横丁茶話

富田さん さようなら

西村 徹

 4月7日月曜日、富田昌宏代表がお亡くなりになったと伺いました。謹んでお悔やみ申し上げます。毎号欠かさず俳句をお寄せになっていましたが、あの欄がもう見られなくなるのはさびしいかぎりです。しかし、こうも考えられるのではと存じます。84年の短くはない生涯を全うされ、そして最後の務めを果たされたのではないかと。富田さんより四年ばかり多く生きてしまった私は、先立っていった友人たちを羨ましく思う気持ちが、近ごろ日増しに強くなって来る気がしております。

 人は一度、しかしただ一度だけ、四苦の仕上げとして死ななければならないようにできています。どうせなら悪い時代を見ないで済むのがいいと思います。どうもこれからいい時代が来る気配はほとんど感じられません。ろくでもない時代になりそうな塩梅です。その意味で富田さんは、むしろいい時期にお亡くなりではないかという気もいたします。

 そこで唐突ですが思い出します。昭和18年の、たぶんそれは11月2日ではなかったかと思います。私は金沢の浅野川近くの、横山町に下宿していました。その家は母親と三人姉妹という、なんともはんなりした家でした。いちばん上の姉は、高校生、とりわけ私らより先輩たちのあいだで「芝生のオケイ」と呼ばれる伝説的なマドンナでした。だから先輩たちにはずいぶん嫉まれました。オケイさんは喫茶店のウエートレスですが、いわば文学女給で、「日本海」という詩の同人誌のメンバーでもありました。どんな感性の持ち主であったか一例を挙げます。高校の同窓会紙の最終号に一文を寄せ、最後を締めくくった句があります。

  花吹雪 恋五十年の 行方かな

 こういう女性ですから私などはまるきり子ども扱いでした。しかしよく話のお相手をさせられました。そして「白秋はいい時に死んだわ」と言いました。北原白秋の死んだのは昭和17年11月2日です。たぶん一年経って昭和18年11月2日の新聞かラジオに一周忌のニュースがあったのでしょう。だからその日にこういうオケイ節を聞いたのだと思うのです。学徒出陣が決まったのは同年10月20日。その後櫛の歯の抜けるように学生は駆り立てられていきました。一年前とは様変わりでした。日本は音を立てて奈落の底に落ちてゆきました。白秋はさいわいそれを見ずに死んだというわけです。

 おなじように富田さんも、あるいは禍々しく様変わりする日本の行く末を見ずにすんだかもしれません。合掌。(2014年4月10日)

 (筆者は堺市在住・大阪女子大学名誉教授)