■投稿「オルタのこだま」               

小泉劇場閉幕後の憂うべきこと-西村先生の論述に期待する                今井 正敏

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□『オルタ』の冒頭で毎号健筆を振るっておられる西村徹大坂女子大学名誉教授
の『オルタ』32号では、靖国神社問題の総まとめとも言うべきプロットを、
「死者をして死者を葬らしめよ-靖国および天皇について」のタイトルで論述さ
れておられるが、その筆ぽうはまことに鋭く、問題とされる箇所を一刀両断、仮
借なく論破されておられたので、大変に読みごたえがあった。

 拝読し終わって、私の胸中に焼き付いた文言をいくつか例にあげると、
○まず靖国神社の戦争観が表現、陳列してある「遊就館」について
 西村先生は、『オルタ』30号(6.20発行)に、「靖国神社遊就館は泥棒
の理をのみ声高に叫んで、強盗の事実を黙秘している」と書いておられたが、今
回の32号では、その論調をさらに深めて、「博物館を名乗る以上、負の面をす
べて隠してしまうようでは、スミソニアン航空宇宙博物館が原爆展を拒んだのと
同じく、著しく説得力を欠いたもの、白く塗りたる墓になりおわるであろう」と
指摘され、「A級戦犯を合祀するのと併せて、そのほか臭いものの蓋はすべて取
り払うのが筋ではないか。そうでなければA級功成り万骨枯れることになるだろ
う。祭神はほとんどが労働者、農民であり、職業軍人は一握りにすぎないことを
神社はぬめ忘れてはなるまい」と力説しておられる。

 私は、靖国神社問題に関する著作物や、雑誌に書かれた論調等は、あらかた目
を通したつもりでいるが、「遊就館」を「白く塗りたる墓」とまで表現したのは、
西村先生以外には、まったく見あたらなかった。
 8月29日付の朝日新聞は、「靖国神社側も、遊就館の展示のうち、「誤解を
招く表現」の見直しを検討、年内に変更する方針だという」と報じていたが、ど
この部分をどう直すのか、注視していたいと思っている。

○次に「富田メモの空騒ぎ」について。
 7月20日に、新聞各紙が一斉に、故富田元宮内庁長官が、昭和天皇が靖国神
社のA級戦犯の合しに不快感を抱き、「だから、私あれ以来参拝していない、そ
れが私の心だ」と言ったというメモを、手帳に張り付けていたことを報じて以来、
この「富田メモ」が、各方面に大きな波紋を巻き起こすようになったが、西村先
生は、新聞各紙の報道ぶりと社説をそれぞれ紹介したあとで、「天皇陛下バンザ
イと叫ぶ新聞」という見出しで、次のように記述しておられる。
 「カタコトのような言葉を「重い」とか「大事に」とか、メディアがこんなに
鬼の首を取ったようにはしゃぐほどのことだろうか。首相参拝を阻止したいと逸
る気持ちは分からぬでない。小泉改革へのほう間の度が過ぎた埋め合わせをしな
ければという焦りもあろう。しかし紙切れ一つでここまではしゃいでよいものか」。
 論旨まことに明快。西村先生の見る目は鋭く、筆致はきびしい。そして、下記
のように所感を述べておられる。

 「天皇発言を富田メモどおりだとすると、上奏裁可の手続きを、じつは踏む必
要もないのに踏んでいる松平永芳について、「親の心子知らずと思っている」な
どというのは、身勝手で卑怯ということになろう。少なくとも、その狼狽ぶりは
にく出ている。「昭和天皇が不快感」という見出しではなく、「昭和天皇が狼狽」
でもよかったろうと思う」。
 西村先生は、「月並みが多い識者のコメントのなかで、目の澄んだ、しかもひ
ねりの効いた批評にはなかなかお目にかかれない」ともいわれておられるが、上
記の所感は、文字通りひねりの効いた批評といってよいのではないかと思われる。

○小泉首相の「忠義」
 この富田メモ問題に対する小泉首相(この『オルタ』33号が出るころは、前
首相になっているだろうが)の態度について、西村先生は、珍しく、次のような
好意的な評価をしておられる。
 「テレビを通してでなく活字になった首相の、純粋に発言だけを見ると、富田
メモについて、これまで出てきたものの中でいちばんまともなものに思える。い
ちばんは言いすぎかも知らないが、珍しく天皇へのおもねりがまったくない。も
ちろんこだわりもない。(中略)人の逝かんとする、その言やよし、というとこ
ろか(中略)、天皇の言葉など歯牙にもかけない。水際立ってみごとな脱天皇だ。
信長気取りだというが、それならそれでかまわない。苦しまぎれに虚勢をはって
いるだけかもしれないが、それならそれでもかまわない。(中略)まさに卑劣な
連中から不忠のレッテルを貼られてもおかしくないほど徹底して天皇の呪縛から
自由であった。今の皇室がよろこぶであろうほどに自由であった。天皇の呪縛は
国民だけでなく天皇自身をも呪縛するものであったのだろから、呪縛を解くのは
「不忠」であるより、「忠義」であったろう。(中略)脱天皇発言を私は評価す
る」。
○本気でなかった小泉首相の靖国参拝
 上記のように小泉首相の脱天皇発言を評価した西村先生も、本命の靖国神社参
拝のことになると、一転してその筆ぽうはきびしくなる。「小泉首相の靖国参拝
は本気でない」と断じて、以下のように論述しておられる。
 「八月十五日に参拝するというのも本気で考えた日取りではない。(中略)靖
国が神道の神社である以上春秋の例大祭が大切なことは自明である。日本が負け
た八月十五日はまったく特別の日ではない。取ってつけたように八月十五日に参
拝するというのは、いま生きている、つまり総裁選の票になる遺族のことしか頭
にないからのことだ」。

 そして、後段で上記の記述を敷延して、次のように述べておられる。
 「首相になる前は靖国にまるで関心はなかった。橋本竜太郎の票を奪うために
8.15参拝の公約をしただけのことだ(中略)。
 おそらくいま彼は五年前に転がり込んだ権力に酔いしれてへべれけで、自分の
一挙手一投足によって人々が右往左往するのが面白くて面白くてたまらないので
あろう。権力はこのようにしてかならず腐敗する」。

○無機質なファシズムを憂う
 五年有余にわたって多くの人びとを右往左往させた「小泉劇場」も、この九月
でようやくその幕を閉じた。
 このエピローグを迎えて、国民の関心は、次の政局の行方、国民生活の変化、
日本国の進路等々に目が向けられるようになると思うのだが、現在、言論界で活
躍しておられるノンフィクション作家の保阪正康氏は、8月26日の朝日新聞朝
刊の「私の視点」のページに、「無機質なファシズムを憂う」と題して、次のよ
うに述べておられる。

□「昭和史を検証していると、昭和10年代の日本は極端にバランスを欠いたフ
ァシズム体制だったことがわかる。この体制は、「教育の国家統制」、「情報発
信の一元化」、「弾圧立法の徹底」、「暴力装置の発動」の四つの枠組みで国民
を縛りつけ、誰もが自らの意見は口にできなくなった。今の時代をそうだとはい
わないが、小泉首相の靖国参拝の表面的な情報のみの発信は一元化につながって
いないか。八月十五日の夕方、加藤紘一氏の山形県にある実家と事務所に右翼団
体の幹部による放火事件が起きたが、これこそ自由な言論を封殺する「暴力装置
の発動」である。この事件に対する社会の怒りは少ないように思う。(中略)無
機質なファシズム体制が06年8月15日に宿っていたとは言われたくない。私
はひたすらそう叫びたいのである」。

 恐らく西村先生もこの「無機質なファシズム」の動きには、大きな関心を寄せ
ておられるように思うので、機会をみて是非、「小泉劇場」閉幕後の内外の動向
に鋭い眼を注がれて玉稿をお願いしたいと思う。
                      (筆者は元日青協本部役員)