【コラム】宗教・民族から見た同時代世界

孤立化するコプト教はかつてキリスト教世界を三分した大宗派だった

荒木 重雄
=================================================

 エジプトのコプト教について新聞やテレビで見聞きするのは、教徒が乗ったバスがイスラム過激派に襲撃されて幾人が犠牲になったとか、教会が襲われて何人死亡したとかの、比較的小さな扱いの事件報道に限られていて、そのかぎりでは、原始的な信仰を残す、孤立した弱小コミュニティのような印象をもたらすが、じつはどうして、複雑な中東の歴史を生き抜いてきた、由緒正しい宗教集団である。 宗教・宗派のモザイク模様といわれる中東の歴史を生き抜いてきた諸宗教の一例として、その歴史や実態を探ってみよう。
 まずは、コプト教とはそもそもいかなる宗教なのか。

◆◆ 独自の道を歩んだキリスト教

 「コプト」という言葉はギリシア語でエジプトを意味する「アイギュプトス」に由来する。これをアラブ人は「キプト」と省略し、のちのヨーロッパ人がさらに「コプト」と呼ぶようになった。「コプト教」とはすなわち「エジプトのキリスト教」の謂である。

 伝承では、エジプトへのキリスト教の布教は、聖書の『マルコ福音書』の記者として著名なマルコが、紀元42年頃、アレクサンドリアに教会を設立したことにはじまるとされる。
 アレクサンドリア学派の神学では、キリストを「神」としてのみ捉える(単性論)が、451年に開かれたカルケドン公会議がキリストは「神性と人性の完全な結合」と定めて、単性論を異端としたことから、これに反発したエジプトの教会は東方正教会(ギリシア正教)から離脱し、ローマカトリックにも東方正教会にも属さない独自の道を歩むこととなった。
 古代エジプト語につながるコプト語(表記はギリシア文字)を典礼語とし、「神の母」マリアへ厚い崇敬を注ぐ。

 コプト教徒は厳格主義を特徴とし、飲酒をせず煙草を吸わず、四旬節には50日以上に及んで肉や魚、乳製品を避け、聖金曜日などには一切の食べ物、飲み物を断って一日中祈り続ける。
 コプト教徒の人口は、中東を中心に米国、豪州にも広がって、世界で約5千万人といわれるが、エジプトには人口の約1割を占める830万人ほどが住む。元国連事務総長のブトロス・ガリ氏もコプト教徒である。

◆◆ エジプトの国教ともなって

 コプト教の典礼語が古代エジプト語につながるコプト語であり、教会で使われる暦が西暦でもイスラム暦でもなく古代のファラオ(王)たちも使っていたであろうコプト暦であり、また、教会の聖歌が、ファラオの死を悼み、あわせて次代のファラオの即位を祝って歌われたとおぼしき、「オ」や「エ」や「ア」の母音に節をつけて声を震わせて歌う「ペクエスロノス」であるように、コプト教は多分に古代エジプトの文化要素を引くものではあるが、このキリスト教は、エジプトの支配者がギリシア人からローマ人に替わったことも背景に、古代の多神教を駆逐して、4世紀頃にはエジプト全土で支配的となった。が、7世紀には早くも、イスラム教徒のアラブ人が侵攻する。

 イスラム帝国の支配下にあって、しかし、10世紀までは、エジプト人の大半はキリスト教を信仰し続け、13世紀まではコプト語がエジプトの共通語の地位を守り続けた。伝統的には、イスラム支配下では、異教徒は「ジズヤ」とよばれる一定の税を払えば生命、財産、名誉、信仰が保障される仕組みがあり、そのため宗教間の軋轢はほとんどなかったといわれている。

◆◆ 近代以降の政治に翻弄されて

 第一次大戦後の西欧列強によるオスマン帝国の解体は、その一部であったエジプトにも状況の流動化をもたらした。初期の対英独立運動(「1919年エジプト革命」など)では、イスラム教徒とコプト教徒は、三日月と十字架がともに描かれた旗を掲げて闘ったし、1956年に英軍を撤退させて独立を確かにした軍人政治家ナセルは「汎アラブ主義」を唱えて宗教的な偏見を持たなかったが、70年、ナセルの死去で、士官学校以来の盟友サダトが大統領に就くと、状況は一変する。彼は自分に批判的な左翼を封じ込めるため、イスラム主義者と手を結び力を与えたのだ。その力は左翼攻撃だけでなく異教徒にも及び、72年、コプト教会への放火事件が発生し、これが、宗教間の暴力的な争いの幕開けとなった。

 コプト教徒の教会建設計画などをめぐってコプト教徒とイスラム過激派や治安部隊との衝突が頻発するようになったのみならず、教科書やメディアからコプト教に関する記述や情報が抹殺されたり、コプト教徒の学童にコーランの暗誦が強制されたり、軍や官庁、大学、公営企業などの上級職にコプト教徒を就かせないなどの社会的な締めつけも進んでいった。

 81年、暗殺されたサダトの後を継いだムバラク軍事政権の下でも事態は変わらなかったが、2011年、「アラブの春」でムバラクの辞任を要求する民主化運動が高まったとき、コプト教徒はこの運動に与しなかった。民主化運動の主力にいる「イスラム同胞団」を恐れたからである。13年、その「イスラム同胞団」主体の民選政権をクーデターで倒した現シーシ政権をコプト教徒の多くが支持するのも、同じ理由からである。だがそのことが逆に、「イスラム国(IS)」系過激派からのテロを呼び込んでもいる。

 これらの脅威にコプト教徒が対応する解決策は、海外移住である。これがコプト教徒の人口の中で、エジプト以外の、米国、カナダ、豪州などの比率を高めている。もう一つは、教会に籠って、教会を実生活の面でも多機能な互助のコミュニティに固めることである。だがそれは一方で、コプト教徒の孤立化をますます進めることにもなっている。

 (元桜美林大学教授)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧