■ 海外論調短評(35)                初岡昌一郎

大混乱の瀬戸際に立つ帝国 ― 没落は突然に到来

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アメリカの国際問題専門誌『フォーリン・アフェアーズ』3/4月号の巻頭は、
著名なイギリス人歴史家、ハーバード大学ニーアル・ファーガソン教授の「複雑
性と崩壊」と題する論文で飾られている。日本語にしてしまうとタイトルの狙い
がピンとこなくなるが、英語では「コンプレクシティ・アンド・コラプス」と頭
韻を揃えたところが英国知識人好みのレトリックであろう。副題の「大混乱の瀬
戸際に立つ諸帝国」のほうが、この論文の内容を良く表している。以下に、あら
ゆる帝国は予測を超えて突然崩壊しているという、同論文の趣旨を紹介する。


◇◇大混乱の瀬戸際に立つ帝国 ― 没落は突然に到来


 これまで帝国の没落は様々な見方で説明されてきた。季節の推移のように見る
循環的歴史観や、帝国はその内部に没落要因を常に持つと言う必然的矛盾論など
が代表的なものである。

 現下のアメリカが直面する経済危機は長期的脅威の様相を示している。アメリ
カが公共財政の赤字という深みに転落するのを回避困難にしているのは、退職者
数を押しあげている高齢化の緩やかな進行が主因であって、現在の政策の結果だ
けによるものではない。ありうる政策上の変更を考慮に入れた、議会予算局の'
代替的財政シナリオ'によれば、公的債務の割合は金融危機以前の44%から、
2080年には716%という途方もないレベルに達するかもしれない。現在の
政策がそのまま続けられる場合には、約280%になると想定されている。

 数字の正確性が問題なのではない。現在の幼児が退職者になるころに具現する
危機を回避するために、今日の給付を切り下げ、増税を提案する連邦議員が一人
でもいるだろうか。同様に、グローバル経済においても歴史の歯車は真夏の古風
な水車のようにゆっくりと廻っている。ある予想によれば、中国がアメリカを2
027年には追い越すという。他の予測では2040年までには、それは実現な
いという。2050年にはインドがアメリカに追いつくと診られている。しかし、
経済力のバランスの壮大な変化は、短期的な大問題であるアフガニスタン派兵
や撤退と比較すれば、多くの人にとって遠い先の事とみえる。

 実際には、こうした概念的な歴史観の枠組みが誤っており、歴史は循環的静止
的にゆっくりと廻っているのではなく、スポーツカーのように突然加速する。崩
壊が数世紀にわたって徐々に到来するのではなく、深夜の強盗のように突然やっ
てきたらどうなるだろうか。


◇◇優勢なシステムが劣化する時


大国や帝国は、非対称的に組織され、相互に絡み合った多数の構成部分からな
る複雑なシステムである。その構造は、エジプトのピラミッドよりもシロアリの
巣に似ている。こうしたシステムはある程度の期間非常に安定しているように見
え、平衡を保っているが、実際には絶えず適応変化している。だが、複雑なシス
テムには"危機に瀕する"時が到来する。一握りの砂が砂山全体の崩壊をもたらす
ように、小さな引き金が心地よい平衡を危機に突き落とす。

原因について思いつきの推論をするのは、古から歴史家の習癖である。191
4年夏に第一次世界大戦が勃発して人々を驚かしたが、歴史家は先行する様々な
条約や交渉をあげて、その物語の筋書きを昔にさかのぼって解説する。この種の
誤った推論によれば、9/11テロの原因を、ムスレム兄弟団の理論的支柱とな
った理論家、サイード・クトブをエジプト政府が処刑した事にたどりつく。ごく
最近では、2007年から始まった金融危機を1980年代のアメリカの規制緩
和策に起因しているとみる。

理論家は物事の複雑さをよく誤って解釈する。彼らは、長期的な視点であらゆ
る惨事を遠因にさかのぼって説明するように訓練されている。実際には、危機を
誘発した近因によって、よい平衡から悪い混乱への急激な転換を十分に説明しう
るのだが。

複雑なシステムの中で物事がいったん脱線すると、その逸脱混乱の規模はほと
んど予測不能なものとなる。ローマ帝国の没落には、それに先立つ色々な原因が
挙げられてきた。しかし、なぜあのような急激な崩壊が生じたかという疑問を説
明できていない。50年間にローマの人口は4分の1になっただけではなく、発
掘が示しているように、住宅や什器備品は劣悪になり、生活程度が酷く低下した、
一世代のうちに文明が終わりを迎えている。

14世紀より300年間、明王朝の中国は世界で最も高度に発達した文明国で
あった。清朝の勃興と明朝内での反乱によって、17世紀中頃の10年間で儒教
的秩序は瓦解してしまい、アナーキーがそれに取って代わった。同ように、ブル
ボン王朝のフランスも勝利と繁栄からテロと終末へと驚くべき速さで直行してい
る。

イギリス帝国の日没も突然に訪れた。1942年2月に、チャーチルはヤルタ
でスターリンやルーズベルトと共に世界を分割していた。だが、1945年の選
挙で彼は政権の座から追われた。その後の10年以内に大英帝国は解体され、イ
ンド、ビルマ、エジプト、イラン、リビアなどに相次いで独立が認められた。1
956年のスエズ危機によって、イギリスがアメリカに逆らってもはや行動でき
ないと証明された時、大英帝国は終焉を迎えたのであった。

帝国崩壊の急激さを証明している最近の好例は、ソ連のケースである。198
5年にゴルバチョフが共産党第一書記になった当時、ソ連の核兵器保有量はアメ
リカを凌駕し、第三世界でもその影響力が上回っているとみられていた。彼が政
権について5年以内に、ソ連と東欧共産圏は崩壊した。あらゆる帝国は衰退では
なく、崖から落下するように崩壊している。


◇◇崖淵に立っ時


帝国というものが穏やかに循環的に移行するよりも、繁栄から頂点に、そして
突然の終末で壊滅的に崩壊する複雑なシステムだとするならば、今日のアメリカ
にとってこれはどのような意味をもっているのだろうか。

第一に、衰退を段階論的に議論する事は無意味で、時間の無駄にすぎない。政
策決定者と市民が最も関心を寄せるべきことは、予期せざる突然の崩壊である。
第二に、ほとんどの帝国の崩壊は財政危機を伴うものである。前述のあらゆるケ
ースは、収支の急勾配な不均衡と公的債務履行の行詰まりを契機としていた。

アメリカが2009年に1兆4000億ドル以上の財政赤字を想定している事にた
いし、激しく警鐘を乱打しなければならない。これは、GDPの11.2%に相当
している。2010年の赤字もこれをあまり下回ることはないだろう。公的債務
は、2008年の5兆8000億ドルから2019年の14兆3000億ドル以
上へと3倍になる勢いだ。その間に、債務利払いは連邦収入の8%から19%に
なる。

これらの数字は最悪であるが、政治の領域では、パーセプション(理解の仕方)
が実体に劣らず決定的である。帝国の危機においては、物質的基盤ではなく、
将来の力量についての期待感がそれ以上に問題とされる。前述の財政上の数字は
アメリカの回復力自体を殺ぐものではないが、アメリカが危機を切り抜ける能力
にたいする長期的な信頼感を低下させている。

 このレンズを通してみると、2080年にはアメリカの債務は天文学的となり、
手に負えなくなる。それはまだ遠い将来の事であり、それまでに赤字を解消す
る手を打つ十分な時間があると見えるかもしれない。ところがある日、評価機関
が平穏を掻き乱すトップニュースを発表すると、アメリカの財政持続可能性を懸
念する少数の政策通だけではなく、海外投資家や国民全体が心配し始める。決定
的なのはこのシフトである。一部の構成部分の信頼性が失われると、複雑な対応
システム自体が大きなトラブルに巻き込まれる。

 過去3年間、グローバル経済の複雑なシステムはブームからバブルへとひっく
り返った。これらの原因は全て、一握りのアメリカの金融機関がそのサブプライ
ムローンを破綻させ、高度に組み込まれた多数の金融機関のビジネスモデルに巨
大な空洞をぶち抜いたからであった。現行の危機の次の段階は、オバマ政権が対
応してとった金融財政措置の信用性を一般国民が疑問視し始めた時である。

 政府のゼロ金利や経済回復刺激策は、アメリカと海外の国民がこのような政策
を持続的な回復に資するものでないと集団的に異なる判断をするならば、一夜に
して吹き飛んでしまい、インフレの加速化やデフォールト(債務不履行)を招来
する。政府の破綻を決定づけるのは、債務/GDP比率ではなく、投資家が要求する
利子率である。将来の政策破綻が予想されると、国債利回りを急上昇させ、新規
債務の利払いコストを押し上げ、既に悪化している財政危機はさらに深刻になる。
これが、昨年末からギリシャを財政的政治的危機に追い込んでいるサイクルに他
ならない。

 最後に金融財政政策についての予想の変化が、将来のアメリカの外交政策を再
検討させる事になるかもしれない。利払い額が税収との割合で上昇を続けるなら
ば、軍事支出が削減を余儀なくされることになる。アメリカ大統領がアフガンに
30,000人の増派を決め、その後の1年半以内にまた撤兵すると発表する事
は信用問題となる。アメリカの今日の財政政策が今後全ての海外軍事派兵財源を
削減することを既定している事は、イランやイラクにおけるアメリカの敵にとっ
ての慰めとなる。

 ヒンズークシ山脈やメソポタミア荒野での敗北は帝国没落の前兆である。ソ連
のアフガニスタン撤退が1989年の予期されざる展開に先行したのは偶然では
なかった。5世紀の出来事と同じように、20年前に起きたことは、帝国が一定
の予測可能なサイクルで出現、興隆、衰退するのではない事を想起させる。帝国
解体を多重的かつ過大評価された諸原因による緩やかなプロセスとして、回顧的
に描くのが歴史家の常ではあるが、これは実体に合致しない記述だ。

 帝国は複雑な対応システムとして動き、一定の不可知的期間には平衡を保ち、
そして突然崩壊する。破滅への移行は循環的なものではなく、急激かつ突然なも
のである。


◇◇コメント


  発展は急速であり、一定期間はなだらかな平衡を保つが、崩壊は突如として訪
れるというのが、帝国の歴史を考察したファーガソン教授の結論である。彼はこ
れを特定の未来予測という形で語ってはいないが、現在のアメリカと将来の中国
を念頭に書いていることは容易に推察できる。付言しておくと、ファーガソンは
歴史における共通性を強調しているが、法則性は否定している。

 彼は植民地史研究の権威である。かつては植民地保有が帝国のメルクマールで
あった。だが、今日の帝国は古典的な植民地をもはや保有していない。ここでは
定義されていないが、市場の圧倒的占有、高度技術の独占的保有と利用、金融市
場のコントロール、外国での軍事基地保有と軍事的優位の誇示などが、現代の帝
国主義の特徴を形成すると見られる。こうした帝国の代表的存在である、アメリ
カの崩壊が緊迫しているとファーガソンは見る。その最大の引き金は、公的債務
が返済不可能なレベルに達しつつある事である。

 彼の歴史観察の視点は、膨大な公的債務と人口減に直面する現在の日本により
妥当するかもしれない。擬似帝国日本の急速な没落の予感が本論を読む事で裏付
けられてしまった。この予感が誤りである事を祈りたい。もちろん、自然科学の
法則と違い、社会的法則には絶対性がない。それは、危機を察知した人間は、回
避行動をその英知によってとりうるからである。しかし、一旦崩壊過程に突入す
ると回避は極めて困難になる。この場合、帝国が平和的に解体され、互恵平等な
地域統合に移行できるかどうかが、グローバリゼーション下の世界にとって最大
の課題となるだろう。

 歴史談義の横道に入るが、イギリスはこれまで多くの優れた歴史家を輩出して
きた。アクトン卿やE.H.カーは、私が最も愛読してきた歴史家である。彼らから
学んだ歴史認識の基礎は、あらゆる歴史はその時代の歴史家の価値観に従って書
かれるので「現代史」(クローチェ)であり、歴史は「過去と現在の対話」(E.
H.カー)であるということだ。そして、望ましい未来についての価値判断が必ず
反映するので、歴史は「過去と未来の対話」だと指摘されている。歴史観は政治
判断と直結しているだけに、歴史は常に政治的争点になる事から逃れる事はでき
ない。「歴史は事実よりも判断」という、アクトンの言葉は痛烈な警句である。

             (筆者はソシアル・アジア研究会代表)

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