≪特集:再考・地方の時代≫

■地方分権の進展による市民政府の樹立に向けて     森田 桂司   

市民自冶を働かせ、市民社会の醸成で分権型」社会への移行を!
       ~政治・行政の革新を地域から始めよう~
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 私は丁度50年(半世紀)、地方自冶体内部の仕事、窓口事務、税の課税、徴収、
環境など市民に密着した事柄から、行政内部でのトップと云われる助役まで43
年有余、地方自冶の仕事に取り組み、その間、組合運動、革新市長会にも関係し,
ある時は若い時代と逆の理事者、自冶体経営者として組合と対峙する立場からも
議論もし、対処もしてきました。
 そして助役退任後も関西のベンチャー企業育成の組織にかかわりながら、各地
の自冶体職員、各級議員等を始め関係者と議論・活動を共にし、自冶体関係者や
学者、研究者、ジャーナリスト,市民組織などでつくる自冶体学会の代表運営委
員も務めてきました。
 そこで、この半世紀、自冶体問題にかかわってきた者として感じてきた政治・
行政の事項について時流に添って若干整理し,われわれが考えてきた真の構造改
革,の道筋が一歩でも前進するならとの思いで,纏まりは不十分ながら、その概略
を提起してみたい。
 
1・日本の政治・行政における現状と問題点
 
 バブル崩壊で経済が低成長期時代に入り,日本経済の行き詰まりが明らかにな
った時期からいろいろな方面よりの議論が沸騰したのですが、私はその根源を日
本の「官制経済の構造」にあるとの論調を展開してきました。日本の利権構造を
お金から支えているのは,御三家と云われる特別会計,財政投融資、そして補助金
です。これらの金を湯水のごとく使っているのが,特殊法人や認可法人,公益法人
であり,いわゆる官僚の天下り集団です。そしてそれに口を挟み,利権誘導をして
いるのが族議員と言われる人たちです。彼等はこういった見えない闇機構のとこ
ろで政治資金などのバックマージンを取っているのです。
 
 われわれが日常、仕事を通じ矛盾を感じてきた仕組み、マスコミで繰り返し報
道される諸々の不祥事などの「悪の根源」になっているのが、奥深いところで事
を運んでいる「裏の闇機構」ということになります。そこで、このように一般的
によく云われる政・官・業の利権構造を表に炙りだし、打開していくには長年に
亘ってこれを支えてきた様々な制度や意識,社会システムの問題点を分解して、
新しい方向のシステムに転換しなければなりません。この巨大な利権構造を打破
するには今が力による革命の時代でないとするならば、真の改革を断行するには
民主的で強力なイニシアティブをどう確立するかが大事になります。
 
 「自民党をぶっ壊してでも改革をやる」と云って国民の人気を横取りした小泉
首相もこの5年間、金融問題の解決などの一部を除いては沢山ある問題点を密室
から表に出した(これも考え方によっては隠されていた情報を出さざるを得なく
なり、歯車を一歩前に進めたと云えるかも知れませんが)程度で、他の改革は手
をつけても中途半端なままか、逆に焼け太りを許すことになっています。これは
小泉氏が声高らかに叫ぶスローガンの割りには政策判断
を官僚に主導され、その追認を政治家がするという、従来の自民党が取ってきた
スタイルが、大筋で変わっていないために起っている現象です。このように、官
僚主導から国民の信託を得た政治主導の政策決定への転換が出来なかった今の
ような自民党では、どんな人物が出てきても無理なことを証明しています。
 
 そのことは小泉氏及び自民党に問題点の詳細を押える仕組みがつくられてい
ないこと、そして、より重要なのはそれらを一つ一つ壊し、それに代る新しいもの
を構築していくという「構造改革」のビジョンがないことに関連して「この国の
かたち」をも変えていかねばならない時期にきているとの認識も小泉周辺に全く
なく、そのためビジョンも描けていないということです。
 
 本当に、真の構造改革を断行するには、総選挙において改革のプログラム(政
治責任を明示したマニフェスト)を国民の前で明確に問い、4年間の信任を得て
実行出来る強力で民主的な政権を確立することが先ず必要になります。この政権
は、先ず国家の将来像を目指して基本的な面でのモデルチェンジを断行し、一気
に改革の成果を、国民に見える形で明らかにすることです。それは、今まで一向
に進まなかった改革が、政権交代という民主主義の機能回復によってなされるも
のであるという筋道を明示し、主権者の力を認識させることになります。このこ
とが一番であることは皆さんもご理解いただけると思うのですが、理屈はそうで
あっても、日本の今の現実はまだまだ対抗軸のない自民党一党独裁の国であるの
も事実です。
 
 そこで、日本の財政を上流から下流へ流し込み、途中で搾取している今の「闇
機構の仕組み」をもっと大胆に明らかにし、財政規律の確立、放漫財政の廃止を
訴える中で、受身の国民を政治に関心を持たせ、納税者意識を発揮させることで
民主主義日本に活を入れる必要があるだけでなく、下流と思われている地域の足
元から「分権革命」を通じて、民意に基づく財政の逆流を実現させるべく努力し
ていくべき時にきているのです。
 
 地方分権については本来国民主権が出発点で、主権者が何を、どこまでどうい
う団体に任せるかという権限配置の問題であるのですが、戦後復興の中で更に中
央集権が進み、いつの間にか国の方から権限・財源を地方に与えてやるという逆
立ちした考えになってしまっていることに、地方団体にも慣れ親しんできたもの
への依存心、損得勘定の違いなどが残っていて、残念なことに国と地方の予算分
捕り合戦のように映り、官僚とそれを後押しする守旧派に利用される羽目になっ
ています。
 
 そうは云っても、一方で今日の地方分権論の高まりは、中央集権によって近代
化を達成した後の成熟社会、いわゆる「ポスト近代化社会」成長社会後の新しい
政治・行政体制の創造という、共通の認識に支えられ、(1)グローバリゼーション
の進展に伴う国際社会への対応、 (2)ナショナル・ミニマムの量的整備のほぼ完
了と農村型から都市型への移行による国民生活の質的変化、(3)東京一極集中の是
正、(4)政治・行政の腐敗の防止、(5)市民の政治への参加などの課題を模索する中、
遅ればせながら徐々に進み、まだ不十分な点があるものの1999年に地方分権一
括法が成立する段階にまできています。
 
 ところで、地方分権の主張は、それぞれの時代・状況の中で根気強く続けられ
てきた地方団体の努力もあって今日に至っているのですが、この問題をこれから
は国際化時代であると同時に「地方の時代」であることを提唱し、21世紀のキー
ワードに位置づけられた長洲一二元神奈川県知事の先見性と分権改革に果たさ
れた役割は見事なものとだったと思います。これについてはかって長洲知事の下
で副知事までされた久保孝雄さんを中心にして、その周辺の人々が編集に参加し、
出版された「知事と補佐官」に詳しく纏められていますので、それに譲ることに
して、ここでは「国際化」と「地域」を21世紀のキーワードと見透し、地域に根
ざした活動を地球全体の世界へ広げていくことを旨として、地方政府の政策的自
立、自己革新などに尽くされ、市民の政府樹立に向けて果たされた先進的役割に
ついて大いに評価することにとどめ、当時、長洲知事周辺におられた方々に地方
政府のあり方を政治的な思想や構革派の理論・運動との関係においても更なる深
き考察をお願いしておきたい。

2・日本再生の突破口をどこに求めるか
 
 ところで、私達が歩んできた戦後とその中で私達を育ててくれた民主主義はそ
の実「ムシリとタカリの民主主義」でしかなかったとも言われているように、そ
れは保守政治家による利益配分の政治だけでなく、いわゆる戦後革新を標榜する
人々の側においても表面は反対するが、裏では幾分なりとも分配に与るという形
において、保守と同様、官僚制を強化してきた歴史的過程であったのではと思い
ます。
 
 又、中央省庁と自冶体の関係においても、持ちつ持たれつの関係で進んできた
のも事実です。だからこそ政治の意思決定が密室化の度合いを深め、政治腐敗の
温床が重層化してきたのでありますが、こうして密室化し、出来上がった腐敗の
温床も地方から持ち上がった情報公開による「知る権利」の確立が全国に広がる
ことによって根本的な変革を余儀なくされてきています。このように中央と自冶
体間にあった濃厚なパトロン・クライアント関係も分権改革が進展するなら、断
ち切られ、新たな関係へと発展していくことでしょう。このことは戦後民主主義
体制の終焉であり、未来に向けての民主主義体制の強化と新たな価値、秩序の確
立の芽吹きと前向きに考えるべきです。
 
 「国民は自分の身丈に合った政治しか持ち得ない」とよく云われるのですが、
政治家に票を貢ぎ、利益の還元を求めるという状況が蔓延しているとすれば、有
権者の知的レベルが
問題視されるのも当然のことですが、この身丈論には情報が特定の者、集団に占
有され、隠匿されてきた事実が欠落しています。即ち、有権者に判断能力が欠如し
ていたのはなく、判断する為の材料が提供されていなかったのです。これでは政
治や行政が提供する部分情報や一方的な大本営発表に依拠した情報を信じての
「陳情政治」に偏重してしまうのも仕方がないということになります。
 
 強靭な政治権力を保持し続けようとする権力者は権力の源泉が、情報の蓄積と
操作にあることをよく知っており、情報公開を最も忌み嫌うものです。そういう
意味からすると,最良のガバナンスは蓄積している情報を徹底して公開し,市民に
責任ある判断をして頂く,それを基にした政治統合が図られて初めて実現すると
云えましょう。
 
 政治の先進性とは,中央,地方を問わず,政府の情報公開度によって計られると
云われます。
情報公開が既存の政治・行政の意思決定構造を改革する「万能薬」とまで行かな
くとも,行政情報公開の権利-義務関係の法制化は、行政とそれに群らがる政治に、
狭い空間での安住を許さないでしょう。その際、最も衝撃を受けるのは、アンダ
ー・ザ・テーブルの意思決定に関ってきた政治家であり官僚であります。それに政
策情報の整理がIT技術の進歩、開発のもとに、市民に判りやすく提供されるよ
うになれば、当面する課題や争点が浮かび上がり、市民の政策・事業に対する眼
が向上し、厳しさを増すことになります。更に自冶体レベルでの政策評価、積極
的な情報公開が進むならば、中央政府の政策や事業構造も透視され、中央省庁に
群がる政治家を「城壁」として密室に囲っておくことが出来ないでしょう。
 
 一方、遅々として進まないと評してきた地方分権でも先に述べたように1999
年制定された分権推進一括法が2000年4月から施行され、国と地方との間の仕
事の仕分け、権限配分、それに付随する税財源問題など、まだ不徹底な面があり、
多くの問題や課題を残していますが、しかし、自冶体側の取り組み次第では国と
自冶体のあり方を根本から変え、地方自冶体が単なる「地方公共団体」から「地
方政府」として自立する可能性を開く、大きな改革にすることが出来るようにな
っています。法では機関委任事務の廃止で、法制上、中央と自冶体の関係を対等・
平等な関係に作り変えるとともに、両者の紛争処理機関を設置したことです。
 これは日本の中央と地方自冶体関係にとって画期的なことであります。即ち、
従来の中央と自冶体の関係を特徴づけていた行政統制に変わって、今回の新たな
制度改正は機関委任事務の廃止による立法統制に加えて、司法の場で、中央と自
冶体の紛争関係を処理しようとしたことです。自冶体側が自らの言い分を国地方
係争委員会に持ち込むならば、中央省庁は公開の場において、自らの要求や指示
の正当性を挙証しなくてはなりません。今までのようになだめたり、すかしたり
では済まなくなるということです。このことは単に、中央各省と自冶体という行
政関係に変革を迫るだけでなく、中央集権国家と自冶体を地方公共団体扱いにし
てきた従来の機軸を大きく転換させ、現代日本の政治構造に多大のインパクトを
もたらすことは間違いありません。
 
 このように考えると、地方分権改革は、戦後日本の中央と地方の関係に中央の
関与を緩和しただけでなく、国政改革の道筋とその手段を市民にもたらしたよう
に思われます。このことを認識出来れば、われわれの取り組むべき課題と進むべ
き道筋は明らかです。
 
 「幸いにして」と言えば語弊があるかも知れませんが、無責任体制の政府が残
してきた中央と地方を通じた政府セクターの負債が一千兆円を越えるところま
でになっており、増税なくしてどうにもならないところまできています。又先に
述ベましたように小泉内閣になって、否応なく取り組まなくなった公共事業や行
政改革でも中途半端に終り、年金、医療など国民に切実な社会保障に「老人は金
持ち」と言いふらし、世代間の争いにし、格差拡大の中、高齢者にまで高負担を
押し付けようになっています。
 
 このように日本の政治の行き詰まりと破綻の状況に対して小泉政治はどこか
に敵をつくり、自分が正義の味方のように振る舞い、見せかけだけの欺瞞で切り
抜けているようですが、表向きの支持率とは裏腹に国民の間に不満の地下マグマ
が渦巻いていて、今、見えない受け皿に「何とかしてよ」という悲痛と焦りの大
合唱が聞こえてきているように思えます。
 このような時、過去の例でもそうですが、一時的に無党派の風として民主主義
が機能し易い直接選挙の首長の方へいきます。滋賀県知事選挙を始め、各市の市
長選挙で政党や大きい団体などの支持地盤がない人でも選ばれるケースが彼方
此方で出てきています。この風潮は民意を吸い上げられない政党、議会への不信
の表現でもあると考えます。
 
 1960年代から70年代にかけて公害反対闘争からの始まった市民意識の
向上で、太平洋ベルト地帯に多くの革新首長が誕生し、飛鳥田元横浜市長から「地
方からの中央包囲網」論が出たりしましたが、これも革新側にあった中央突破方
式の国政中心の集権的な考えに加え、将来を見越した構造改革の見取り図を描く
ことが出来ず、当面の課題に終始してきた結果、政策面で一定の成果は挙げたも
のの、自冶体経営の甘さなどを突かれ、より堅実な運営へとの世論誘導で官僚首
長へと変わっていった経過があります。
 
 唯そのなかでも、先に述べた長洲氏のように「地方の時代」を提唱し、自冶体
の自立と自己革新で、地方の自主政策から地方政府への可能性を展望し、自冶体
学会の設立などの地道な努力で全国の人材育成にも貢献され、実績を残されてこ
られた方もおり、そういう業績が旧革新と云われる政党や層でなく、新たな先駆
的学者や職員、市民層に引き継がれて、1980年代から90年代にかけての多彩な
地方分権の論議を呼び、時代の変化もあって地方分権の必要性が広く認識される
ようになったのです。
 
 われわれは既に自民党政治の行き詰まりや矛盾点をいろいろな観点から見て
きました。その中で旧弊、旧習にしがみつき、既得権を守ろうとする劣化した国政、
不十分ながら分権時代に向けて自らのイニシアティブによって自冶・共和の政治
を試行する地域の対立、二重構造が明らかになってきました。今までの政治は政
治の行政化であっても、知的創造性によって絶えず自己革新する政治ではなかっ
たのです。.問われているのは行政化し劣化している政治に対して、徹底した自
冶・共和主義に基づく重層的政治を構築することです。それは、この国の政治構造
を分権革命と云われるまで徹底的に分権化した後、もう一度地域から「補完の原
理」に従って社会を再構築する戦略目標を立てることによって可能となります。
分権化された政府構造が出来上がって初めて全国民の政府としての中央政府は、
グローバルな視野を持って共和主義的政策を企画し、それを実施することが出来
るのです。そこには「選挙しか頭にない政治家」の活動する場所、舞台は存在し
ません。分権型の政府体系を設計することこそが「選挙しか頭にない政治家」を
退場させる道筋なのです。
 
 行き詰まりを見せる政治に対抗する手段は、政策の現場である地域社会に醸成
されています。「遠い政府」を変えるためには「近い政府」から変えていかねば
なりません。そして「近い政府」を変えるには先に見たように直接投票の大統領
制をとっている現行制度で可能であり、現にそうなってきています。
   
 今、大事なことはかっての革新首長時代のように首長を「丹頂鶴」の状態にし
ておくことや「裸の王様」にしないため、どう周りを固めていくかという「陣地
戦」も含めた長期的な戦術、戦略をつくり上げることです。
 現在の中央及び地方の議会システムは、近代ブルジョア市民政治に適合するよ
うにつくられたものでありまして、一度当選すると、次の選挙まで全てにおける
決定権を独占することを基本としています。それが今日では、政治家のイメージ
操作や劇場型の政治演出でもって政権を手中に収めた途端にポピュリズム支配
の基盤として利用されたり、有権者の大方の意思から遠く離れた決定を平然と行
うという遅れたものにしています。
 そして、今日の日本では、このような議員達の多くは二世・三世議員・長期のマ
ンネリ化議員で占められ、議員という職業が、封建時代と変わらない身分の独占、
つまりファミリービジネスとなっているのです。こういった状況を打破するには、
一定数の有権者の発案による住民投票や国民投票によって市民が重要事項の決
定に直接係わることの出来る制度の導入が必要です。
 そして「権力という媒体によってコントロールされるのが政治システム、貨幣
という媒体によってコントロールされるのが経済システム、この二つが生活世界
に強い影響力を持つと生活世界は植民地の危険に侵される」と云われていますよ
うに、資本主義の発達に伴って生活社会が二両域からの攻撃を受け、市民として
の生活と自由が犠牲になるような状態が起りつつある事態に対して、市民の側に
おいても、生活社会からの持続的な反撃がなければなりません。

 また、参加と自冶を通じた様々な自発的結社や社会運動によって、生活社会が
権力を中心にした国家の領域に浸透し、NPOなどが企業の一部を代行するなど、
非営利活動が経済社会の領域に切り込むという運動にまで発展しています。そこ
で「生活世界は発言し行動する主体たちが社会化されている世界」という三領域
論を構築し、政治権力と貨幣経済によって支配され、片隅に追いやられてきた生
活世界を、再び生き返らせるような市民社会にしていかねばなりません。

 そのためには、あらゆる地域において、かっての財産と教養のあるブルジョア
市民ではなく、個人主義の進展とともに培ってきた教育、知識、一定の富、さらに
は認識力と判断力をもつ多くの自己実現派の広範な市民層が、公的分野の民主的
介入と公正な責任体制を確立する運動に参加できる仕組みを創出していく必要
があります。その際に大切なことは、参加する人々の間におけるデモクラシーを、
どのように機能させるかという点です。今や代議制に加えて、参加と討議を重要
視するもう一つのデモクラシーの回路が論じられ、ツートラック{二回路}の時代
になりつつあります。

 一つの回路は、法治国家によって制定された制度的プロセスの回路であり、第
二の回路は、市民社会の中での非制度的、非形式的な意見形成のプロセスの回路
です。この両者は相互に依存し、また、規制し合っていますが、これらをどう上
手にかみ合わせていくか試行錯誤を繰り返すなかから、良い方法を見つけ出して
いかねばなりません。
 このように革命と違って、下から一歩一歩積み上げていこうとする市民政治構
築の過程は時間のかかる迂遠な道ですが、しかし暴力や強制に訴えずに、人類の
連帯と共生の精神に依拠して多くの課題を解決していくには、政策の源である足
元の地域から市民自冶を生かし、民主主義の機能を向上させて強固な陣地つくり
つつ、時代に合ったシステムを創造して進化し続けるしか道はないと思われます。

             (筆者は元八尾市助役・自治体学会代表委員)
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