【国民は何を選んでいるのか】

国政選挙から読み解く日本人の意識構造(3)

「外交は票にならない」との伝説は本当だろうか?
~日中正常化・パンダブームの中でも衆院選に敗れた田中(角栄)自民党

宇治 敏彦
==================================================

 政治ジャーナリストとして戦後の国政選挙を取材してきた中で、事前の予測と選挙結果が大きく食い違ったケースをいくつか見てきた。なかでも1972年(昭和47年)12月10日投票の第33回衆院総選挙が強く印象に残っている。「日本列島改造論」を掲げて自民党の総裁選で、ライバルの福田赳夫氏らに競り勝ち、7年8か月の佐藤栄作長期政権のあと総理総裁の座についた田中角栄氏は「今太閤」「庶民宰相」「コンピューター付きブルドーザー」「小学校卒で初の総理大臣」などと騒がれ、内閣支持率も史上最高を記録した(例えば同年8月下旬の朝日新聞による全国世論調査では「支持62%、不支持10%」)。

 8月31日、田中首相はハワイでのニクソン米大統領との日米首脳会談を経て、9月25日に大平正芳外相、二階堂進官房長官を伴って中国を訪問。周恩来首相との首脳会談や毛沢東主席への表敬訪問を経て「最大の戦後処理」であった日中両国間の国交正常化を実現し、同29日に日中共同声明の調印にこぎつけた。中国側はパンダ2頭を日本に贈り、11月5日にはカンカン、ランランが上野動物園で公開され、日本中が「パンダブーム」「日中友好ブーム」に沸き立った。そうした雰囲気の中で行われた総選挙だったので、マスコミをはじめ国民の多くが「自民圧勝」を予測した。

 ところが結果は「自民271議席」「社会118議席」「共産38議席」「公明29議席」「民社19議席」(ほかに無所属14議席)と自民党は低迷した。271議席は結党以来、最低の数字で、「田中人気」の前評判からすれば、事実上の敗北と言ってもいい。逆に社会、共産両党が躍進し、特に共産党は公明党を抜いて野党第2党に躍り出た。一方、公明、民社両党の中間勢力は敗北を喫した。

 具体的な数字でいえば自民党は前回1969年12月の第32回総選挙(佐藤内閣の沖縄解散)に比べて17人減(解散時より26人減)で、無所属当選から11人の追加公認を加えても解散時勢力(297議席)を15議席も下回る敗北だった。特に愛知県では1、6区で議席ゼロと2つの「自民空白区」が現出した。

 なぜ角栄人気が高く、日中・パンダブームの追い風の中で、自民党は予想外の「敗北」を喫したのだろうか。マスコミや政治学者たちは「田中首相の『日本列島改造論』が地価高騰をもたらし、物価高になったことが選挙民の反発を買った」「公害の多発が与党批判につながった」「石油ショックの予兆があった」などと分析している。

 当時、首相秘書官で、「日本列島改造論」の実質的な編集責任者だった小長啓一氏(後に通産事務次官、アラビヤ石油社長・会長を歴任)は「列島改造論に開発有望地区の具体的地名を織り込んだほうが良いと提案したのは私だが、そのことが地価高騰につながったことを反省している」と後に語っている。だが建設省(当時)が地価高騰の傾向を発表したのは翌1973年4月2日のことで「73年1月1日現在の地価は前年比30.9%上昇」としており、確かに狂乱地価の予兆はあったかもしれないが、72年の総選挙時点で土地高騰が自民敗北の第一要因とは考えにくかった。オイルショックで狂乱物価をもたらしたのも73年10月の第4次中東戦争がきっかけで、72年末の段階では物価高への不満は強かったものの爆発的ではなかった。もう少し自民敗北の真の原因を追求してみよう。

 自治省(現在は総務省)選挙部が国政選挙のたびに出していた「総選挙結果調」の1972年版では、この時の総選挙の特徴について「沖縄が本土復帰後、初めての総選挙」「各党が候補を厳選した関係で立候補者は前回より50人減で、競争率が戦後最低の1.8倍と少数激戦の様相を呈した」「カラーによるテレビ政見放送を初めて実施」「全国的に投票日は穏やかな天候に恵まれ、投票率が前回を3.25%上回る71.76%だった」などとまとめている。

 このうち注目点は「各党が候補を厳選した関係で立候補者が減った」という個所である。確かに社会党(前回比22人減)、公明党(15人減)、民社党(3人減)、共産党(1人減)と野党は軒並み候補を減らした。しかし与党の自民党だけは前回比11人増の339人だった。田中・日中ブームを当て込んで候補を増やしたことが裏目に出たのだ。同党の得票率は前回より0.78%減で、43人もの次点落選者を出した。角さんの強気の選挙戦略の失敗だった。

 選挙後の記者会見(12月11日)で田中首相は「自民党は私の予想より10議席ほど少なかった。しかし、これは長期政権の自民党に対して刺激を与え反省を求めた国民の知恵であって、これに応えなければならない」などと語った。

 東京新聞・中日新聞では国会解散直前の1972年11月10日から3日間、3,000人の有権者対象に全国世論調査を実施したが、その概要は次のようなものだった。

 1、田中内閣の支持率は57.2%で、「支持しない」(16.2%)の約3.5倍にのぼり、「田中首相の誕生を歓迎するか、しないか?」との問いにも「歓迎する」(76.8%)が「歓迎しない」(13.7%)の約6倍に達している。その半面、自民党の支持率は前回調査(1969年12月の総選挙)での38.8%から約2%下がって36.7%にとどまった。

 2、「日本列島改造論」に関しては「慎重論」(列島改造の必要は認めるが、もっと検討すべきだ)が41.3%で最も多かった。ついで「賛成論」(14.4%)、「反対論」(12.6%)の順(ほかに「どちらとも言えない」が31.7%)。「賛成」の理由としては「地方の均衡的発展が期待できる」が40%と最も多く、「反対」側は「公害を拡散する」が43.2%と多数であった。

 3、日中復交に伴い日本の安全保障政策のかじ取りが問題になっていたが、世論調査では日米安保堅持論(12.1%)に「日米安保はあっても良いが、基地公害は解決してほしい」(25.3%)という条件付き容認論を加えると全体の37.4%。一方、廃棄論は16.5%で、再検討論(23.5%)も加えると現行安保への反対論は40%に達した。

 当時、4兆6,300億円規模で閣議決定されて間もない第4次防衛力整備計画(四次防)に関しては「この程度は自主防衛上当然だ」という支持者が17.7%。「規模はやむを得ないが、兵器国産化には反対」が14.4%。これに対して「四次防を全面的にやめ、その予算を教育、住宅、福祉政策にまわすべきだ」という全面反対論が35.7%で最も多かった。

 この世論調査を実施した当時、筆者は選挙班の一員になっていたので、各党幹部や学者たちに会って「政治がどう変わろうとしているのか」を世論調査からどう読み解いたら良いかを取材して回った。その結果は東京新聞(72年12月2日~4日朝刊)に掲載したが、竹入義勝公明党委員長(当時)のコメントが一番的を射ていたので、次に再録する。

 「国民が田中内閣の誕生を歓迎したのは無理もない。佐藤前内閣の不人気、官僚政治に対する反発などが、庶民出身で54歳の田中首相の若さに対するあこがれ、明るい政治に対する期待となって現れたのだろう。それは“若々しく実行力はありそうだから”の圧倒的支持をみても分かる。ただ列島改造論はムードに過ぎず国民もこれに期待しては、また池田、佐藤両内閣の二の舞いを踏むことにならないか、という警戒心が調査結果に強く現れている。また、自民党の支持率が1969年調査より下回っているのは、田中内閣がこれから何をやるのか慎重に見守っているということだろう。その点、国民の意識は正しく健康的だと自信を深めた」

 筆者自身は、この時の総選挙における「予想外」ともいえる田中自民党の低迷(あるいは敗北)と社共両党、特に共産党の躍進、そして公明・民社の中間政党の陥没に対して次のように受け止めた。
 「有権者の間には田中首相個人に対して『金権政治家』というイメージが強く残っており、クリーンな政治を求める国民から心底尊敬されていないのではないか」
 「以前から政治家の間では『米価や公共事業は票になるが、外交は票にならない』といわれてきたが、やはりそれは真実だったのか」
 「強い指導者(田中角栄)には強い野党(社会、共産両党)というバランス感覚が選挙民に働いて、公明、民社といった中間政党の後退につながった」

 七夕内閣とも言われた1972年7月7日の田中内閣誕生以来、同9月の田中訪中まで政府が一番苦心してきたのは、戦後処理として残っていた中国との国交回復問題だった。佐藤前内閣は台湾との関係が深かったために中国が主張する「中華人民共和国政府が中国を代表する唯一の合法政府」に同意することが出来なかった。しかし第3次佐藤内閣の期間中だった1971年9月25日に国連総会で中国の招聘、台湾の追放が可決された。さらに翌72年2月にはニクソン米大統領が突如、訪中するという日本外務省にとっては「驚天動地の頭越し外交」ともいうべきニクソンショックが発生して、自民党内でも「田中内閣の最初の外交課題は日中復交問題」との見方が定着していた。

 問題は賀屋興宣(東条英機内閣の蔵相)、千葉三郎(自民党アジア調査会代表)両氏や青嵐会(中川一郎、藤尾正行、石原慎太郎氏らタカ派の議員集団)といった自民党内の台湾支持派が、「断じて台湾との断交は認めない」と体を張っていたことだった。マスコミの間でも佐藤内閣の頃までは中国のことは「中共」、台湾のことは「国府」(中華民国)と記述するのが一般的で、中国の国連加盟以後に「中国」と「台湾」という表記に変わっていった。

 72年は私にとっても暑い暑い夏だった。当時、自民党担当だったが、党内に設置された日中国交正常化協議会(小坂善太郎会長)を取材するのに明け暮れていた。通算32回にわたって開かれた同協議会の会合は総て非公開だったので、私を含め記者たちは党本部の会議室の壁に耳をあてて取材する日々が続いた。「親台湾、反中国」グループの議員から小坂会長らに「ペテン師」などといったヤジも飛びかっていた。結局、9月8日の総会で中川氏から出された「台湾との従来の関係が継続されるよう十分配慮のうえ交渉すべきである」との付帯決議案をつけて田中訪中による日中交渉の開始が了承されたのだった。

 与党内がこんな雰囲気だったし、中国や台湾、さらには米国の意向も詳細には分からない中で田中、大平氏は中国に旅立った。ただ唯一救いだったのは、事前に訪中した公明党の竹入義勝委員長が周恩来中国首相の見解として(1)中国と日本の戦争状態は共同声明が公表された日に終了する、(2)日本政府は中国政府の復興3原則(「中華人民共和国は中国人民を代表する唯一の合法政府」「台湾は中国の領土の不可分の一部」「日台条約は不法、無効で廃棄されなければならない」)を十分理解する、(3)中国は日本に対する戦争賠償の請求権を放棄する、(4)中日両国ともアジアに覇権を求めない―など8項目の意向を「竹入メモ」として田中、大平氏にもたらしてくれたことだった。

 しかし何が起こるか分からない。田中首相も大平外相も「遺書」めいたものを家族に残して旅立ったと後年、漏らしている。それぐらい戦後の日本外交の中ではセンシティブな側面を持った交渉だった。一方、損な役回りを立派にこなしたのは椎名悦三郎副総裁(当時)だった。小坂善太郎氏が田中訪中前に自民党議員団を引き連れて訪中したのと対照的に、椎名氏は台湾で大衆から卵をぶつけられながら蒋経国総統との会談で「日台断交」を匂わしつつ日中国交正常化後も日台関係を大事にしたいとの腹芸を演じたのだった。

 周恩来首相が台湾での椎名発言を側聞して、深夜にも拘わらず小坂氏らを人民大会堂に呼びつけて「日中正常化後も日本は台湾と国交関係を続けるつもりなのか。それでは約束が違う」と詰問した。筆者を含め同行記者団は、その事実を半日後に知り、慌てて日本に打電したことを憶えている。当時は日中両国間には電話回線はなく、つながるのに何時間もかかる予約をいれ、ようやくつながっても切れ切れに聞こえたり断絶したりで、原稿の送信は困難を極めた。仕方なくタイプライターで打ったローマ字の原稿をポラロイドカメラで写した写真とともに電報局へ持っていくのだが、写真の裏には「不清楚自己責任」(写真が乱れて電送されても電報局は責任を持たない)と書くよう求められた。フジテレビの記者で浅沼稲次郎氏の娘婿だったN氏などは英文タイプを持って来なかったので電報局の用紙に手書きのローマ字で原稿を書くのに苦労していた。

 このような送信事情の悪さが改善されたのは久野忠治郵政相(第2次田中内閣)の時代に海中ケーブルの敷設が決まってからである。田中訪中当時はまだ不十分で唯一、NECが北京に巨大なパラボラアンテナを建設してくれたのが救いだった。これは後年知ったことだが、その陣頭指揮をとったのはNECの島山博明氏(後に副社長)だった。彼は早稲田高等学院での同級生で、今も親しく交遊しているが、「貴兄はマスコミの中国報道に多大な貢献をした」とお礼を述べた。

 話がやや脱線したが、こうした田中、大平、竹入、小坂、椎名各氏ら党派を超えた政治家たちの努力で最大の戦後処理は、ようやく片がついた。だが、年末の総選挙には、そのことが全く反映しなかったように筆者には見えた。自民党と公明党の議席後退もそうだし、古井喜美(自民、鳥取全区)、川崎秀二(自民、三重1区)両氏のように日中復交に努力してきた「親中派」の落選も象徴的だった。1972年12月10日の北京発共同電は、こう報じていた。
 「北京では今回の総選挙を対中国国交正常化後の日本の政治情勢を示すバロメーターとして注目していたが、全体として今後の日中関係強化のうえでマイナスの要素が加わる結果にはならなかったと受け取っている。しかし、中国の“古い友人”である古井喜美、川崎秀二両氏の落選は大いに惜しまれている。また竹入義勝公明党委員長の苦戦は今後の日本情勢分析の対象になろう」

 田中首相本人は選挙区(新潟3区)で18万2,681票と過去最高の獲得票で当選を果たしたが、選挙全体では「田中ブーム」も「日中・パンダブーム」も起きなかったのだ。「外交は票にならない」とは、伝統的に政界で言われていた言葉である。それが1972年の「日中解散」でも実証されたわけだ。

 もともと外交では、やっている当事者(首相、外相、外務省、大使館など)と一般国民との間で大きな感覚の差が生まれるケースがある。一例を挙げれば1933年(昭和8年)2月の国際連盟総会で、リットン報告による対日勧告の採択に抗議して退場した日本代表・松岡洋右の場合。松岡個人は連盟脱退に反対で、日本出発前に会談した西園寺公望に「なんとか連盟に残れるよう全力を尽くす」旨を述べている。それだけに連盟脱退を宣言して退場した後には、国内世論を気にしてか「このまま日本に帰国するわけにもいくまい」とジュネーブからフランス、イギリス、アメリカを経由して横浜港へ帰ってきたのは約2か月後の4月27日だった。彼が乗船した浅間丸を大群衆が出迎え、埠頭は「万歳、万歳」の声で沸き立ったという。欧米列強に対する国民の不満を背に松岡は一躍、英雄になってしまった。

 この反対のケースは1905年、ポーツマス条約調印の際の小村寿太郎外相だった。日露戦争に勝利したにも拘わらずロシアから賠償金が取れなかったとして講和条件に反発した民衆は日比谷焼打ち事件を起こし、東京には戒厳令が敷かれた。

 こうした過去の例と比較して、1972年の日中国交正常化は、一部の台湾支持派を除けば自民、社会、公明、民社、共産各党が賛成で、国民も歓迎していたことだから、本来ならそうした空気が総選挙に十分反映されて良いはずだった。そうならずに、むしろ田中自民党に厳しい審判を下したところに筆者は率直なところ「国民がもう少し総合的な採点をすれば良かったのに」と思ったものだ。

 なぜなら今日の日中関係の冷え込みは、日本の国益上、好ましくない。確かに中国の南沙諸島などにおける「覇権主義」や軍事力強化は目に余るものがあり、日中共同声明当時の「覇権を求めずの精神は、どこへ行ったのだ」と言いたくなる。だが、日中、日韓という関係は、安倍首相が御執心の日露関係以上にわが国とって重要度が高い。特に2つの点が無視できない。
 一つは人口。中国の人口は現在13億9,000万人に対し日本は1億2,600万人。いずれ日本では1億人を切るだろうと言われている。もう一つは経済成長。中国はペースダウンしたとはいえ、まだ6%台の成長を維持している(実際は4.5%前後だとの見方もあるが)。それに対して日本は1997年(橋本龍太郎内閣)以来20年間、1%台が主流(2010年の4.19%、2000年の2.78%などもあるが)になっている(2017年は1.25%=IMF推計)。
 「発展を続ける中国」「衰退を続ける日本」。このことに対して安倍首相だけでなく、与野党も国民ももっと真剣に「どこに打開策があるか」を模索すべきではないか。好き嫌いは別にして、依然、発展を続けている中国に学び、国家レベル、民間レベルで関係を密にして、衰退傾向にある日本国に歯止めをかける時ではないだろうか。

 今の時点で解散・総選挙となれば、安倍首相の加計学園・森友学園問題、「共謀罪」法の強行採決、稲田朋美防衛大臣などの失言、豊田真由子衆院議員の秘書に対する暴言・暴行問題、東京都議選での大敗などが重なって、自民党は苦戦必至だ。したがって安倍首相も夏の内閣改造・党役員人事で当面をしのぎ、ロシアのプーチン大統領との折衝継続で北方領土問題に何とか風穴を開けられないかと模索しつつ、来年末までの衆院議員任期切れまでに憲法改正案をまとめて解散のタイミングを探ることになろう。

 ただ今年9月で国交正常化45周年を迎える日中関係は、一向に盛り上がりが見えてこない。それも多分に安倍・習近平両首脳の緊密度が安倍・プーチン関係ほどになっていないことが影響しているように思える。もし安倍氏が都議選での敗北を謙虚に受け止めてイメチェンを図ろうとするなら、田中・大平時代のように中国との緊密な関係を取り戻すことが一つのステップボードだろうと筆者は考えている。

 (元東京新聞論説主幹・現東京・中日新聞相談役)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧