安東自由大学で出会った人と歴史散歩       山中 和雄


□1.『賎貧之交不同忘』


  元ノルウェー大使ヤン(梁世勳)さんの尊妻ハンさんがインサドン(仁寺洞)
で陶器の個展を開くというので、観光を兼ねて五月晴れのソウルを訪問した。オ
ープニングセレモニーの後、ヤンさんが珍しい所へご案内しましょうと、とある
居酒屋に出かけた。彼が学生時代通った居酒屋で、金がなくても学生証を見せれ
ば飲ませてくれたそうだ。といっても名門ソウル大学の学生証だが。この宴会に
はハンさんのオープニングに駆けつけた家族を始め日本、ハワイを始め海外から
のゲスト。そしてヤンさんの交友関係の広さを示す人たち。3月に原宿で個展を
開いた冬ソナの背景画を書いた女流画家やプロデューサー、ジャーナリスト、韓
国在住の精鋭の日本人教授、島根から駆けつけた染物作家、私たちの韓国訪問を
機会に安東自由大学の打ち合わせにテグから駆けつけて来たチェ(崔)さんら。

 外国大使館勤務が長かったにも拘わらず、官僚の持つ厭味などこれっぽっちも
感じさせないヤンさんを囲んで、多士済々、年齢も多岐に亘る人々の大宴席とな
った。勿論共通の大先輩、元労働長官のコン(権重東)さんも同席している。今
宵の隠れた主賓はコンさんだ。実はこの居酒屋の板壁にコンさんの落書きが残っ
ているのだ。 彼が韓国の労働運動にすべてをささげた時代の証である。55年の
歴史を刻んだこの居酒屋の、コンさんへの尊敬と人柄への思慕が想像できる。こ
の店も近々区画整理で取り壊されるという。

 『賎貧之交不同忘 後漢霊帝』と私には読めた。ヤンバン(両班)であった安
東権氏の一族に生まれ、幼少年期に日本帝国主義の教育を受け、長じて韓国労働
運動の勃興期に活躍し、牢獄に囚われ、しかしその後、労働長官を務め、今なお
韓国ILO協会会長として賎貧の幸せのために一生を捧げているコンさんへの青雲
の志、ここに健在なり!先輩に敬慕を表わすヤンさんの粋なもてなしにも乾杯!
 
この二人こそ、安東自由大学を3年間作り上げた功労者である。これといった
拠り所のない所から、あらゆる知古としがらみを解きほぐし、編み上げて、東ア
ジア市民に大きな贈り物を下さった。
  安東自由大学は日韓の市民のネットワークが生み出した稀有な東アジア市民社
会の宝物だと思っている。
  安東自由大学はある新聞に載った緒方恵子さんの記事を初岡昌一郎さんが目に
留めたことがきっかけだった。韓国で初めて公務員として採用された若き日本人
女性。それに旧友のコンさんとが重なって、2007年1月、厳冬の中、安東訪問が
実現した。


□2.携帯トイレ


  凍てつく安東を訪れたのは7人。安東出身のコン長官は安東権氏の一族である。
地元ではいまだに長官と呼ばれている。元ノルウェー大使の梁世勲氏も韓国で
は大使と呼ばれる。この二人は韓国人だから、日本人は5人。安東での3日間を
終えるころには、この7人の中には国籍の障害はすっかり取り払われていた。7
人は東アジアの同時代を生きる同志としてすっかり意気投合した。

■"安東の地で東アジア市民による大学を作ろう"■
 
こうして資力もキャンパスもないけれど、「すべてが教師、すべてが生徒」を
合言葉に「安東自由大学」が誕生した。大学の中心人物は、韓国の二人の永年の
友人であり、東アジア市民社会のネットワーク形成を生涯のテーマとされている
初岡昌一郎さんである。さらに、触れておかなければならないのは、安東市役所
の緒方恵子さん、安東祝祭観光課の崔宗燮さんである。緒方さんは安東市長との
橋渡しをしてくれたばかりでなく、暖かい語り口の中に韓国安東の空気を伝えて
くれた。崔さんは以来三期に亘って、安東自由大学でのプログラム実施と案内、
通訳のほぼ全体を取りまとめてくれることになる。

 緒方さんは、本年の安東自由大学で安東金氏宗家の主と結婚したことを報告し
た。結婚までの経緯はそれは困難であったことだろう。そしてこれから産まれる
子どもが、現在の韓国の歴史教育の中で、どのような世界観を持った子どもに育
っていくのか。日本を故郷に持つ、人として、母として悩みは尽きない。歴史の
問題は、過去の問題ではなく未来の問題なのだと感じる。
 
  両班の家に泊まった7人は、朝鮮時代の書生と変わらぬ宿泊を体験した。500
年になろうとする艶やかな木造建築は往時の風情そのままに、しかも日頃から客
人が住めるように十分に手入れされている。外気とは障子一枚だけ隔てただけの
オンドルの部屋の意外な暖かさ。そして青年時代に戻った雑魚寝。何よりも参加
者の関心を惹きつけたのは、夜の「定期便」。障子窓を秘かに開け、真っ暗な高
い廊下から靴をまさぐりながら大きな縁台に移り、薄明かりの庭を横切って、さ
らに漆黒の厠までの旅。その道を選択しない熟年者にとっては携帯品が必携であ
った。
  そして、翌朝目覚めた私たちが目にした風景の何と絶佳なこと!
  早速、安東自由大学参加者には、一泊だけ提供することに衆議一決した。


□3.『懲毖録』から始まる


  次の日、安東市庁を訪れた私たちは、市長から一冊の本を贈呈された。『懲毖
録』(ちょうひろく)という。中身はハングルと原著の写しからなっている。豊
臣の朝鮮侵略を、朝鮮の側から書かれた貴重な記録だという。著者は柳成龍。安
東で最も大切にされている史跡、陶山書院を開いた韓国最大の儒学者である李退
渓の愛弟子だ。李退渓は1000ウォン札の肖像として韓国では知らぬ人はいない。余
談になるが、韓流俳優として人気の高いリュウ・シオンは安東柳家の末裔である。
彼の叔父の家にも、7人は泊まる機会を得た。
 
帰国して早速平凡社の東洋文庫にある『懲毖録』を見つけ、読み始めた。今思
えばこの一冊が、朝鮮史(多くは韓流歴史ドラマだったりして)に嵌ってしまう
入り口であった。『看羊録』、『海游録』そして、雨森方洲から日本の儒学実践
者へ・・・。

 文化の交流として日本と朝鮮がどれだけ影響を及ぼしあってきたか、これらの
三冊はアジア市民の交流を具体的に示してくれる。
  『海游録』の中で、著者申維翰は大阪の町を歩いて大いに驚く。路上の本屋に
『懲毖録』、『看羊録』が無造作に売られている。故郷朝鮮では、国書として庶
民の目には触れない貴重な書が・・・。
 
『海游録』は、八代将軍徳川吉宗の将軍就任を祝う朝鮮通信使の紀行文であ
る。
筆者申維翰(しんゆはん)は、正史、副使に劣らぬ役職、製述官で、通信使の
足跡を記録すると共に、詩または漢文によって日本人と応接する役目を担ってい
る。朝鮮通信使一行には当然訳官(通訳)はいたが、漢詩の交換によって文化や
思想を交流することが可能だった。

 儒学においては、教養が最も尊重されていた朝鮮ならではの役職である。ちな
みに「通信」とは、「信」を「通じる」の意である。言葉は通じなくても詩文で
交流することができたのである。そのため、日本全国の儒学の俊英のみならず、
高位の武士、学者たちが、儒学先進国の朝鮮通信使製述官と漢詩・漢文の交流を
望み、自らの詩集の前文に権威ある朝鮮文化人との詩の交流や献辞を望んだ。

そのことは当時の教養ある日本人にとっては大きな名誉であり、自らの権威を
高めるものであった。『海游録』では申維翰に教えを請う、そうした日本の知
識人の様が面白おかしく描かれている。当時の幕府お抱えの儒学の最高位に
あった大学頭「林信篤」(林羅山の子)に対しては、文体は拙朴にして様をな
さない、と辛辣な評価を下している。日本には、科挙試験によって人を採用す
る法がなく、官は大小にかかわらず全て世襲である、と日本の人材育成の問題
点を鋭く突いている。

 朝鮮通信使は、文化使節であると同時に、戦闘に劣らぬ熾烈な外交使節でもあ
った。その中でも、申維翰が、日本人の中で詩文、哲学、現実処理能力を特筆し、
互いに尊敬しあう関係にあったのが14歳年長の「雨森芳洲」である。
 
『看羊録』(かんようろく)の筆者姜沆(かんはん)は、文禄の役で義兵を組
織するも、圧倒的な日本軍を目の前にして、義兵は集まらず、亀甲船で、唯一の
戦闘を勝利に導いた李舜臣将軍の水軍に合流しようと、海路から脱出するところ
を日本軍に捕えられ、家族親戚を失う。朝鮮人の大量の耳と鼻と共に、彼は日本
に拉致された。大津、伏見に幽閉されるも、幾度か脱出を試みる反骨の士であっ
た。しかし彼の文才が当時の日本では比類なきものであったため、命を惜しまれ
、林羅山の先生であった藤原せいか惺窩のとりなしで、関が原の戦いの直前、故
国に帰還する。林羅山は徳川家康の相談役であった。故国でも、一生官職に就か
なかった姜沆は、故郷で『看羊録』を執筆して、見聞した日本の様子をつぶさに
明らかにする。

 安東は韓国の中でも特別な意味を持っている。安東ダムと水資源確保のために、
産業誘致もままならないこの地にあって、市長は観光を最大の産業と位置づけ
ている。安東仮面フェスティバルが年間最大の行事だ。安東サバ、安東シッケ、
安東焼酎など安東特有の名産もある。中でも安東焼酎の爆弾酒抜きには安東での
生活の半分は語れない。しかし何よりも安東が特別の意味で語られるのは、儒学
の中心地、という点である。私たちが宿舎に定めたのは、市中からかなり離れた
国学振興院の中にある国学文化会館である。国学とはいうまでもなく、儒学を指
している。振興院の中には、儒教博物館が併設されている。朝鮮の歴史書の原版
木は、国学振興院に附属した蔵板閣に国宝として保管されている。
 
  ところで、儒学と儒教の違いは?という疑問があるのだが、これは韓国の人々
にとっても答えが千差万別だ。時代や人の関わり方によって捉え方が違うという
ことか。ここではそこまでにしておく。ただ、荒木重雄さんが第1期安東自由大
学の講義で触れたように、日本の歴史を骨太にした人物には儒学をバックボーン
にもっていた人物が多いということは記憶に留めておきたい。曰く、熊沢蕃山、
大塩平八郎、横井小楠、樽井藤吉、加えて、アジアへの認識が平等で、普遍性を
持っていた東アジア市民の先輩たち・・・。勝海舟、田中正造。安東自由大学は、
歴史上の人々との新たな出会いをもたらし、日本の歴史を勉強しなおすいい機会
ともなった。


□4.安東自由大学から東アジア市民大学へ


  私には一つの課題があった。それは、いまお手伝いをしている教育交流協会に
とっても大事なことだ。グローバル化の時代に入って、格差の拡大は目を覆うべ
くもないものとして顕在化した。私たちは、どのような世界を子どもや、孫に残
せるのだろうか。この時代を東アジアで共に生きてきた者にとっても共通の課題
である。貧困、ワーキングプア、ホームレス、自殺者の増大。多くの人々がこの
社会が壊れかかっているのではないかと感じている。

 勿論韓国でも例外ではない。しかし、ソウルの雑踏にホームレスを見かけない
し。わずかな手間賃で働いている老人たちには貧しくとも帰る家がまだある。安
東に現存する韓国儒学の伝統で暮らす生活の中には、社会的、文化的民主主義か
ら見ると隔たりの多い慣習や儀礼も多い。しかし、安東で大切にされている人へ
の思いやり、「仁」と「情」。それを体現して私たちを迎え入れてくれた安東の
人々たち。

こうした人と人とを結びつけるものの中に、未来を見通す一筋の光を見ようと
するのは、時代錯誤だろうか。東アジアの市民が作り上げてきた市民の友好と
交流の歴史は、相手の気持ちを大切にするコミュニケーションの文化として今
なお息づいている。東アジア共同体に向けて、支えるのは市民のネットワー
クだ。参加者の感想の中にたびたび登場する「人と人とのきずな」にこそ、東ア
ジアの子どもたちが育まれていく土壌がある。安東自由大学は安東から生まれ、
東アジア市民大学として飛翔する日も近い。今度はどんな出会いが待っているだ
ろうか。
                    (筆者は安東自由大学事務局長)

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