文化を考えるうえで大事なことのひとつは、神仏習合――神道と仏教の融合です。で、この神仏融合のさまは山岳宗教や修験道でもっともよくわかります。

 話を少し戻しますが、日本人にとって古来、山は、水や生活の糧を与えてくれるものであると同時に、死者の霊魂が鎮まる場所であり、また、神が天降るところでありました。天空に向かって聳え立つ山の頂は、神が天から天降るにもっとも相応しいところとイメージされたのでしょう。
 そういう山――霊験あらたかな神聖な山と考えられた山は日本各地にありました。そうした、古くからの神がいます山に、仏教伝来とともに仏教がかぶさってきたのが日本の霊山です。
 いまここでお話している吉野・熊野や出羽三山ばかりでなく、日光山、富士山、木曾御嶽山、立山、白山、伯耆大山、石鎚山、英彦山と、北は恐山から南は開聞岳まで、名だたるものだけでも百以上あるのですが、これらの霊山はみなこうして、古くからの霊験あらたかな神のいます山岳に仏教がかぶさって成立したものです。

 すなわち、古来からの霊山に、仏教の教理にもとづくさまざまな仏様――大日如来とか薬師如来とか弥勒菩薩とか不動明王とかが祀られ、その寺が建てられたりしますと、やがて、そこのもともとの神様――ほとんどが自然そのものをご神体とした素朴な在来の神様は、それらの仏・菩薩を守るための神「仏法守護神」として取り込まれたり、あるいは「本地垂迹説」といいますが、仏・菩薩が仮に神の姿をとって、すなわち権現となって、衆生を救済するとする、仏の仮の姿にされてしまったのですね。

 この神仏習合というのは奈良時代からはじまるのですが、これには三つのパターンがあるとされています。ひとつは、神は迷える存在であり、仏の救済を必要とする、という考え方。すなわち、神は人と同じように仏によって救われるべき存在という考え方です。つぎは、神は仏法を守護するという考え方。さきほどいった仏法守護神ですね。もうひとつが、神はじつは衆生を救済するために仏が姿を変えて現れたもの、とする考え方です。前二つの考え方は奈良時代からはじまるのですが、三つ目はやや遅れて平安時代に盛んになる本地垂迹説というものです。
 くりかえしますと、神の本地(本体)は仏であり、その仏が日本の人々を救うために仮に神の姿をとって現れた――仮の姿をとって現れることを垂迹というのですが、本地である仏が垂迹した、それが日本の神にほかならない、とするのが本地垂迹説ですね。

 ということで、吉野の金峯山で祀られる金剛蔵王権現は釈迦如来が仮の姿をとったもの、熊野では、熊野本宮・熊野坐(くまのにます)神社の祭神・家津御子神(いえつみこのかみ)の本地は阿弥陀如来、新宮・熊野速玉(はやたま)神社の祭神・速玉神の本地は薬師如来、熊野那智神社の祭神・夫須美神(ふすみのかみ)の本地は千手観音菩薩とされ、また出羽三山では、羽黒山の伊氐波(いでは)神社では聖観音、月山神社では阿弥陀如来、湯殿山神社では大日如来が祀られたのです。
 これは修験道に限らず、伊勢神宮は大日如来とされましたし、気比神宮は千手観音、厳島神社は弁才天とされたように、全般的に神仏習合はすすみましたが、とりわけ修験道・山岳信仰ではその傾向が強かったのですね。その意味では、複合宗教としての日本の宗教、日本の宗教文化のありようをもっともよく表わしているのが修験道・山岳宗教のようにも思われます。

 いまみたように修験道では、日本古来の神々に仏教がかぶさってきたのですが、仏教のほうも、日本の在来の神々を取り込みました。それは、地主神や伽藍神(寺院の鎮守)としてです。
 たとえば高野山では、道場を開くべき場所を探していた空海は、山の中でひとりの猟師に出会います。身の丈は8尺に近い大男で、全身深紅色に染まり、黒と白の二頭の犬を連れています。この男は空海を自分の母のもとに案内し、空海に、伽藍を建てる土地を提供しよう、伽藍の建立にも協力しようと申し出るのです。この猟師は狩場明神、またの名を高野明神、そしてその母は丹生津比咩神(にうつひめのかみ)、丹生明神といって、共に高野山の地主神・鎮守になるのです。

 この丹生津比咩の「丹生」の「丹(たん)」。これは朱砂ともよばれる鮮やかな朱色をした鉱物で、おもに水銀の原料とされますが、その朱色は霊力をもつものとされて、寺院や神社の荘厳や、印の朱肉に使われ、また、これから作った薬・丹薬は、不老長寿や、仙人になって空中を自由に飛行できるようになる薬ということで、たいへん貴重な鉱物だったのです。
 この丹の採取に携わった古代氏族が丹生氏で、最初のほうで、山の民は鉱物を独占したことで力をもっていた、といいましたが、その山の民である丹生氏が空海を受け入れ協力したことで高野山は開かれたということですね。
 最澄の比叡山でも、大山咋神(おおやまくいのかみ)や大己貴神(おおなむちのかみ)が地主神として祀られています。

 高野山では、壇上伽藍とよばれる高野山の宗教的中心の一画に、この狩場明神と丹生明神、後に勧請した気比と厳島の神を祀った社がありまして、そこでお祀りしているのですが、そのほか、毎年交替で、長年修行を重ねた僧二人が、それぞれ自分の坊に特別な部屋をしつらえて、そこにこの両明神をお迎えして、一年間、精進潔斎し、山外不出で――その一年間は一歩も高野山の外に出ることなく、ひたすらお仕えします。上綱(じょうご)とか法印という僧侶としての高い位につくためには、かならず経なければならない過程です。

 それから、高野山で僧はいろいろなお勤めをするわけですが、最後にはかならず「南無大明神、南無大明神」とこの地主神の名号を唱えて祈願します。さらにですね、毎日の朝のお勤めでは、本堂での勤行の後、縁側に出て、皆で揃って、東に向かって天照大神、立里荒神という神様、池に祀られている弁天、明神社の方に向かって狩場明神と丹生明神、それらにむかって拍手を打って礼拝をします。
 このように仏教の側でも神仏習合はすすんでいるのですが、これは、修験道に大きな影響を与えた密教――高野山の真言宗や比叡山の天台宗にとりわけ顕著です。

◆ 御霊信仰と呪術の力

 さて話を戻しまして、修験道が皇族・貴族や、鎌倉・室町からは武士や庶民にも広がって人々の信望を集めたのは、その呪術の力なのですね。なんのための呪術かといえば、修験道が盛んになった平安時代には、鎮護国家や五穀豊穣、雨を降らせたり止めたりです。そういう国家全体の守護や利益ですね。それから、皇族や貴族の病気平癒や安産祈願とか、さらには政敵を倒すとか、ですね。

 面白いのは、怨霊調伏――怨霊をなだめ鎮めることです。これについて少し説明しますと、「御霊(ごりょう)信仰」というのがありました。これは早良親王とか菅原道真とか、政治的な争いや陰謀などで恨みを呑んで死んでいった人の怨霊が、疫病をはやらせたり、洪水とか地震とかいろいろな災厄をもたらすのです。
 とくに有名なのが菅原道真の怨霊でして、彼は右大臣という官僚として最高の位にまで登るのですが、それを妬んだ陰謀によって大宰府に左遷され、その配流の地で憤死します。道真が死ぬと、道真の祟りとされる異変が方々で起こるようになります。とりわけ、道真の怨霊は雷神となって猛威をふるい、ついには天皇の御座所である清涼殿に落雷して多くの宮廷の役人を殺傷し、彼を配流にした醍醐天皇まで地獄に落としてしまうのですね。「火雷天神」として人々に恐れられました。
 こういう、恨みを呑んで死んでいって現世に災厄をもたらす怨霊を「御霊」というのですが、それをなだめ鎮める、あるいはやっつけるのに、修験や密教僧の呪術が使われたのです。

 菅原道真の御霊を鎮めたのは金峯山の金剛蔵王権現でした。怨霊や魔物に対抗するには、それだけのパワーが必要なわけでして、そのため金剛蔵王は恐ろしい忿怒の形相――怒った姿・形をしているのですね。
 役行者が金剛蔵王権現を出現させたとき、はじめ行者の祈りに応えて釈迦が出てきたのですが、これを退け、つぎに千手観音が出てきたのですがこれも退け、そのつぎには弥勒が出てきたのですがこれも退け、そして最後にようやく青黒く忿怒の形相いかめしい金剛蔵王権現が現れたので、喜んでこれを本尊にした、と伝説は語っているのですが、これもそういうことでしょう。

 修験道ではこの蔵王権現と並んで不動明王も儀礼の本尊としてよく使われる、といいますか、尊重されているのですが、不動明王も忿怒の形相ものすごく、火焔を背負って右手に剣、左手に索をもった恐ろしい姿ですね。このような恐ろしげな仏様や神様が修験道では尊ばれています。

 こうした鎮護国家や怨霊調伏、あるいは政敵を呪い倒したり、それから守ったり、というのは平安時代から室町時代の貴族社会でのことですが、修験者たちは、さらに時代が下ると、庶民にむけても、かれらがもつ呪術の力を使ってさまざまな働きかけをしました。山を下ってきて各地を廻って、これを「檀那を廻る」「廻檀」というのですが、霊山への参詣登山を勧めたり――修験者は参詣者を山に案内したり、宿坊に泊めたり、祈祷をしたりするわけで、そういう参詣を募ったり、招福除災のお札を摺って配ったり、霊山のキハダなどを原料にした薬――陀羅尼助、反魂丹、熊の胆などを配ったり、また、いわゆる山伏神楽を舞って豊作や無病息災、長寿や火伏せを祈ったりもしました。

 さらに、「里修験」「里山伏」といいまして、もはや平地の地域社会に定住して、そこで占いや加持祈祷を行う者も出てきました。占いは、日や方角の吉凶をみたり、家相・地相を占ったりしました。加持祈祷は護摩を焚いてしますが、より簡単には、依頼者に向かって錫杖という鈴がついた棒のようなものを振って、不動経などを唱えたり、真言(呪文)を唱える修法が行われました。

 病気治しもしましたが、それはこんなふうにしたのです――病気は悪い霊がついたり祟ったりして起きると考えて、まずその憑いた霊(憑依霊)がなにかを調べることからはじめます。これには、妻や身近な女性に神の霊をよりつかせ、神がかりにして託宣を得る憑祈祷(よりぎとう)がよく行われました。こうして患者についた霊がわかれば、その憑依霊に応じて「つきもの落し」をして病気を治すのです。
 どういうことをするかといいますと、お経などを読んで説得して退散させるとか、弓や刀で威嚇して追い出すとか、憑依霊を取り出して竹筒などに封じ込めて四辻に埋める、などということをしました。また「九字を切る」――「臨兵闘者皆陣列在前」と唱えて手刀を切るとか、「不動金縛法」といって患者を縛り上げるとか、鞭で叩く「摩利支天鞭法」などというのも、つきもの落しに使われました。意識を失って脱魂状態になった患者に対しては、その霊魂を取り戻して身体につける作法も行いました。こんな活動をしていたのですね。

◆ 修験道をめぐる有為転変、とりわけ神仏分離令

 山岳の神秘的な自然の中で厳しい修行をして身に着けた霊力・験力をもって、このような活動をしていた修験道および修験者たちですが、時代とともにいろいろなことがありました。
 戦国時代には、心身の鍛錬を重ね、諸国の地理に詳しく、神出鬼没の活動をする山伏は、情報の収集と伝達の能力を買われて隠密になったり、伊賀、甲賀、根来などの忍者と深いかかわりがあったり、ということもあったようですし、江戸時代に入ると、幕府によって統制が強められる一方、庶民が講を組織して修験者を先達に富士山や木曾御嶽に登拝することが盛んになったりと、歴史的な変化がさまざまあったのですが、とりわけ大きな影響を与えたのが明治の神仏分離令でした。

 ご存知のように、神道の国教化を図った明治政府は、慶応四年(1868年)、王政復古令を出して、神仏を分離し、神社にいる僧侶は還俗させ、神社にある仏像・鐘・仏具の類はいっさい取り除くよう通達しました。いわゆる「神仏分離令」ですが、これは、仏教や民俗宗教の部分を除いて神道を純化し、それも記紀神話――古事記や日本書紀に出てくる神話を天皇家に結びつけて天皇の権威を高め、いわば天皇を神として、その神道によって国民意識を統合し、ナショナリズムを強化し、富国強兵を推し進める精神的支柱にしよう、戦争遂行の精神的支柱にしようとしたのですね。これによって、日本の宗教の基本的性格は神仏習合――神道も仏教も民俗宗教も渾然と溶け込んだ融通無碍な豊かさにあったのですが、その豊かな文化伝統は毀されてしまったのです。
 神仏分離令の結果、霊山の神社では、中央から派遣された神道国教化の理念に燃える宮司や、それまで僧侶に抑えられていた神職が主導する「廃仏毀釈」が頻発しました。実際に仏像、仏具、経典のことごとくを打ち毀し焼き捨てるということが各地で行われたのです。

 この神仏分離令に追い討ちをかけて、明治五年(1872年)には修験宗廃止令が発せられます。まさに神仏習合であった修験道が槍玉に挙げられたのですね。これにより、修験は以後、仏教教団に所属することになりました。本山派や吉野修験、羽黒修験は天台宗に、当山派は真言宗に所属することになりました。これで修験ではなく、僧としての活動しかできなくなったのです。
 それでも、廃仏毀釈の嵐が一段落した明治中期以降、教派神道などの形で、細々と活動を続けますが、太平洋戦争で敗戦した昭和二十年、連合国軍総司令部(GHQ)によって国家神道が廃止され、政教分離と信教の自由が定められ、宗教法人令が公布されて、ようやく、明治政府によって廃止され仏教教団の中に閉じ込められていた修験教団が、相次いで独立することになりました。現在、70あまりの教団があり、1,200万人ほどの信者がいるとされています。

 以上、歴史をざっとみながら、修験道とはどのようなものかみてきたのですが、最後に、現在行われている修行についてみておきましょう。

◆ 修験道の修行

 修験の行では、比叡山の「回峰行」や大峯の「奥駈」が有名ですね。それぞれ簡単にご紹介しましょう。

 比叡山の回峰行、これは、そこにある山川草木、石くれにいたるまですべて仏身、とされる比叡山の霊地を、7年間かけて、のべ一千日回峰する(廻る)ものです。
 身なりは、テレビなどでご覧になったことがあると思いますが、白装束――白麻の狩衣に白の手甲・脚絆、素足に草鞋をはき、頭に法華笠をかぶる、といういでたちで、深夜の二時頃、ただ一人で出立して、朝方帰ってくる。このあいだに、無動寺から、東塔、西塔、横川の三つの塔を巡って、山を下って日吉神社を拝み、坂本の町を経て不動坂を上がって無動寺に帰る約30キロのコースを、歩くというより走るのですね。

 初年度は三月から七月にかけて100日間これを行います。ちなみに、比叡山にある塔頭の住職になるためにはこの100日の回峰行は必ずしなくてはなりません。
 二年目と三年目も、初年度と同様に各100日間、同じ道を30キロ歩き、四年目と五年目には同じ距離をそれぞれ200日歩きます。そして五年目に計700日の回峰を終えると、無動寺谷の明王院に籠もって9日間、断食、断水(水を飲まない)、不眠(眠らない)、不臥(横にならない)を守って十万編、不動明王の真言を唱える――不動明王の真言というのは、ノウマクサマンダバザラダン、センダマカロシャダソワタヤウンタラカンマン、というのですがこれを十万遍唱える。そういう「堂入り」というのがあります。

 断食だけでなく、断水、不眠、不臥ですからこれは大変です。普通なら三日が限度といわれます。四・五日目から瞳孔が開き、肌に死斑が現れ、身体から死臭が漂うようになる。それを信心と気力で耐えるのですね。この堂入りを終えた行者は信者たちから「生き仏」と崇められますが、痩せ衰えた行者はまわりの助けなしには立つことも坐ることもできず、他人の有難さをつくづく悟るそうです。そのため、堂入りまでは自分の行でも、堂入りのあとは他人のために祈る行になるといわれます。

 六年目からは杖をもつことが許されますが、京都の修学院に近い赤山明神を往復する30キロが加わって一日60キロになる。最後の七年目には、赤山明神を拝したうえで京都を一周する84キロを、道筋に集まる信者に加持しながら廻る、これを100日。そしてそのあとは堂入り前までの30キロの行程をもう100日。これで千日になります。これを終えると9日間また無動寺に籠って断食しながら700回、護摩を焚く。
 こうして無事、回峰行をやり終えると、その人は生身の不動明王になったとされるのです。

 しかしこれを達成できる人は僅かです。千日回峰行は平安中期から始まったとされていますが、記録が残る織田信長の比叡山焼き討ち(1571年)以降50人しかいません。戦後は13人。有名な酒井雄哉師は二回これを満行しています。
 これはいま比叡山の回峰行でみましたが、同じような回峰行を吉野の金峯山寺を総本山とする金峯山修験本宗などでもやっています。

 これに比べると、吉野から熊野の大峯奥駈、これは初心者も参加できる、回峰行などよりは楽な行です。といってもそれなり大変ですが。

一、行者は一切の学歴、経歴、年齢を問うことなく、虚心に修道に努めること。
一、行者は篤く蔵王権現、並びに大峯護法善神に帰依し、謹んで師長の教えを受け、自主的に実修・実験して、みな同心・同行を旨とすべし。

 これは奥駈出発を前に大先達の前で行者一同が宣誓する箇条の一部です。
 ちなみに大先達というのは長年厳しい修行を積んで到達しえた修験者・山伏の最高の位で、「不動明王の化身」とされ、その統率のもとに、先達とよばれる数人の指導者の山伏に引率されながら、行者は一団となってこの奥駈行を行います。一団の人数はときによって違いますが、たいてい数十人、50人前後です。

 朝まだ明けやらぬ金峯山寺、水分神社、金精大明神と、それぞれに勤行――般若心経、九条錫杖などのお経を読んだり、仏・菩薩、不動明王の真言、役行者の宝号などを唱えるお勤めをしながら進んでいきます。
 仏・菩薩の真言というのは、それぞれの仏・菩薩を讃えるサンスクリット語の呪文で、たとえば、大日如来ならオンアビラウンケンバザラダトバン。薬師如来ならオンコロコロセンダリマトウギソワカ。聖観音ならオンアロリキャソワカ。弥勒菩薩ならオンバイタレイアソワカ。不動明王ならさきほどのノウマクサマンダバザラダン。というふうにすべての仏・菩薩にはきまった真言がありまして、それを唱える。役行者の宝号は「南無神変(じんぺん)大菩薩」です。そういうお勤めをしながら進んでいきます。
 この奥駈道には30分か1時間歩くたびに靡(なびき)あるいは宿(しゅく)とよばれる行場があるのですが、各行場ごとに、こうした真言を唱えたりお経を読む勤行が行われるのです。

 金峯神社では、宮司のお祓いののち、初参加者――これを新客(しんぎゃく)といいますが、に対しては、「隠れ塔」あるいは「蹴抜塔(けぬきとう)」とよばれるお堂で、ちょっと変わった儀式が行われます。
 木造二間四方の窓のない堂内に新客が入れられて、入り口は密閉され、真っ暗になります。前後の人と身体を接しながら、宮司がうたう「吉野なる深山(みやま)の奥の隠れ塔、ほんらい空の棲家なりけり、オンアビラウンケンソワカ、南無神変大菩薩」という歌に唱和しながら堂内を廻ります。二度繰り返してまさに終わろうとするとき、突如、その真っ暗闇の頭上で耳を聾せんばかりに鐘が乱打されて、大音響に皆、びっくり仰天、気が動転します。鐘の余韻が静まるころ、戸が開かれて堂内が明るくなると、ようやく我に返る。
 これは「気(け)抜き」――つまり魂を抜き去る「脱魂」ですね、俗人としての「わが身の死」を意味します。これから大峯山中で「十界修行」――地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天、声聞、縁覚、菩薩、仏の階梯を辿る十界修行をして、即身成仏の聖なる行者に生まれ変わる、いわゆる擬死再生のシンボリックな行なのです。

 さてここから、8泊9日ぐらいで、前半は女人禁制――いまでも女人禁制の山上ケ岳、弥山(みせん)、前鬼山(ぜんきやま)まで、後半は女性行者も参加できる笠捨山、宝冠森、玉置山を経て、熊野三山を詣で、那智勝浦の越ノ湯で精進明けの宴を催して解散するのですが、このあいだ大峯山中では、粗食に耐え、毎日、午前3時起床、4時には出発して、靡で勤行しながら一日11時間くらい歩く。山道を1時間歩いて5分ほどの休憩、弁当の時間も10分くらい。雨なら立ったまま食べる。ただひたすら熊野をめざして進みます。そのあいだには、一歩誤れば千尋の谷に転落する行場の恐怖や緊張感に身を引き締め、渾身の力をふりしぼって阿修羅のごとき形相で鎖に身を託し断崖を登る。こういう山岳抖擻を体験することで、はじめて、雑念から解放され、十界修行や擬死再生を実感できるのです。

 幾つかその行場をご紹介しましょう。
 「油こぼし」というのは、滑りやすい一枚岩です。その上を歩きます。
 15メートルほどもある断崖の岩場を鎖を頼りによじ登る鐘掛岩。岩壁の凹凸の手の掛けどころ、足の踏みどころを、先達の教えどおりにすれば比較的容易に登れるのですが、しかし自分の判断で登ろうとすると途中で手足がもつれて身動きがとれなくなってしまいます。
 奥駈は、わざと急坂や痩尾根を歩いたり、岩壁や岩峰の行場に導くのですが、その典型は「西ノ覗(にしののぞき)」です。谷底まで300メートルはあろう高さにオーバーハングして突き出た岩に、新客は腹這いになり、先達が握る一本のロープを襷掛けにして、岩壁から身を乗り出して合掌して谷底を覗くのですね。覗くというより、頭を下に吊り下げられる、といったほうが適切です。
 足首をしっかり握ってくれているはずですが、不安や恐怖は消えません。しかも、ロープを一瞬緩められたりするから、たまりません。「真面目に働けよ! 女房を泣かすなよ!」とか、年少者には「しっかり勉強するか! 親孝行せなあかんぞ!」とか、この状態で先達に責め立てられ、「ハイ! ハイ!」と絶叫するばかりになるのですね。

 このような試練に耐え、「サンケ・サンケ、六根清浄」と皆で揃って唱える山念仏に励まされながら、そして自らを励ましながら、熊野をめざすのです。それだけに、この行を達成したときの達成感、すがすがしい気持ちはまた格別なようです。

 さきほど「擬死再生」といいましたが、修験道の峰入りでは、最初に死と受胎を象徴する儀礼が行われまして、山は母の胎内、行者自身は胎児、その胎児が胎内でさまざまな修行をして十界修行を成就することによって、即身成仏の行者に生まれ変わって、山を出て衆生を救済する、ということがその思想的な意味であるわけです。
 そういう意味でこの大峯奥駈も行われているのですが、擬死再生の観念は、出羽三山の羽黒修験のほうでより鮮明に表現されているようです。

 羽黒修験の「秋の峰入り」では、羽黒山の荒沢寺というところを拠点に9日間の行が営まれるのですが、行入りの前日、「笈からがき」――笈というのは山伏が仏具などを入れて背に負う箱ですが、その箱をまつる「笈からがき」という儀式を行います。笈は棺箱につうじ、じつはこれは、自分の葬式を意味しています。
 いよいよ行に入る初日の最初に、黄金堂という建物の前で、梵天――梵天というのは、御幣をつけた3メートルあまりもある柱ですが、その梵天を、大先達が阿吽の声とともに黄金堂の方に投げるようにして倒す「梵天たおし」という儀式が行われます。これは夫婦和合――黄金堂は女性器、梵天は男性器の象徴で、すなわち性行為を意味していまして、これで受胎が行われたわけです。
 前日の「笈からがき」の葬式、そして翌日の「梵天たおし」による受胎。

 こうして受胎した新しい生命すなわち行者は、羽黒山という胎内で、さまざまな苦しみを経ながら修行することになるのでして、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天、声聞、縁覚、菩薩、仏の十の段階を踏むわけです。
 修行の「地獄、餓鬼、畜生」の段階では、行者は顔も洗わず歯も磨かず、断食をつづけ、後日の柴燈護摩――屋外で営む大掛かりな護摩のために樹木を伐採するなどの労働をして、さらには五体投地の礼拝を繰り返す、などのことをはたさなければなりません。
 しかも堂内でお経を読むあいだは「南蛮いぶし」といって、これは唐辛子の粉末に炒り糠と乾燥させたドクダミを混ぜたものを、大きな火鉢で焚いて、もうもうたる煙を堂内に充満させるものでして、読経をつづける誰もが、鼻水は出る、涙は流れる、咳き込む、といったぐあいで、まさに地獄の苦しみを味わうのですね。

 そして「修羅」の行では、闘争心を象徴する相撲――天狗相撲に取り組んで、くたくたになるまで肉体を痛めつける。そうして柴燈護摩の火の行になって、謡をうたって、般若心経を千回唱える行があって、と、いろいろありまして、九日目の最終日には、山を下って、黄金堂の前で焚かれる祖霊の迎え火を「おーっ」「おーっ」と産声を上げながら跳び越える儀式があります。これは「出生」と書いて「でなり」と読むのですが、文字通り、新たな生命の誕生を意味する儀式ですね。こうして「擬死再生」は完成したわけです。

 まあ、いろいろな行がありますが、祖霊が鎮まり神霊が宿る聖なる山々を抖擻して、わが身の穢れを祓い、すべての迷いから脱け出て再生する。そして仏となった己が人々を救い、社会に奉仕する。これが修験道、修験者・山伏の最大の願い、究極の目的なのです。

◆ おわりに

 以上、修験道を軸に日本の山岳宗教の話をさせていただきました。かなりややこしい話もあって、わかりにくかった点も多々あったかと思いますが、モノ中心・経済中心の価値観のもとで自然環境が破壊されていく現状、また、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など唯一絶対神を仰ぐ信仰が激しい対立・抗争をひき起こしている状況をみますと、こういう、自然への畏敬を基盤に、神も仏も魑魅魍魎も渾然一体に溶け込んだ、日本の伝統的な宗教のありかた、文化のありかた、価値観のありかたというものも、もう一度、再評価していいものに思えるのですね。
 なにより、日本人は元来、山に登るにしても、山に挑戦するとか山を征服するとか、そういう意識をもつことはありませんでした。山は祖霊が鎮まり神霊がいます聖なる世界であり、そこに踏み入るには、おのずと山に対する人間の慎みがあったのです。その慎みをもつ人のみが、山に分け入り、己を清め、鍛え、豊かにし、祈りを捧げることができたのです。
 そうした日本人の山への意識、自然への意識、生命への意識、信仰のありようを見詰めることも、意義のあることではないかと思うのです。

 (元桜美林大学教授・オルタ編集委員)

※この記事は「仏教に親しむ会」第62回例会(2016.12.2)の講演記録で文責はオルタ編集部にあります。


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